表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
147/152

第百四十話「狂気の檻からの救出」

 

 暖炉の炎が揺らめく中、リリーの柔らかな体温が俺の胸板に心地よく伝わってきていた。

 彼女の絹のような桃髪を指先で梳きながら、俺は至福の時間に身を委ねていた。

 この世界に二人だけが存在しているかのような、甘美で完璧な瞬間……そう、それは余りにも完璧すぎる幸福だった。


「タクヤ…大好き、かな♡」


 リリーが俺の首筋に顔を埋めながら、吐息混じりに囁いてくる。

 その声は蜜のように甘く、俺の心を優しく包み込んでいく。

 彼女の唇が肌に触れる度に、電流のような快感が背筋を駆け抜けていった。


「ああ、俺もだ。リリー、お前が世界で一番大切だ」


 俺は彼女の華奢な肩を抱き寄せながら、そう囁き返した。

 リリーの体が小刻みに震え、喜びで頬を紅潮させているのが分かる。

 この美しい少女を永遠に離したくない……心の底からそう思っていた。




 ◇ ◇ ◇




 だが、その幸福な時間は、突如として引き裂かれることになる。


 ガァンッ!!


 轟音と共に、玄関の扉が蝶番ごと吹き飛んだ。

 重厚な木製の扉が宙を舞い、壁に激突して粉々に砕け散る。

 木片が四方八方に飛び散り、その破片が床に突き刺さる音が室内に響き渡った。


「……ッ!?」


 俺とリリーは反射的に振り返った。

 立ち上る土煙の向こうに、一つの人影が浮かび上がる。


 そこに立っていたのは、レオナルドだった。


 だが、俺の知る彼の姿ではなかった……全身が汗と返り血で濡れそぼり、魔法大学の制服は無数の切り裂かれた跡で原型を留めていない。

 顔面には生々しい切り傷が無数に走り、唇は裂けて血が顎まで滴り落ちている。

 明らかに、この場所にたどり着くまでに、想像を絶する死闘を繰り広げてきたのだろう。


 そして何より、彼の瞳に宿る光が違っていた。

 普段の穏やかな眼差しは消え失せ、そこにあるのは死を覚悟した者だけが持つ、研ぎ澄まされた狂気じみた決意の光だった。

 血走った白目、荒く乱れた呼吸、そして固く握りしめられた拳……まるで地獄の業火を潜り抜けてきた修羅のような姿だった。


「師匠」


 レオナルドが、低く震える声で俺を見据えながら言った。

 その声には、絶対に諦めないという鋼の意志が込められている。


「迎えに来ました」

「迎え…? 何を言っているんだ、レオナルド」


 迎えとは、一体何のことだろう。

 俺はここで、愛するリリーと共に平穏な時を過ごしているだけだ。

 何一つ問題などないはずなのに、なぜ彼はそんなに必死な顔をしているのか、全く理解できなかった。


 その時だった。


「……邪魔者、かな♡」


 リリーの声が、氷点下の冷気を孕んで響き渡った。

 さっきまでの甘く優しい声音は、跡形もなく消え失せていた。

 代わりに聞こえてきたのは、凍てつくような殺意を秘めた、底知れぬ狂気の声だった。


 彼女の表情が、見る見るうちに変貌していく。

 愛らしい恋人の微笑みは消え失せ、代わりに浮かび上がったのは、獲物を前にした肉食獣のような鋭利な敵意だった。

 碧眼が血走り、口角が不自然なほどに吊り上がっている。

 まるで愛する玩具を奪われかけた子供が、全世界を敵に回してでもそれを守ろうとするような、狂おしいまでの執着が滲み出ていた。


「タクヤは…わたしのものかな♡」


 リリーがゆっくりと立ち上がり、俺とレオナルドの間に立ちはだかった。

 その小柄な体から、信じられないほど濃密な魔力が溢れ出し始める。


 室内の空気が激しく震動し、ビリビリという耳障りな音が響き渡った。

 壁にひび割れが走り、床板が軋んで悲鳴を上げる。

 窓ガラスが音を立てて次々とひび割れ、やがて砕け散って外へと散らばっていく。

 暖炉の上に飾られていた装飾品が激しく震え、床に落ちて粉々に砕けた。


 これは単なる魔力の暴発ではない……感情の高ぶりと共に、彼女の内に秘められた途方もない魔力が解放されようとしているのだ。


 空間が歪んで見える。

 魔力の密度が余りにも濃すぎて、光が屈折しているのだ。

 リリーの周囲に陽炎のような揺らぎが生まれ、まるで彼女だけが異世界に存在しているかのような錯覚を覚えさせる。


「誰にも…誰にも渡さないかな♡

 絶対に、死んでも、殺してでも」


 リリーの声が、だんだんとヒステリックな響きを帯びていく。

 その声は甲高く震え、狂気と執着が渦巻いていた。


「世界を敵に回しても…宇宙が滅んでも…タクヤだけは…わたしだけのもの、かな♡」


 彼女の言葉の端々から、常軌を逸した愛情が溢れ出していた。

 それは愛と呼ぶには余りにも歪で、余りにも狂っていた……だが、リリーにとっては紛れもない真実の愛なのだ。


 レオナルドは、リリーから放たれる尋常ならざる殺気を感じ取って、全身を緊張させた。

 額から冷や汗が滝のように流れ落ち、喉がゴクリと音を立てて動く。


 この少女の魔力は、彼の想定を遥かに超えていた。

 下手をすれば、ここで命を落とすかもしれない。

 いや、間違いなく危険だ。

 一撃でも食らえば、跡形もなく消し飛ばされるだろう。


 だが……それでも、彼の目には諦めの色など一片たりとも浮かんでいなかった。



 彼には使命がある。

 師匠を救うという、何があっても諦めることのできない絶対の使命が。

 たとえ自分の命と引き換えになろうとも、師匠だけは必ず救い出す。

 それが、弟子としての、そして一人の人間としての彼の矜持だった。



「師匠、これは洗脳です!」


 レオナルドが必死の形相で叫んだ。

 その声は切迫していて、魂の叫びのようだった。


「左手の指輪を見てください! あの指輪が師匠の認識を操っているんです!

 これは本当のあなたの心じゃない!」

「指輪…?」


 俺は言われるままに、自分の左手を見下ろした。

 確かに、見覚えのない銀色の指輪が薬指にはまっている。

 繊細な装飾が施された、美しい指輪だった。


 だが……だから何だというのか。


「だから何だ。俺は心の底からリリーを愛している。指輪など関係ない」


 冷たく言い放った。

 その言葉に、一片の迷いもなかった。

 リリーこそが俺の全てであり、世界の中心なのだから。


 その瞬間、レオナルドの顔が絶望の色に染まった。



 尊敬する師匠に、完全に拒絶されたのだ。

 彼の唇が震え、目尻に涙が浮かぶ。

 だが、彼は必死にその涙を堪えた。

 今は、感傷に浸っている時ではない。

 どれだけ心が引き裂かれようとも、前に進まなければならないのだ。

 


 一方、リリーは狂喜に打ち震えていた。


「そう…そうかな♡ タクヤは…わたしを選んでくれるかな♡」


 彼女の碧眼が、狂気と陶酔に濡れて妖しく輝いている。

 頬は紅潮し、唇は恍惚に震え、全身が喜びで小刻みに震えていた。


「この邪魔者を…消せば…ずっと、ずっと、永遠に一緒にいられるかな♡」


 リリーの両手に、眩い光が収束し始めた。

 それは太陽の光を凝縮したかのような、目を灼くほどの輝きだった。


「光の精霊よ…我が狂おしい愛に従い…この世の邪悪を払いたまえ。聖なる裁きの光よ…わたしの愛を阻む全てを…灰燼に、帰せ」


 詠唱と共に、リリーの手に巨大な光球が出現した。

 それは、彼女が普段使う光魔法の数十倍……いや、百倍以上の大きさだった。

 感情の爆発と共に、魔法の威力が異常なまでに増幅されているのだ。


 光球の周囲では、熱で空気が激しく揺らめいている。

 その表面温度は、おそらく数千度に達しているだろう。

 直撃すれば、一瞬で蒸発してしまうほどの破壊力だ。


「死んじゃえ、かな♡ 消えちゃえ、かな♡

 タクヤを奪おうとする悪い虫は…全部、全部、残らず殺すかな♡」


 リリーが狂気の笑みを浮かべながら、その光球をレオナルドに向けて放った。

 

 光の奔流が空間を裂いて飛ぶ。

 その速度は音速を超え、衝撃波が周囲の家具を吹き飛ばしていく。

 普通の人間なら、反応することすら不可能な速さだった。



 だが、レオナルドは冷静だった。

 師匠への愛と責任感が、彼に超人的な集中力を与えていた。

 彼は既に死を覚悟している。

 だからこそ、恐怖に支配されることなく、最善の行動を取ることができる。



 彼は一瞬の判断で横に跳躍し、光球を回避した。


 ゴォオオオオオオッ!!


 光球は俺たちの背後の壁に激突し、直径数メートルの巨大な穴を開けた。

 木材が一瞬で炭化し、激しい炎が燃え上がる。

 その熱風が室内に逆流し、髪や服を激しく揺らした。

 壁の向こうの森まで焼き払われ、木々が倒れていく音が響き渡る。



 その圧倒的な破壊力を目の当たりにして、レオナルドは確信した……この少女は本気で殺しに来ている。

 一撃でも食らえば、間違いなく即死だ。



「師匠、こちらへ!」


 レオナルドが血を吐くような叫び声を上げた。

 その声には、絶望と希望が入り混じっていた。


「早く、この場から逃げましょう! お願いです、師匠!」

「なぜ逃げる必要がある? 俺はリリーと一緒にいたいんだ」


 俺は冷たく答えた。

 レオナルドの必死の訴えが、まるで理解できない。

 リリーと共にいることの、どこが間違っているというのか。



 その言葉が、レオナルドの心に更なるダメージを与えた。

 彼の顔が苦痛に歪み、歯を食いしばって涙を堪える。

 尊敬する師匠が、完全に洗脳されてしまっている。

 本来の師匠なら、こんな狂った少女を愛するはずがない。

 優しくて、正義感が強くて、家族思いの師匠が……。


「そうそうかな♡ タクヤも分かってくれるかな♡」


 リリーが恍惚の表情で囁いた。

 その顔は完全に狂気に支配されている。

 目はギラギラと異様な光を放ち、口元は不自然なまでに歪んでいた。


「邪魔者は…消さなきゃかな♡ 一人残らず♡

 骨も…灰も…魂さえも残さないくらいに、完全に消し去らなきゃ、かな♡」


 リリーが両手を掲げると、無数の光魔法が一斉に顕現した。


 光の矢、光の刃、光の槍、光の鎖、光の渦、光の鞭……様々な形態の光魔法が、まるで生き物のようにうごめきながらレオナルドを狙う。

 その一つ一つが十分な殺傷能力を持っており、空気を焼き、床に穴を開け、家具を粉砕していく。


 これは、もはや魔法というより、災厄そのものだった。


「あはは♡ あははは♡ 逃げて♡ 逃げて♡ でも、どこまで逃げても無駄、かな♡」


 リリーが狂気の笑い声を上げながら、次々と魔法を放っていく。


 レオナルドは驚異的な身体能力でそれらを回避し続けた。

 床を転がり、壁を蹴り、宙返りで方向転換する。

 彼の動きは流れるように美しく、そして絶望的だった。


 だが、回避するだけで精一杯だ。

 反撃の隙など、一切ない。


 光の矢が彼の頬を掠めて、鮮血が飛び散った。

 光の刃が彼の肩を切り裂いて、軍服が裂ける。

 光の槍が彼の太腿を貫通して、骨まで達する鈍い音がした。


 レオナルドの体に、次々と傷が増えていく。

 血が床に滴り、赤い水溜まりが広がっていく。


 痛い……全身が悲鳴を上げている。


 苦しい……呼吸が乱れ、意識が遠のきかけている。


 死にたくない……まだ、まだ師匠を救えていない。


 だが、彼は諦めなかった。

 師匠を救うまでは、絶対に死ねない。

 歯を食いしばり、痛みを無視して、ただ前へ、前へと進み続ける。


「くっ…素早いかな♡ でも、でも♡」


 リリーの声が苛立ちに震えた。

 その苛立ちは尋常ではない。

 愛するタクヤの前で、邪魔者を排除できない自分への怒り。

 そして、何より……タクヤを奪おうとするこの男への、純粋な殺意。


「もう、終わりかな♡ 逃げ場なんて…どこにも、ないかな♡」


 リリーの魔力が、更に膨れ上がっていく。

 家全体が激しく震動し、床が割れ、天井が崩れ落ち始める。

 魔力の密度が余りにも高すぎて、物理的な影響が出始めているのだ。


「光よ…すべてを焼き尽くせ♡ 灰すら残すな♡ 存在ごと…記憶ごと…この世界から完全に消し去れ♡」


 リリーが最大出力の光魔法を詠唱し始めた。

 彼女の両手に、太陽そのものかと見紛うほどの巨大な光球が出現する。

 その光は余りにも眩く、直視すれば目が潰れてしまうほどだった。

 周囲の温度が急激に上昇し、木材が自然発火し始める。


 それは、この家どころか、周囲の森一帯を消し飛ばすほどの威力を秘めている。

 このままでは、レオナルドだけでなく、俺も巻き込まれてしまうだろう。


 だが、リリーの理性は完全に崩壊していた。

 愛する人を巻き込む可能性すら、もはや考えられない状態だった。

 ただ、邪魔者を……俺を奪おうとするこの男を、完全に消し去ることだけしか頭にない。


「あはは♡ あはははは♡ 死ね死ね死ね死ね死ね♡

 わたしのタクヤを奪おうとする虫けらは…全部、全部、残らず死ぬかな♡」


 完全に狂っている……その一言に尽きた。



 レオナルドは、その光球を見て覚悟を決めた。

 師匠を救えないかもしれない。

 この攻撃を防ぐことは、おそらく不可能だ。

 だが……それでも、最後まで諦めるわけにはいかない。


 師匠への尊敬と忠誠が、彼に最後の力を与えた。


「師匠を…必ず、返してもらいます」


 レオナルドが静かに、だが確固たる決意を込めてリリーに宣言した。


 その声には、もはや絶望はなかった。

 代わりに、静かな、そして揺るぎない決意があった。

 たとえ命を落としても、師匠だけは必ず救い出す……その覚悟が、全身から滲み出ていた。


 そして、彼が取り出したのは小さな薬瓶だった。


 中には、血のように赤い液体が入っている。

 筋力増強薬……いや、それは通常の増強薬などではない。

 国家間で使用を固く禁じられている、違法なドーピング剤だ。


 服用すれば一時的に人間離れした筋力を得られるが、その代償として筋肉組織が破壊され、最悪の場合は心臓が停止して死に至る。


 レオナルドは、それを知っていた。

 この薬を飲めば、おそらく命はない。

 だが……迷いはなかった。


 師匠のためなら、この命など惜しくない。



「ドーピング、かな♡」


 リリーが嘲笑うように言った。


「卑怯者かな♡ でも無駄かな♡

 どうせ、どうせ死ぬかな♡ タクヤを奪おうとした罪は…死んでも償えないかな♡」

「卑怯でも構いません」


 レオナルドが薬瓶の蓋を開け、一気に中身を飲み干した。

 苦い液体が喉を焼くように流れ込んでいく。


「師匠のためなら…手段は選びません。

 命を懸けてでも…必ず、お救いします」


 薬の効果は、瞬時に現れた。

 レオナルドの右腕が、見る見るうちに膨れ上がっていく。

 筋肉が異常な速度で増殖し、血管が浮き出て脈打つ。

 制服の袖が裂け、人間離れした筋肉が露わになる。


 だが、その代償として凄まじい激痛が全身を襲った。

 筋肉が無理やり膨張させられる苦痛。

 骨がきしんで軋む音。

 皮膚が裂ける感触。

 神経が焼けるような痛み。


「ぐああああああああああああッ!!」


 レオナルドは歯を食いしばったが、思わず絶叫が漏れた。



 痛い……余りにも、余りにも痛い。


 意識が飛びそうなほどの、地獄の苦痛。


 だが、彼は耐えた。

 師匠のために……ただそれだけのために。



「うおおおおおおおおおッ!!」


 レオナルドが雄叫びを上げながら、リリーに向かって突進した。


 その速度は、先ほどとは比べ物にならない。

 地面が陥没し、彼の足跡に沿って床が粉砕されていく。

 空気を切り裂く音が響き、まるで砲弾のような勢いでリリーに迫る。


 リリーが咄嗟に光の盾を展開した。

 幾重にも重なった魔法障壁が、レオナルドの前に立ちはだかる。


 だが……


 ガシャアアアアンッ!!


 レオナルドの右拳が、その全てを粉砕した。


 強化された右腕の一撃が、魔法防御を紙のように突き破る。

 光の盾が砕け散り、無数の光の破片が宙に舞った。


「そんな…馬鹿かな」


 リリーの顔が、初めて恐怖に染まった。

 信じられないという表情で、目を見開いている。

 自分が……この絶対的な魔力を持つ自分が、劣勢に回るなんて。


「タクヤを…奪わないでかな♡」


 リリーが悲痛な叫び声を上げた。

 その声は震え、涙が頬を伝って落ちる。


「わたしの…わたしだけの大切な人を…奪わないでかな♡ お願い…死んで。消えて。いなくなるかな」


 リリーが狂ったように、連続で光魔法を放つ。


 光の矢の雨、光の竜巻、光の津波、光の嵐……ありとあらゆる攻撃魔法が、レオナルドを襲う。

 まるで天変地異のような、圧倒的な魔法の奔流だ。


 だが、レオナルドの突進は止まらなかった。


 彼は、リリーの魔法攻撃をすべて右腕で受け止めた。

 光の矢が右腕に突き刺さり、肉を抉る。

 光の刃が皮膚を切り裂き、血が噴き出す。筋肉が露出し、骨すら見えてくる。


 激痛が全身を駆け巡る。

 意識が朦朧とし、視界が揺らぐ。



 だが、レオナルドは前進を続けた。


 師匠への尊敬が、痛みを上回っていた。

 師匠を救うためなら、この程度の痛みなど……何でもない。



 一歩、また一歩と……血の跡を残しながら、肉が削れる音を聞きながら、骨が軋む痛みに耐えながら。


 それでも、前へ。

 ただ前へ。


「止まれ、来るな、来ないでかな」


 リリーの声が、完全に恐怖に支配されていく。

 その声は甲高く震え、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっている。



 この男は、一体何なのだ。


 どうして、こんなにも必死なのだ。

 どうして、こんなにも……強いのだ。


 答えは、単純だった。


 尊敬だ。


 師匠への、純粋で真っ直ぐな尊敬が、彼をここまで強くしているのだ。



「師匠……」


 レオナルドが、ついに俺の目の前までたどり着いた。



 血まみれの顔に、希望の光が宿る。

 ついに、ここまで来た。これで、師匠を救える……。


 右腕は完全に破壊され、筋肉が露出し、骨が見えている。

 もう、この腕は二度と使えないだろう。


 だが、構わない。

 師匠を救えるなら、両腕どころか命すら惜しくない。



「早く…逃げましょう」


 レオナルドが震える手を伸ばし、俺の左手の指輪を外そうとした。


 その瞬間……


 パチンッ!


 俺は反射的に、レオナルドの手を払いのけていた。


「邪魔だ。失せろ、レオナルド」


 俺の口から出たのは、冷たく突き放す言葉だった。

 その声には、一片の温もりもなかった。



 その言葉が、レオナルドの心を完全に打ち砕いた。


 尊敬する師匠、そして友人に、完全に拒絶された。

 しかも、氷のように冷たい眼差しで見下ろされた。



 レオナルドの表情が、絶望に染まる。

 目から光が失われ、唇が震え、涙が溢れ出す。


「師匠…」


 彼が震え声で呟いた。

 涙が頬を伝って落ちる。

 血と汗と涙が混ざり合って、ボロボロの顔を濡らしていく。



 あんなに慕っていた師匠に、こんな風に……。



「あはは。あははははは。

 やっぱりかな。やっぱり愛の力かな♡」


 リリーが狂喜の笑い声を上げた。

 その表情には、勝利の喜びと狂気の陶酔が入り混じっている。


「タクヤは…わたしを守ってくれるかな♡ わたしを選んでくれるかな♡

 ほら、ほら♡ これが愛かな♡ 真実の愛かな♡」


 リリーが俺に抱きついてくる。

 その体温が、心地よく俺の胸に伝わってきた。


 俺は何の疑問も抱かず、彼女を優しく抱きしめた。

 この愛らしい少女を、誰にも渡したくない……心の底からそう思っていた。



 レオナルドは、完全に戦意を失っていた。


 膝から崩れ落ち、床に倒れ込む。

 筋力増強薬の副作用で、全身に激痛が走る。

 右腕の筋肉が崩壊し始め、内臓も損傷している。

 このままでは、本当に死ぬかもしれない。



 だが……心の痛みの方が、遥かに辛かった。


 師匠に拒絶された。

 尊敬する師匠に、冷たく突き放された。

 もう、何もかもが終わってしまった……


 リリーが、倒れているレオナルドにゆっくりと近づいていく。

 その足音が、まるで死神の足音のように響く。


 そして……彼女は無慈悲に、レオナルドの頭を足で踏みつけた。


「邪魔者には…相応の報いが必要かな♡」


 リリーが残酷な笑みを浮かべる。

 その笑顔は、余りにも美しく、余りにも狂っていた。


「わたしのタクヤに…手を出そうとした罰かな♡

 死ねばいいかな。消えればいいかな。」


 リリーが、踏みつけた足に力を込めていく。

 レオナルドの顔が床に押し付けられ、鼻血が溢れ出す。

 歯が折れそうになり、意識が遠のいていく。


 だが……その瞬間、レオナルドの口角が、にやりと吊り上がった。


 絶望の淵で見せる、不敵な笑みだった。

 それは、まだ諦めていない証拠……最後の希望を、まだ捨てていない証拠だった。


「何が…おかしい、かな♡」


 リリーが苛立ちを露わにした。


「死にかけの虫けらが…何を笑ってる、かな♡」


 その時……


 ピュンッ!


 遠くから、風を切り裂く鋭い音が響いた。


 そして次の瞬間、家の壁に小さな穴が開いた。

 矢だった……信じられないほど正確な軌道で放たれた一本の矢が、俺の左手の薬指を掠めていく。



 その距離、約五百メートル。


 しかも、壁に開いた小さな穴から、家の中にいる俺の指輪という極小の標的を狙うという、常識を超越した射撃だった。


 視界も限られている中で、動く標的の、しかも指輪という米粒ほどの目標を正確に捉えた……これは、もはや神業と呼ぶべき技術だった。


 マルクスだ。

 彼の弓の腕は、人間の領域を遥かに超えている。



 認識改変の指輪が、矢の衝撃で弾き飛ばされた。指輪が床に落ち、カランという乾いた音を立てる。


「いやああああああああああああああッ!!!」


 リリーが絶望的な叫び声を上げた。


 その声は、魂が引き裂かれるような、この世のものとは思えない悲鳴だった。

 狂気に満ちた表情が、一瞬で恐怖と絶望に変わる。

 愛する人を失う恐怖……永遠の別れへの、耐え難い恐怖。


 その瞬間、俺の頭に激痛が走った。


 まるで頭蓋骨が内側から割れるような、凄まじい痛みだった。

 視界が歪み、膝が崩れそうになる。


 封印されていた記憶が……本当の記憶が、堰を切ったように蘇ってくる。


 ルナの、太陽のように明るい笑顔。


 エリカの、鈴を転がすような元気な声。


 クロエの、頬を染めた照れた表情。


 オルテンシアの、勇ましく威勢の良い姿。


 ユリエルの、ツンデレながらも優しいまなざし。


 リオネルの、無邪気で屈託のない笑い声。


 アナスタシアの、安らかな寝顔。


 ミミの、人懐っこく尻尾を振る姿。


 すべてが……大切な家族の記憶が、鮮明に思い出された。


 俺には、愛する家族がいるんだ。

 結婚した最愛の妻たちが、可愛い子供たちが、大切な仲間たちが……みんな、俺の帰りを待っているんだ。


 どうして忘れていたんだ。


 どうして、この狂った少女を愛していると思い込んでいたんだ。


「うわああああああああああッ!!」


 俺が絶叫した。


 頭がぐるぐると回転し、立っていられない。

 現実と偽りの記憶が激しく衝突し、混乱する。

 だが……本当の愛が何なのか、はっきりと分かった。


 本当の愛は、こんな狂気じみたものじゃない。

 温かくて、優しくて、互いを思いやり、支え合うものだ……。


「やめて…やめて…やめてやめてやめて!」


 リリーが泣き叫んだ。


 その表情は、完全に絶望に染まっていた。

 愛する人を失う恐怖で、理性が完全に崩壊している。

 涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになり、髪は乱れ、目は血走っている。


「タクヤを…奪わないでほしいかな。

 お願い、お願い♡」

「わたしの…わたしだけの大切な人を…奪わないでかな♡

 わたしがいないと…タクヤは生きていけない、かな♡

 わたしと一緒じゃないと…タクヤは不幸になる、かな♡」

「だから、だから、だから♡

 わたしと一緒にいて、かな♡ ずっと、ずっと、永遠に♡」


 リリーが俺に縋りついてくる。

 その顔は涙でぐしゃぐしゃになり、鼻水も垂れている。

 髪は乱れ、目は充血し、唇は震えている。

 もはや、あの美しい少女の面影は微塵もない。


 ただの狂った、哀れで惨めな少女が、そこにいた。


「わたしを…見捨てないで、かな♡

 わたしを…一人にしないで、かな♡」

「わたしは…タクヤがいないと…生きていけない、かな♡

 死んじゃう…死んじゃう…わたし、死んじゃう、かな♡

 お願い、お願い、お願いお願いお願い、かな♡」


 その声は、もはや言葉になっていない。

 ただの悲鳴と嗚咽が混ざり合った、聞くに堪えない音だった。


 だが……もう遅い。


 俺は、すべてを思い出した。

 指輪の魔法が解けた今、俺の心は本来の状態に戻っている。

 この少女への愛など、最初から存在しなかったのだ。


 レオナルドが、血まみれで崩壊寸前の右腕で、俺の腕を掴んだ。


 その顔には……希望の光が戻っていた。

 師匠が正気を取り戻した。

 それだけで、彼には十分だった。

 痛みも、絶望も、すべてが報われた。


「師匠…今です」


 彼が必死に、震える声で言った。


「逃げましょう…早く」


 俺は、レオナルドに掴まれたまま立ち上がった。


 頭の混乱は続いているが、状況は理解できた。

 リリーに騙され、洗脳されていたのだ。

 認識改変の指輪によって、偽りの愛を植え付けられていた。


「レオナルド」


 俺が彼の名前を呼んだ。


「すまなかった。お前を…こんな目に遭わせてしまって」


 その言葉を聞いて、レオナルドの目に涙が溢れた。



 だが、それは絶望の涙ではない……喜びの涙だった。

 師匠が、本当に戻ってきてくれた。

 それだけで、彼は幸せだった。



「いえ…師匠が無事なら、それで十分です」


 レオナルドが、血の混じった笑みを浮かべて答えた。


「待って、かな♡ 待って待って待って♡」


 リリーが俺に向かって、必死に手を伸ばした。


 その手は激しく震えていた。

 顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、声は嗚咽で途切れ途切れになっている。


「タクヤ…行かないで、かな♡

 わたしと…一緒にいて、かな♡」

「わたしがいないと…タクヤは不幸になる、かな♡」

「お願い…振り向いて、かな。

 わたしを見て、かな。

 わたしを…愛して、かな」


 リリーの声が、だんだんと壊れていく。

 狂気と絶望が、彼女の心を完全に支配していた。

 理性も、プライドも、何もかもが崩壊している。

 ただ、愛する人を失いたくないという、原始的な執着だけが残っていた。


 だが、俺にはもう振り返ることはできない。


 愛する家族が待っているのだから……本当の愛が、俺を呼んでいるのだから。


「いやああああああああああああああああああッ」


 リリーが、魂を引き裂くような絶叫を上げた。

 その声は、もはや人間のものではなかった。

 獣の咆哮のような、何かが壊れる音のような、恐ろしい叫び声だった。


「返してえええええええ! わたしのタクヤを返してええええええ、かな!

 わたしのもの…わたしだけのもの…誰にも渡さない…絶対に、絶対に!」


 リリーの魔力が、制御を失って暴走し始めた。


 周囲のすべてを破壊する、純粋な破壊の力が溢れ出す。

 床が砕け、壁が崩れ、天井が落ちる。

 家全体が崩壊し始めた。

 まるで巨大な獣が暴れているかのように、建物が軋み、悲鳴を上げる。


「全部壊す、かな。全部消す、かな。

 タクヤが奪われた世界なんて…全部、全部消えちゃえばいい、かな。

 燃やす…焼く…灰にする…何も残さない、かな」


 リリーの目から、光が失われていく。


 絶望に支配された瞳。

 希望を失った瞳。

 愛する者を失った者だけが見せる、死んだ魚のような……いや、それ以上に恐ろしい、空虚な瞳だった。


「あはは。あははは。あはははははははは」


 リリーが狂ったように笑い始めた。


 涙を流しながら、鼻水を垂らしながら、髪を振り乱しながら、血を吐くように笑い続ける。

 その笑い声は、余りにも悲しく、余りにも狂っていた。


 完全に壊れていた……心が、魂が、存在そのものが、完全に崩壊していた。


「タクヤがいない世界なんて…意味がない、かな。

「だったら…全部消えちゃえばいい、かな。

 わたしも…世界も…全部一緒に…消えちゃえばいい、かな」


 リリーの両手に、今までとは比べ物にならない巨大な光球が出現した。


 それは、小さな太陽と呼んでも過言ではないほど巨大で、強力で、恐ろしい破壊の光だった。

 その威力は、この森全体を……いや、この一帯すべてを消し飛ばすほどのものだった。


「みんな死ね、かな。みんな消えろ、かな。

 タクヤを奪った世界なんて…滅びちゃえ、かな。

 燃やして…壊して…何もかも…無にしてやる、かな」


 レオナルドが、崩壊寸前の体で俺を抱えて走り出した。


 崩壊する家から、必死で脱出する。

 血まみれの右腕で俺を支えながら、最後の力を振り絞って全力で走る。

 足が縺れそうになり、視界が霞むが、それでも走り続ける。


 後ろから、リリーの狂った笑い声が追いかけてくる。


「あははは。逃げても無駄、かな。

 どこまでも、どこまでも追いかける、かな」

「タクヤは…わたしのもの、かな♡ 永遠に、永遠にわたしのもの、かな♡

 誰にも渡さない…死んでも渡さない…殺してでも守る、かな。

 この世界が滅んでも…聖暁世紀が終わっても…わたしの愛は終わらない、かな」


 家が完全に崩壊した。


 轟音と共に、建物が倒壊する。

 木材が砕け、屋根が落ち、壁が倒れる。

 その瓦礫の山の中心に、リリーの小さな姿が見えた。


 彼女は立っていた……絶望に支配されながらも、憎悪と愛に燃える目で、俺たちを見つめていた。


 その姿は、余りにも哀れで、余りにも恐ろしかった。


「タクヤ♡」


 リリーが、最後に俺の名前を呼んだ。


 その声は……切なくて、狂っていて、それでいて深い愛に満ちていた。


 歪んだ愛。

 狂った愛。

 病的な愛。


 でも、彼女にとっては……紛れもない、真実の愛。


「わたしは…ずっと、ずっと、永遠に…タクヤのことを愛してる、かな♡」

「だから…必ず迎えに行く、かな♡

 何度でも、何度でも、何度でも…諦めない、かな♡」

「タクヤは…わたしのもの、かな♡

 永遠に…永遠に…わたしだけのもの、かな♡」


 その言葉を最後に、リリーは崩壊する家の瓦礫の中に消えていった。




 ◇ ◇ ◇




 レオナルドと俺は、破壊された家から遠くまで走り続けた。

 背後から、巨大な爆発音が響き渡る。

 リリーの魔法が、森を焼き払う音。

 木々が倒れ、大地が揺れ、まるで世界が終わるかのような轟音だった。


 だが、俺たちは振り返らなかった……振り返れなかった。


 遠くの丘の上に、弓を構えたマルクスの姿が見えた。


 彼は冷静に、次の矢を番えている。

 もしリリーが追ってきたら、すぐに射撃できるように。

 その目は鷹のように鋭く、一切の感情を排して集中していた。


 風向き、湿度、気温、距離、標的の動き……すべての要素を脳内で瞬時に計算している。

 彼の中では、無数のシミュレーションが光速で走っている。


 どの角度から、どのタイミングで、どの速度で射撃すれば最も効果的か……すべてが、彼の頭の中で完璧に計算されていた。


 マルクスは、単なる弓使いではない。

 彼は、戦場の芸術家だった。


 五百メートルという驚異的な距離から、壁の小さな穴を通して、動く標的の指輪という極小の目標を正確に射抜いた……これは、もはや人間業ではない。


 神の領域に達した技術。

 何千、何万という矢を放ち、何百、何千という戦場を生き抜いてきた末に到達した、究極の境地。


 彼の見事な射撃が、俺を救ってくれたのだ。


 俺たちは、仲間たちのもとに向かって走り続けた。



 レオナルドの顔には、もはや絶望はない。

 血まみれで、傷だらけで、今にも倒れそうなほど衰弱しているが……それでも、希望の光が、はっきりと宿っていた。


 師匠を救えた。

 それだけで、彼は満足だった。


 右腕は完全に崩壊し、もう二度と使えないかもしれない。

 全身は無数の傷で覆われ、血が止まらない。

 筋力増強薬の副作用で、内臓も深刻なダメージを受けている。


 だが……構わない。

 師匠が無事なら、それで十分だ。



「師匠」


 レオナルドが、血の混じった笑みを浮かべて俺を見た。


「本当に…お帰りなさい」


 その言葉には、心の底からの喜びが込められていた。

 涙が、また頬を伝って落ちる。

 でも、今度は喜びの涙だった……救われた喜び、報われた喜びの涙だった。


「ああ」


 俺が答えた。


「ただいま、レオナルド。そして……ありがとう」


 長い悪夢が、ついに終わろうとしていた。


 そして、新しい希望が……家族との再会という、最高の希望が、すぐそこまで来ていた。


 だが、俺の心の片隅には、リリーの最後の言葉が深く刻み込まれていた。


「必ず迎えに行く、かな♡」


 その言葉が、不吉な予感を運んでくる。

 まるで呪いのように、心に纏わりついて離れない。


 この戦いは……まだ、終わっていない。


 リリーは諦めていない。彼女の狂った愛は、これからも俺を追い続けるだろう。

 どこまでも、どこまでも、永遠に……


 だが、今は考えないことにした。


 家族が待っている。

 愛する人たちが、俺の帰りを心待ちにしている。

 それが、今の俺にとって……最も大切なことだった。


 俺たちは、希望に向かって走り続けた。


 夜明けの光が、遠くの空を優しく照らし始めている。

 長い、長い夜が終わり、新しい朝が来ようとしていた。


 そして、俺の新しい人生が……再び、始まろうとしていた。


 ……だが、狂愛の物語は、これで終わらない。

 リリーの愛は、決して終わらない。

 それは、永遠に続く呪いのように……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ