第百四十一話「戦果」
森の木漏れ日が、俺たちの疲れ果てた体に柔らかく降り注いでいた。
脱出してようやく一息つけると思ったその瞬間、俺の視線は自然とレオナルドの右腕に吸い寄せられる。
真っ白な包帯が、まるで戦場で巻かれた応急処置のように、彼の腕を幾重にもぐるぐると覆い尽くしていた。
その包帯の奥から、かすかに赤黒い染みが滲んでいて、見ているだけで胸が締め付けられるような痛みを感じる。
「レオナルド」
俺は彼の名を呼びながら、深く、本当に深く頭を下げた。
言葉では表現しきれないほどの感謝の気持ちが、胸の奥底から湧き上がってくる。
「本当に、本当にありがとう。
君がいなければ、俺はずっと…ずっとあの状態のままだった」
声が震えそうになるのを必死で堪えながら、俺は続ける。
「君の勇気がなければ、俺は今もリリーの作り上げた偽りの世界で、幸福な夢を見続けていたかもしれない。
君が救ってくれた。命を賭けて、俺を現実に連れ戻してくれたんだ」
「当然のことをしただけです、師匠」
レオナルドの声は落ち着いていて、まるで大したことではないとでも言いたげだった。
だが、その言葉とは裏腹に、彼の右腕は痛々しいほどの包帯で覆われている。
リリーの放った光魔法…あの眩いばかりの破壊の光を、彼は自分の体で受け止めたのだ。
筋力増強薬の副作用も相まって、腕の筋肉が部分的に壊死しかけていると、治癒師から聞かされていた。
「怪我は……本当に大丈夫なのか?」
俺の声には、抑えきれない心配が滲み出ていた。
「はい。治癒魔法で応急処置は済ませました」
レオナルドは相変わらずの冷静さで答えるが、その表情には微かな痛みの影が見え隠れしている。
「完治には数ヶ月かかるそうですが、命に別状はありません。
師匠が無事だったのですから、これくらいは本当に安いものです」
その言葉に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
認識改変の指輪…あの呪われた魔具によって、俺の心は完全に書き換えられていた。
現実と虚構の境界が曖昧になり、リリーへの偽りの愛情が本物だと信じ込まされていた、あの地獄のような状態から。
レオナルドは俺を救い出すために、自分の命さえ危険に晒したのだ。
これ以上の友情が、この世界のどこにあるというのだろうか。
◇ ◇ ◇
宿の扉を開けた瞬間、俺の目に飛び込んできたのは、ソファにぐったりと横たわるアリシアの姿だった。
いや、「横たわる」という生易しい表現では足りない。
まるで生気を吸い取られた人形のように、彼女は力なくソファに沈み込んでいた。
顔色は青白く、まるで長い間日光を浴びていない地下牢の囚人のようだ。
唇は乾燥してひび割れ、かすかに血が滲んでいる。
目の下には深い、深いクマができていて、それはまるで数日間一睡もしていない者の刻印のようだった。
呼吸も浅い。
胸の上下がほとんど分からないほど、弱々しい息遣いだ。
これは体調が悪いというレベルではない。
明らかに、命の危機に瀕しているような衰弱ぶりだった。
まるで今にも、糸の切れた人形のように崩れ落ちてしまいそうな、そんな儚さを纏っていた。
「アリシア、大丈夫か?」
俺が慌てて声をかけると、彼女の瞳がゆっくりと、本当にゆっくりと俺の方を向いた。
その瞬間…
彼女の表情が、まるで魔法のように一変した。
死にかけていた目に、突然、激しい光が宿る。
それは砂漠で何日も彷徨い、死の淵を歩いていた旅人が、ようやく命の水を見つけた時のような、切実で、飢えた、そして狂おしいほどの渇望に満ちた表情だった。
いや、それ以上だ。
まるで、溺れかけている者が水面を見上げるような、生存本能むき出しの、原始的な欲求が彼女の瞳に燃え上がっていた。
「タクヤ……」
アリシアの声は震えていた。
涙が彼女の頬を伝い、まるで長い長い渇きがようやく満たされる予感に、体が震えているかのようだった。
「やっと……やっと、やっと会えました……!」
次の瞬間、彼女は獣のような速さで俺に向かって飛び込んできた。
その勢いは凄まじく、まるで飢えた肉食動物が獲物に襲いかかるような、圧倒的な力だった。
俺の体は後ろに傾き、バランスを失いそうになる。
「待って、アリシ…」
俺の言葉が最後まで続く前に、彼女の唇が俺の唇に激しく押し付けられた。
そして…
まるで命がけで水を飲む者のように、彼女は俺の唾液を、魔力を、すべてを貪り始めた。
「んーっ! んーっ! んんーーっ!」
俺が抗議の声を上げようとするが、アリシアは全く聞く耳を持たない。
彼女の舌が、まるで生き物のように俺の口の中を這いずり回る。
歯茎も、上顎も、舌の裏側も、口内のあらゆる場所を執拗に、そして貪欲に舐め回していく。
まるで一滴の魔力も逃さないように、徹底的に、狂おしいほどの情熱で。
その激しさは、いつものアリシアの比ではなかった。
まるで、長い間水を断たれた者が、ようやく見つけた泉に顔を埋めるような、生存本能が剥き出しになった貪り方だった。
彼女の顔は、もはや恍惚を超えて、完全に理性を失っていた。
目は虚ろで、しかしその奥には激しい欲望の炎が燃え上がっている。
「ん……はぁ……はぁぁ……タクヤの魔力……美味しい……甘い……濃厚……最高……」
彼女が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ唇を離して呻くように呟く。
その声は、もはや人間のものとは思えないほど、獣じみた欲望に満ちていた。
「もっと……もっとください……もっと、もっと、もっと……! 全部、全部吸わせてください……!」
そして、再び俺の唇を貪り始める。
俺の体から、魔力が音を立てるように吸い取られていくのが分かる。
まるで血を吸う吸血鬼のように、アリシアは俺の生命力そのものを啜っているかのようだった。
でも、彼女は止まらない。
止まれない。
完全に中毒症状に支配されて、理性のブレーキが壊れてしまっているのだ。
五分が過ぎた。
十分が過ぎた。
十五分が過ぎた。
アリシアは、まだ、まだキスを続けている。
その執念は恐ろしいほどで、俺の意識が朦朧としてくるのを感じる。
このままでは本当に、俺の方が倒れてしまうかもしれない。
「アリシア……もう、もう十分だろ……」
俺が必死に彼女の肩を押す。
だが、彼女の体は鉄のように固く、びくともしない。
「まだです……まだ足りません……全然足りません……!」
アリシアが俺の手を乱暴に払いのける。
その力は、普段の彼女からは想像もできないほど強かった。
「この数日間……数日間、一滴も、一滴も魔力補給ができなかったんです……!
地獄でした……本当の地獄でした……!
だから、だから、もっと……もっともっと吸わせてください……! お願いします……お願いします……!」
彼女の目は、もはや完全に理性を失っていた。
瞳孔が開き、焦点が定まらず、ただただ魔力への渇望だけが、そこに燃え上がっていた。
完全に、完全に魔力中毒の末期症状だった。
◇ ◇ ◇
ようやく、二十分が経過した頃。
アリシアがゆっくりと、名残惜しそうに俺の唇から離れた。
彼女の唇は艶やかに濡れ、まだ俺の魔力の余韻を味わっているかのように、小さく震えていた。
「はぁ……はぁ……はぁぁぁ……やっと……やっと生き返りました……」
アリシアが安堵のため息を漏らす。
その表情は、まるで砂漠から生還した者のような、深い、深い安堵に満ちていた。
そして、信じられないことが起こった。
彼女の顔色が、見る見るうちに変化していく。青白かった頬に、まるで朝日が差し込むように血色が戻っていく。乾いてひび割れていた唇が、瑞々しい艶を取り戻し、まるでバラの花びらのように鮮やかになる。目の下の深いクマも、まるで消しゴムで消されるように薄くなっていく。
「この数日間は……本当に、本当に地獄でした……」
アリシアが、まだ息を荒くしながら告白する。
その声には、深いトラウマが刻まれていた。
「タクヤの魔力がないと、私は……私は生きていけないんです。
頭が割れるように痛くて、吐き気が止まらなくて、全身の力が抜けて……立つこともできませんでした。
視界がぼやけて、耳鳴りがして、心臓がバクバクして……もう、もう死ぬかと思いました。本当に、本当に死ぬかと……」
そうだった。
アリシアは定期的に俺とキスをして、魔力を補給していた。
それは彼女にとって、食事や睡眠と同じくらい…いや、それ以上に重要な生命維持活動だったのだ。
俺がリリーと一緒にいた数日間、彼女はその機会を完全に失っていた。
結果として、彼女の体は魔力枯渇による深刻なダメージを受けていたのだ。
完全に、完全に魔力中毒の症状だった。
薬物中毒者が禁断症状に苦しむように、アリシアは魔力不足による地獄の苦しみを味わっていたのだ。
「ごめん、アリシア」
心から謝罪した。
胸が痛んで仕方がない。
「気づかなくて。君がこんなに苦しんでいたなんて……」
「いえ、タクヤは悪くありません」
アリシアが首を横に振る。
だが、その目には涙が滲んでいた。
「悪いのは……悪いのは、タクヤを誘拐したあの女です。あの、あのリリーという女です」
彼女の目に、一瞬だけ、燃えるような憎悪の炎が宿る。
それは、愛する者を奪われた女性の、原始的で純粋な敵意だった。
リリーへの殺意にも近い憎しみが、はっきりと見て取れた。
◇ ◇ ◇
ミスティは、部屋の隅で小さく縮こまっていた。
彼女の体は小刻みに震えていて、まるでカリオペラのトラウマが蘇っているかのようだった。
あの狂気の魔神に出会った恐怖が、まだ彼女の心に深く刻まれているのだろう。
でも…
よく見ると、その瞳には、いつものミスティらしい挑発的な光も宿っている。
怯えているようで、でもどこか俺の反応を楽しんでいるような、そんな複雑な表情だった。
「ミスティ、どうした?
何かあったのか?」
「あんた……知らないの?」
ミスティが震え声で答えた。でも、その声には、どこか俺を馬鹿にするようなニュアンスが混じっていた。
まるで「本当に気づいてないの? ねえ、どんだけ鈍感なの?」と言いたげな、そんな挑発的な響きが含まれていた。
「あんたがイチャイチャしてる間にね……とんでもないことになったのよ」
ミスティはわざとらしく、芝居がかった口調だった。
「プロイシェン王国が……ね」
彼女の言葉を聞いて、俺の背筋に嫌な予感が走る。
まるで氷の刃が背中を撫でるような、冷たい悪寒が全身を駆け巡った。
「プロイシェン王国が……どうした?」
「滅んだのよ」
ミスティが冷たく言い放った。
でも、その表情には、どこか俺の反応を楽しんでいるような様子があった。
目が微かに輝いていて、まるで「ほらほら、驚いた? ショック受けた? もっと慌てなさいよ」と言いたげな、メスガキ特有の意地悪な笑みが口元に浮かんでいた。
「まさか……あんた本当に、本当に知らなかったの?」
ミスティが俺の顔を覗き込んだ。
「呑気にイチャイチャしてる間に、何百万人が死んだのよ。何百万人。分かる? その数の重さ、理解できる?」
「あんたのせいじゃないけど、でも……でもちょっとは責任感じたら? ねえ?」
ミスティの言葉は、まるで針のように俺の心を刺す。
彼女は、わざと、明らかにわざと俺を傷つけるような言い方をしているのだ。
でも、その目の奥には、涙が滲んでいるのも見えた。
彼女も、プロイシェン王国の滅亡にショックを受けているのだ。
ただ、それを隠すために、俺を攻撃しているだけなのかもしれない。
その言葉を聞いて、俺は完全に凍りついた。
プロイシェン王国が……滅んだ?
あの強大な王国が?
エルリックが仕えていた、セリア大陸最大の、数百万の民を抱える巨大王国が?
「いつだ? いつ滅んだんだ?」
声が上ずってしまった。
「あんたがリリーといちゃついてる間よ」
ミスティが冷たく、でもどこか楽しそうに答える。
その声には、明らかに俺を責めるニュアンスが込められていた。
「昨日の夕方頃ね。ちょうど、あんたがラブラブしてる時間。あんたが幸せの絶頂にいた、まさにその時間よ。何百万人が死んでる時に、あんたは恋人とイチャイチャ。素敵よね。ロマンチックよね」
「ねえ、どんな気分? 今、どんな気持ち? 教えてよ」
ミスティの言葉は、容赦なく俺の心を抉る。
まるで鋭利なナイフで心臓を切り刻まれるような痛みが、胸の奥から広がっていく。
俺がリリーと愛の巣で過ごしている間に、プロイシェン王国が滅んでいたのか。
クロウの天啓…あの予言めいた警告は、やはり的中していたのだ。
でも、俺は彼の言葉を無視して、リリーとの偽りの愛に溺れていた。認識改変されていたとはいえ、俺は……
「原因は何だ?何が王国を滅ぼしたんだ?」
詳しく知らなければ、次は俺たちかもしれない。
「分からないわ」
でも、その表情は、どこか俺の動揺を楽しんでいるようだった。
「ただね、滅ぶ直前に、この辺りの魔力が突然跳ね上がったのよ。
まるで、世界が終わるんじゃないかってくらい」
「魔力が?」
「そう」
ミスティが頷く。
その動作は、わざとゆっくりとしていて、まるで俺の反応を一つ一つ楽しんでいるかのようだった。
「あたいにも感じられるほど、強力な魔力の波動があったの。空気が震えて、地面が揺れて、まるで世界が悲鳴を上げてるみたいだった」
「きっと、魔神の仕業ね。間違いないわ」
「でも、あんたは気づかなかったんでしょ? イチャイチャしてたから。幸せすぎて、世界の悲鳴が聞こえなかったのよね」
ミスティの言葉は、容赦なく俺を責め続ける。
魔神による王国の滅亡。
それは、モルデイン王国の時と同じパターンだった。
でも、今回は規模が違う。
プロイシェン王国は、モルデインの何倍もの人口を抱える大王国だったのだ。
「目撃者は……いるのか?」
俺はもっと詳しく真実を知りたくなった。
でも同時に、知りたくない。
その矛盾した感情が、胸の中で渦巻いている。
「いるわよ」
その声は、まるで恐怖物語を語る語り部のように、抑揚に富んでいた。
「滅亡の直前に、王都近くで気さくな男の人を見たって証言があるの。
すごく親しみやすくて、フレンドリーで、誰とでも仲良くなれそうな、そんな雰囲気の人だったって」
「それから、王国全体が一瞬で消滅したんだって。建物も、人も、木も、石も、すべてが灰になったそうよ。まるで、神様が世界から消しゴムで消したみたいに」
「生存者は、王都の外にいたほんの数千人だけ。運良く、たまたま外出してた人たちだけ」
気さくな男。
その表現を聞いて、俺の頭に一人の人物の顔が鮮明に浮かんだ。
テレサスニカだ。
人族の魔神で、確かに気さくでフレンドリーな性格をしていた。
初対面の人間とも、すぐに打ち解けられるような親しみやすさを持っていた。
でも、その笑顔の裏に隠された本性は、残酷で、冷酷で、そして恐ろしく危険だった。
オルテンシアの家族を皆殺しにした張本人でもある。
「それだけじゃないわよ」
その声には、どこか俺の反応を試すような響きがあった。
「プロイシェン王国が滅んだことで、セリア大陸全体が大混乱に陥ってるの。難民が数十万人規模で周辺国に流れ込んでる。食料不足、治安悪化、疫病の流行。もう、地獄よ」
「戦争が始まるかもしれないって噂もあるわ。周辺国同士で、難民の押し付け合いが始まってるの」
その言葉を聞いて、俺は愕然とした。
王国の滅亡は、単独の悲劇では終わらない。
それは、周辺国全体に、連鎖的な災厄をもたらすのだ。
まるでドミノ倒しのように、破滅が広がっていく。
「周辺の小国は、難民を受け入れる余裕がないから国境を封鎖してるの」
「でも、難民は必死で逃げてくるから、国境で衝突が起きてる。兵士と難民が殺し合ってるのよ。
死者は、すでに数万人に達してるって話。そして、その数は毎日増え続けてる」
ミスティの言葉が、俺の心に重くのしかかる。
もし、本当にテレサスニカがプロイシェン王国を滅ぼしたとしたら…。
俺は、身震いした。
また、あの狂った魔神と関わることになるのかもしれない。
でも、今の俺には、そんな戦いに挑む気力がない。クロウを失い、リリーに騙され、心身共に疲れ果てている。
できれば、もう魔神とは関わりたくない。
「あんた……逃げるの?」
その声は、まるで俺の心を試すかのように、挑発的で鋭かった。
「また、誰かが死ぬまで放置するの? クロウみたいに」
その言葉が、俺の心を深く、深く傷つけた。
まるで胸に槍を突き刺されたような痛みが走る。
「ミスティさん」
レオナルドが、彼女を制止しようとする。
「そこまでにしましょう」
「何よ、本当のことでしょ」
ミスティが反論する。
でも、その目には涙が浮かんでいた。
彼女も、プロイシェン王国の滅亡にショックを受けているのだ。
ただ、それを隠すために、俺を攻撃しているだけなのかもしれない。
「とにかく」
レオナルドが建設的に言う。
彼の声は、いつものように冷静で落ち着いていた。
「プロイシェン王国が滅んだことで、海禁令は実質的に解除されました。王国の役人が全滅したため、もう誰も禁令を執行できません。船の運行も再開しています」
それは、この絶望的な状況の中で、数少ない良いニュースだった。
ようやく、ヴェリア大陸に帰ることができる。
愛する家族のもとに。
「急いで帰ろう」
でも、その言葉には、どこか逃げるようなニュアンスが含まれていた。
自分でもそれが分かる。
俺は、魔神との戦いから逃げようとしているのだ。
◇ ◇ ◇
その夜、マルクスとセレナが宿にやってきた。
「タクヤ、無事で良かった」
マルクスが俺の肩を力強く叩く。
その手には、友情の温かさが込められていた。
「本当に心配したんだぞ。お前が行方不明になった時、僕たちはどれだけ…」
「ありがとう、マルクス」
俺が彼の言葉を遮って答える。
「君の射撃がなければ、俺は今でもリリーの虜だった。あの正確無比な一撃が、俺を救ってくれたんだ」
「それは、レオナルドの功績だ。
俺は、ただ矢を放っただけだ。勇気を出したのはレオナルドだし、計画を立てたのもレオナルドだ」
セレナが、豪華な料理を山のように持ってきてくれた。
その香りが部屋中に広がり、空腹だった俺たちの胃袋を刺激する。
「みんなで食べましょう」
彼女の優しさは、母親のような温かさを感じた。
「タクヤの無事を祝って。そして、これからの航海の安全を祈って」
宿の食堂に、俺たちは円卓を囲んで集まった。
レオナルド、ミスティ、アリシア、マルクス、セレナ、そして俺。
六人での、賑やかで温かい食事会が始まった。
「じゃあ、乾杯」
マルクスが大きなジョッキを高く掲げる。
エールの泡が、照明の光を反射してきらきらと輝いている。
「タクヤの無事と、これからの航海の成功を祈って」
「乾杯」
全員が声を揃える。
ジョッキが鳴り響き、エールの泡が弾け、笑い声が食堂に響き渡る。
料理は、目を見張るほど豪華だった。
艶やかに焼き上げられたローストビーフは、ナイフを入れるとピンク色の断面が現れ、肉汁が滴り落ちる。
香草をまぶして丁寧にグリルされたチキンは、皮がパリパリと黄金色に輝いている。
海の幸をふんだんに使ったシーフードパスタは、ハグやケル、貝類が宝石のように盛り付けられていて、ガーリックとオリーブオイルの香りが食欲をそそる。 新鮮な野菜サラダは色とりどりで、まるで虹のようだ。
チーズの盛り合わせには、熟成されたゴーダやブルーチーズ、クリーミーなカマンベールが並び、焼きたてのパンからは湯気が立ち上っている。
「すごい量だな」
テーブルが料理で埋め尽くされていた。
「セレナが頑張ってくれたんだ」
その声には、良きパートナーへの誇らしさが滲んでいた。
「お前のために、朝から準備してくれたんだぞ」
「ありがとう、セレナ」
「いいのよ」
セレナが柔らかく微笑む。
その笑顔は、まるで聖母のように優しかった。
「あなたが無事で、本当に良かった。それだけで十分よ」
食事が始まると、場は一気に盛り上がった。
「レオナルド、お前の右腕、本当に大丈夫なのか?」
マルクスが心配そうに、包帯の巻かれた腕を見つめながら聞く。
「ええ、何とか動きます」
だが、その表情には微かな痛みの影が見える。
「完治には時間がかかりますが、師匠を救えたので後悔はありません。
これくらいの傷は、友人にとっては勲章のようなものです」
その言葉を聞いて、マルクスが感心したように大きく頷く。
「お前は、本当に立派な友人だな。タクヤは、良い弟子を持ったものだ」
一方、アリシアは食事の合間にも、執拗に俺にキスをしてくる。
まるで呼吸をするように、自然に、そして頻繁に。
「タクヤ、あーん」
彼女が柔らかく煮込まれた肉の一切れを、フォークに刺して俺の口元に運ぶ。
その動作は優雅で、まるで貴族の侍女のようだった。
「ありがとう、アリシ…」
俺が言い終わる前に、アリシアが素早く身を乗り出して、俺の唇にキスをする。
「んっ」
「魔力補給です」
アリシアが当然のようにキスをした。
その表情は真剣そのものだった。
「食事の合間にも、こまめに補給しないと。魔力は常に循環させておかないと、また枯渇してしまいます」
「さっき、たくさん吸っただろ」
少し困惑しながら抗議した。
「あれでは足りません」
アリシアが首を横に振る。
その動作は断固としていた。
「数日分の不足を取り戻すには、もっともっと必要なんです。
少なくとも、今日一日は継続的に補給し続けないと」
そして、また俺にキスをする。
今度は少し長めに、舌を絡めながら。
「ちょっと、みんなの前だぞ」
「構いません」
アリシアが堂々と、むしろ誇らしげに答える。
「タクヤの魔力は、私の生命線ですから。
人前だろうと、どこだろうと、必要な時に補給するのは当然のことです」
周りのみんなが、苦笑いしている。
もう慣れたという表情だ。
ミスティが、わざとらしく大げさに咳払いをする。
「あー、イチャイチャしてるねー」
彼女が挑発的に、でもどこか羨ましそう…
その声には、複雑な感情が入り混じっていた。
羨ましそう…!?
「いいねー、恋人がいる人は。毎日キスし放題で。幸せだねー。あたいなんて、一人ぼっちなのに。誰もキスしてくれないのに」
「ねえ、タクヤ? 責任取ってくれない?」
???
彼女の目が、いたずらっぽく輝く。
「え?」
「だって、あんたのせいであたい、怖い思いたくさんしたし」
ミスティがわざとらしく涙を浮かべる。
でも、その涙は明らかに演技だった。
「カリオペラに襲われて、トラウマになったし。夜も眠れないの。だから、慰めてよ。
責任取ってよ」
「そういう冗談は」
「あれ? 冗談だと思ってるの?」
ミスティが意地悪そうに、でもどこか真剣な目で笑う。
「本気かもしれないのに。あたい、本当はあんたのこと…」
彼女がそこまで言いかけて、急に口を噤む。
顔が微かに赤くなっている。
「生意気だなあ」
マルクスは呆れているようだ。
「でも、それがミスティの良いところだ」
ミスティは料理を食べる時も、チラチラと俺の方を見ている。
ローストビーフを一口食べては俺を見て、パンを齧っては俺を見て、まるで俺の反応を伺っているかのようだった。
そして、俺がアリシアとキスをする度に、彼女の表情が微妙に歪む。
それは嫉妬とも、羨望とも、寂しさともつかない、複雑な感情の現れだった。
「ねえ、タクヤ」
ミスティが突然、フォークを置いて言った。
「あんた、アリシアとばっかりイチャイチャしてないで、たまにはあたいにも優しくしてよ」
「優しく?」
「そう」
ミスティが頬を膨らませる。
その仕草は、まるで子供のようだった。
「あたいだって、頑張ったんだから。
あんたを探すのに、あたいだって協力したんだから」
「それは分かってる。
だから、感謝してる」
「感謝だけ?」
どこが不満なんだろうか?
「他には何もないの? あたいのこと、どう思ってるの?」
その質問に、俺は一瞬言葉に詰まる。
「大切な……仲間だと思ってる」
「仲間かぁ」
ミスティは少し寂しそうに見えた。
でも、すぐにいつもの挑発的な笑みを浮かべる。
「まあ、いいけどね。今はね。
でも、いつかあたいのこと、もっと特別に思ってくれるようになるかもよ?」
彼女がウインクする。
その仕草は可愛らしく、でもどこか切なかった。
セレナが、みんなにデザートを配り始める。
彼女の手際は見事で、まるでプロの給仕人のようだった。
「はい、みんな食べてね」
甘いケーキと、色とりどりの果物の盛り合わせ。
ケーキは三層になっていて、クリームとイチカが贅沢に使われている。
果物は、リンク、オレソヅ、フトウ、そして珍しい南国のフルーツまで並んでいた。
「美味しいです」
レオナルドから感動と言う言葉が滲み出ている。
その表情は、まるで子供のように無垢だった。
「こんな美味しいデザート、初めて食べました」
「本当? 良かった」
セレナが嬉しそうに微笑んだ。
アリシアは、デザートを食べる俺の口を、じっと、本当にじっと見つめている。
まるで、俺の唇の動き一つ一つを記憶しようとしているかのようだった。
そして、俺がケーキを飲み込んだ瞬間、彼女は待っていましたとばかりに俺にキスをする。
「んっ、アリシア」
「甘い魔力ですね」
アリシアが恍惚とした、まるでトランス状態に入ったかのような表情で言う。
「タクヤの魔力に、ケーキの甘さが混ざって……もう、最高です。天国です。
これ以上の幸福はありません」
「完全に中毒だな」
マルクス…笑うな。
「でも、羨ましいな。こんなに愛されてるタクヤが」
ミスティが、わざとらしく溜息をつく。
「あーあ、あたいもこんな風に愛されてみたいなー」
彼女がチラリと俺を見る。
その視線には、明らかに意味が込められていた。
「誰か、あたいを愛してくれる人、いないかなー。
できれば、強くて、優しくて、ちょっと鈍感な人がいいなー」
その言葉に、マルクスとセレナが意味ありげな笑みを浮かべる。
食事会は、深夜まで続いた。
みんなで笑い、語り、時には真剣な話もした。
プロイシェン王国の滅亡について。
魔神の脅威について。
これから俺たちがどうすべきか。
でも、最終的には、希望に満ちた雰囲気で終わった。
「また会おう」
「今度は、もっと平和な時に。戦いのない、穏やかな時に」
「必ずだ」
セレナも、俺たちを温かく見送ってくれた。
「気をつけてね」
彼女が心配そうに、でも励ますように言ってくれた。
「まだまだ危険がいっぱいよ。でも、あなたたちなら大丈夫。家族が待ってるから。
その想いが、きっとあなたたちを守ってくれるわ」
確かに、魔神の脅威は去っていない。
むしろ、プロイシェン王国の滅亡によって、より深刻になっているかもしれない。
でも、今は家族に会いたい気持ちが、何よりも強く俺の心を支配していた。
◇ ◇ ◇
二ヶ月の長い船旅を経て、俺たちはついにヴェリア大陸の港に到着した。
その二ヶ月間、アリシアは文字通り、一日中俺にキスを続けていた。
朝、目が覚めた瞬間。
まだ意識が朦朧としている俺に、アリシアは容赦なくキスをしてくる。
「おはようございます、タクヤ。
魔力補給の時間です」
朝食の前。
食堂に向かう廊下で、突然俺の腕を掴んでキス。
「空腹時の魔力は特に美味しいんです」
朝食の後。
食器を片付ける俺の背後から抱きついて、キス。
「食後の魔力は、消化を助けてくれます」
昼食の前。
甲板で海を眺めている俺に近づいて、キス。
「海風と魔力の組み合わせは最高です」
昼食の後。
船室で休んでいる俺の隣に座って、キス。
「午後の魔力補給は欠かせません」
夕食の前。
夕日を見ている俺の横顔にキス。
「夕暮れ時の魔力は、特別な味がします」
夕食の後。
星空の下で、長い長いキス。
「夜の魔力は、一日の疲れを癒してくれます」
寝る前。
ベッドに入った俺に覆いかぶさって、キス。
「就寝前の魔力補給は、良い夢を見るために必要です」
夜中に目が覚めた時も。
暗闇の中で、アリシアの気配を感じて目を開けると、彼女が俺の顔を覗き込んでいる。
「目が覚めましたね。では、深夜の魔力補給を」
もう、俺の唇は完全にアリシアの専用になっているようだった。
彼女以外の誰も、俺の唇に触れることは許されない。それは、まるで彼女の所有物であるかのように。
「アリシア、少しは休まないと…君の体が持たないぞ」
「大丈夫です」
その目は、魔力への渇望で輝いていた。
「タクヤの魔力があれば、私は無敵です。疲れも、痛みも、すべて消えます。
それに、数日間の不足を取り戻さないと。まだまだ足りません。全然足りません」
もはや、キス中毒を超えて、キス依存症のレベルだった。
いや、それすら超えて、魔力なしでは生きられない体になってしまっているのかもしれない。
船員たちは、俺たちを見て苦笑いしていた。
「あの二人、一日中キスしてるな」
「ああ、もう数えるのも諦めた」
「一日百回以上はしてるぞ」
「愛し合ってるんだな」
いや、違う。
これは愛ではなく、依存だ。
でも、俺にはそれを止める力がなかった。
◇ ◇ ◇
懐かしい港の風景が、俺の心を深く、深く温めてくれる。
木造の桟橋、停泊している小さな漁船、遠くに見える町の建物、そして緑豊かな森。
ここは、俺の第二の故郷だ。
愛する家族が待つ、かけがえのない場所だ。
船から降りると、俺たちはエルフの村に向かって歩き始めた。
一日歩いて、ようやく村の入り口に到着する。
足は疲れていたが、心は喜びで満たされていた。
俺は、久しぶりに会う家族の姿を見ようとした。
でも、アリシアがずっとキスを続けているため、視界が完全に遮られてしまう。
「アリシア、ちょっと」
俺が彼女の肩を軽く押して、顔を横に向ける。
その瞬間、俺の胸が熱くなった。
目頭が熱くなり、涙が溢れそうになる。
家の前で、みんなが楽しそうに、幸せそうに過ごしている。
ルナがリオネルを優しく抱いて、微笑んでいる。
彼女の笑顔は、太陽のように温かく、見ているだけで心が癒される。
リオネルは、母親の腕の中で安心しきった表情で、小さな手を動かしている。
エリカがアナスタシアをあやしている。
彼女の元気な声が、遠くまで響いている。「ほら、お花だよー」「きれいでしょー」という明るい声。
アナスタシアが、嬉しそうに笑っている。
クロエとオルテンシアが、庭のベンチで何かについて話し込んでいる。
クロエが照れたように顔を赤らめ、オルテンシアが豪快に、腹の底から笑っている。
二人の友情が、見ていて微笑ましい。
ユリエルは、少し離れた木陰で本を読んでいる。
でも、時々、家族の様子を気にして顔を上げている。
その表情は、ツンとしているようで、でもどこか優しかった。
ミミは、庭で花に水をやっている。
彼女の尻尾が、嬉しそうに、リズミカルに揺れている。
「お花さん、大きくなってる」と話しかけている声が聞こえる。
平和で温かな光景だった。
俺が長い間、本当に長い間求めていた、家族の団らんがそこにあった。
「みんな」
俺が声をかける。
その声は、感動で少し震えていた。
その瞬間、全員が俺の方を振り向いた。
「タクヤさん!」
ルナが、目を大きく見開いて驚く。
その瞳に、涙が滲む。
そして、リオネルを大切に抱いたまま、俺に向かって駆け出してくる。
その姿は、まるで夢のように美しかった。
「おかえりなさい! おかえりなさい!」
ルナが涙を流して叫んだ。
「本当に、本当におかえりなさい!
心配しました……ずっと、ずっと心配していました……」
彼女が俺に抱きついてくる。
リオネルが、俺とルナの間に挟まれて、きょとんとした表情をしている。
「パーパ?」
リオネルが俺を見上げて、不思議そうに言った。
「そうだ、パパだよ」
俺が息子の柔らかい髪を優しく撫でる。
「大きくなったな、リオネル。
パパがいない間に、こんなに成長して」
エリカも、アナスタシアを抱いて全力で駆けつけてくる。
その勢いは、まるで突風のようだった。
「タクヤ、おかえり!」
彼女が元気よく、涙声で叫んだ。
「寂しかったんだから!
すごく、すごく寂しかったんだから!」
「ただいま、エリカ」
アナスタシアが、俺に向かって小さな手を伸ばしてくる。
「あうあう」
彼女が可愛らしい声を上げる。
「おお、アナスタシア」
俺が彼女を優しく抱き上げる。
小さな体が、俺の腕の中で温かい。
「パパを覚えててくれたか。良い子だな」
クロエが、顔を真っ赤にしながら、照れくさそうに近づいてくる。
「…お、…おかえりなさい…」
彼女が頬を赤らめながら、風で消えそうな声で呟いた。
「…待ってたんで…す。ずっと、ずっと待ってた…」
「ただいま、クロエ」
俺が片腕で彼女を抱きしめる。
彼女の体が、嬉しそうに震えている。
オルテンシアが、豪快に俺の背中を叩く。
その一撃は、まるでハンマーのように重かった。
「あっ、タクヤ! 帰ってきたのね!
さすがレーヴェン家であるアタシの旦那さんだわ!」
「ああ、何とかな」
ユリエルが、本を丁寧に閉じて、ゆっくりと近づいてくる。
その歩き方は、わざと冷静を装っているようだった。
「……別に、心配なんてしてない……けど」
彼女がツンとして、顔を横に向けながら言った。
「でも……無事で良かった……本当に」
「ありがとう、ユリエル」
俺が彼女の頭を優しく撫でる。
「べ、……別に嬉しくないよ……」
ユリエルは顔を真っ赤にしているから、誰が見たって嬉しそうだ。
「勘違い……しないで」
ミミが、水の入ったジョウロを置いて、俺の足に飛びついてくる。
「タクヤにぃ、おかえり!
ミミ、寂しかった! すごく、すごく寂しかった!」
「ただいま、ミミ」
俺が彼女を優しく抱き上げる。
みんなが、俺を囲んで笑顔を見せてくれる。
この瞬間、俺は心の底から幸せだと感じた。
涙が溢れそうになるほど、幸せだった。
これが、俺の家族だ。
血の繋がりを超えた、運命と選択で結ばれた、深い絆で繋がった本当の家族。
「タクヤさん」
ルナが俺の手を両手で包み込むように握る。
その手は温かかった。
「お疲れ様でした。本当に、本当にお疲れ様でした」
「ゆっくり休んでください。今日は、タクヤさんの好きな料理をたくさん作りますから」
「ああ、みんなに会えて、本当に良かった」
◇ ◇ ◇
その夜、俺たちは家族全員で、長いテーブルを囲んで食事を取った。
ルナが作った料理は、いつものように、いや、いつも以上に美味しかった。
温かいスープは、野菜の甘みが溶け込んでいて、一口飲むだけで体が温まる。
柔らかい肉料理は、口の中でほろほろと崩れて、肉汁が溢れ出す。
新鮮な野菜サラダは、シャキシャキとした食感で、ドレッシングの酸味が絶妙だ。
焼きたてのパンは、外はカリッと、中はふわふわで、バターが染み込んで黄金色に輝いている。
すべてが、俺の疲れた心と体を優しく、丁寧に癒してくれる。
エリカが子供たちを楽しそうにあやし、クロエが照れながらも嬉しそうに俺の様子を気にしている。
オルテンシアが大きな声で豪快に笑い、ユリエルがダウナーなツンデレな態度を見せながらも、チラチラと俺を見ている。
ミミが俺の膝の上で甘え、尻尾を俺の足に巻きつけている。
アリシアは、食事の合間にも、相変わらず俺にキスをしてくる。
「タクヤ、魔力補給です」
「アリシア、さっきもしただろ」
「足りません。まだまだ足りません」
もう、諦めるしかなかった。これが彼女の愛情表現なのだから。
レオナルドとミスティも、家族の一員として温かく迎えられていた。
「レオナルドさん、怪我は本当に大丈夫ですか?」
ルナが心配そうに、包帯の巻かれた腕を見つめながら聞いた。
「はい、おかげさまで順調に回復しています」
「ミスティちゃんは、どこから来たの?」
エリカが興味津々に、目を輝かせながら聞いた。
「セリア大陸よ。
でも、今はここにいるわ。あんたたちと一緒に」
みんなで笑い、語り、幸せな時間を過ごす。
リオネルが、俺の膝の上で眠ってしまう。
その寝顔は、天使のように穏やかだった。
アナスタシアも、エリカの腕の中で静かに、規則正しい寝息を立てている。
俺は、この瞬間を永遠に続けたいと思った。
でも、心の奥底では分かっていた。
まだ、すべてが終わったわけではない。
ハルカの脅威は残っているし、他の魔神たちもいる。
クロウを失った悲しみも、まだ完全には癒えていない。
プロイシェン王国の滅亡による混乱も、これからセリア大陸全体に広がっていくだろう。
リリーの執着も、まだ消えていない。
認識改変の指輪を失っても、彼女の俺への異常な愛情は残っているはずだ。
それでも、今夜だけは、家族との再会を純粋に、心の底から喜びたかった。
明日からの戦いのことは、明日考えればいい。
今は、愛する家族と一緒にいることができる幸福を、この上ない幸せを、心から味わいたかった。
俺は、みんなの笑顔を一人一人、丁寧に見つめた。
この笑顔を守るために、俺は戦い続ける。
何があっても、どんな困難が待っていても、この家族を失わないために。




