第百三十七話「まともなフリをする少女」
クロウを失った。
その事実が、まるで鉛のように俺たちの心に圧し掛かっていた。
いつもなら瞬間移動で一瞬で移動できる距離を、俺たちは徒歩で進んでいた。
魔法を使う気力すら湧かない。
プロイシェン王国への道のりが、どこまでも遠く感じられた。
ミスティは完全に戦意を喪失していた。
いつもなら颯爽と先頭を歩く彼女が、今は俯いたまま足を引きずるように歩いている。
その背中は小さく、まるで折れた剣のようだ。
アリシアに至っては、震えが止まらない。
ハルカの圧倒的な力を目の当たりにして、
いつものキス攻撃…俺にとっては迷惑だが彼女にとっては愛情表現すら封印されていた。
それほどまでに、彼女は怯えていた。
レオナルドは無言で拳を握りしめている。
その拳からは血が滲み、爪が食い込んでいるのが分かる。
怒りと無力感。
師匠である俺を守れなかった悔しさが、彼の全身から滲み出ていた。
そして俺自身も、右腕を切断された時の激痛と、クロウが消失した瞬間の絶望が頭から離れない。
あの時の光景が、まるで悪夢のように何度も何度も脳裏に蘇ってくる。
重い。
全てが重かった。
足も、心も、空気すらも。
◇ ◇ ◇
街道を歩いていると、突然小さな人影が視界に入った。
桃髪。
華奢な体つき。
見覚えのあるシルエット。
その瞬間、俺の血が凍りついた。
…リリー。
確か、雪菜と手を組んで俺を独占しようとしていた、あの危険極まりないヤンデレ少女だ。
実の兄ルーシーを殺害し、魔法大学を退学になった。
そんな彼女が、なぜここにいる?
いや、待て。
落ち着け。
もしかしたら人違いかもしれない。
この世界には桃髪の少女なんて腐るほどいる。
そうだ、きっと別人だ。
別人に違いない。
頼むから別人であってくれ……
「あ…タクヤさん…」
その声を聞いた瞬間、俺の淡い希望は音を立てて崩れ落ちた。
少し成長して大人びているが間違いない。
リリーだ。
彼女は少し距離を置いて立っている。
その表情は、どこか落ち着いていて、以前のような狂気……あの目の奥で何かが燃えているような、理性のタガが外れた狂気……は感じられない。
「久しぶりです…」
穏やかな声だった。
まるで普通の少女が、偶然旧知の人と再会したかのような、ごく自然な口調。
俺は警戒しながらも、その変化に戸惑っていた。
もしかして、本当に治ったのか?
いや、でもこいつは……
「この前は…本当に申し訳ありませんでした…」
リリーが深々と頭を下げる。
その仕草は丁寧で、心からの謝罪に見えた。
「わたし…あの時は…おかしくなっていました…」
演技ではない、本物の後悔が滲んでいるように聞こえる。
「兄を…殺してしまって…」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
ルーシーのことだ。
彼女は自分の手で、実の兄を殺した。
その罪の重さを、今になって理解したというのか?
「でも…今は…治療を受けて…」
リリーがゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、確かに以前とは違っていた。
狂気の炎が消え、まるで鎮火した焚き火のように静かだ。
「少しは…正常になれたと思います…」
少しだけ警戒を緩めてしまった。
もしかしたら……本当に、もしかしたら……治療が効いたのかもしれない。
この世界には様々な魔法がある。
精神を治療する魔法だって存在するはずだ。
そうだ。
人は変われる。
リリーだって、きっと変われたんだ。
そう信じたかった。
「タクヤさん…あの…」
リリーが遠慮がちに一歩近づいてくる。
その動きはゆっくりで、まるで野生動物を驚かせないように気を遣っているかのようだ。
「少しだけ…お話ししてもいいですか…?」
その様子は、以前の……俺に抱きついてきて、狂ったように愛を叫んでいた……あの攻撃的な態度とは全く違う。
「ああ…いいよ…」
リリーは、ゆっくりと、本当にゆっくりと俺に近づいてきた。
その慎重な動きが、逆に彼女の真摯さを物語っている。
「タクヤさん…」
その距離は適度に離れていて、以前のようにベタベタとくっついてくることはない。
むしろ、一般的な対人距離を保っている。
これなら大丈夫かもしれない。
「あの時のこと…本当にごめんなさい…」
その横顔には、深い悔恨の色が浮かんでいる。
「わたし…タクヤさんのこと…好きすぎて…」
おっと、ここで好きという単語が出てきたか。
でも、まあ、過去形として語っているなら……
「おかしくなってしまいました…」
そう、過去形だ。
「なってしまった」と言っている。
つまり、今は違うということだ。
内心ではホッと胸を撫で下ろした。
「でも…今は違います…」
リリーが俺を見上げる。
その瞳は、まだ正常に見える。
狂気の炎は鎮火されている。
「わたし…ちゃんと…自分の気持ちをコントロールできるようになりました…」
「だから…もう…あんな風に…ならないです…」
その言葉を、俺は信じたかった。
いや、信じなければならなかった。
これ以上、ヤンデレに追われる生活は御免だ。
ハルカという外敵だけで十分すぎるほど手一杯なのだ。
「そうか…それなら良かった…」
その瞬間……
ほんの一瞬だけ、リリーの表情が変わった。
目の奥に、何かが光った。
まるで暗闇の中で獣の目が光るような、鋭い、冷たい、狂気に満ちた……
でも、それはほんの一瞬だった。
すぐに元の穏やかな表情に戻る。
あれは…気のせいか?
いや、でも確かに見た。
あの目の奥の光を……
「タクヤさん…」
リリーの小さな手が俺の腕に置かれる。
その手は優しく、でもどこか執拗だった。
まるで獲物を逃がさないように、そっと、しかし確実に掴む捕食者の手のように。
「あの…一つだけ…聞いてもいいですか…?」
「何だ?」
「タクヤさんは…今…幸せですか…?」
その質問は、まるで俺の心の奥底を探ろうとしているかのようだった。
表面的には優しい問いかけだが、その裏に何か別の意図が隠れている気がする。
「ああ…家族もいるし…」
答えようとした瞬間、リリーの手に力が入った。
ぎゅっと。
優しく握っていた手が、一瞬だけ強く、痛いほど強く俺の腕を掴む。
「家族…そうですか…」
その震えは、悲しみなのか。
それとも……怒りなのか。
「それは…良かったですね…」
そう言う彼女の顔には、笑顔が浮かんでいる。
でも、その笑顔は目まで届いていなかった。
目だけが笑っていない。
まるで、無理やり口角を上げているだけの、作り物の笑顔。
「でも…タクヤさん…」
パーソナルスペースが侵食される。
不快な距離感。
でも、彼女は気にせず、さらに近づいてくる。
「本当に…幸せなんですか…?
本当に…心から…?」
その問いかけは、まるで俺の幸せを否定しようとしているかのようだった。
「もしかして…」
リリーが俺の腕をさらに掴む。
その力が、じわじわと強くなっていく。
痛い。
本気で痛い。
爪が食い込んで、血で華奢な指が赤く染まっていく。
「誰かに…騙されてるんじゃないですか…?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は悟った。
ああ、やっぱりか。
治ってなんかいなかったんだ。
そして……
「タクヤは私のものかな♡」
…来た。
彼女の口調が、突然変わった。
「タクヤ」さんから「タクヤ」へ。
丁寧語から、あの忌まわしい「かな」口調へ。
まるでスイッチが切り替わったかのように、リリーの全てが一変した。
「やっぱり。わたしの予想通りかな♡」
リリーが俺の腕に飛び込んでくる。
小さな胸…まあ、彼女はまだ十歳だから成長途中なのだが…を思い切り押し当てて、まるで恋人同士が長い別れから再会したかのような態度で抱きついてくる。
おいおいおい、ちょっと待て。
さっきまでの反省はどこに行った?
治ったんじゃなかったのか?
コントロールできるようになったんじゃ…
「タクヤは、悪い女たちに騙されてるかな♡」
いや、騙されてるのは俺の方だよ!
お前に!
たった今!
「でも、大丈夫かな。わたしが助けてあげるかな」
助けなくていい!
だったらお前から助けてほしい!
心の声も虚しく、現実を受け入れざるを得なかった。
リリーは、治っていなかった。
いや、治っていなかったどころか、より巧妙になっていた。
正常を装って俺の警戒を解き、そして一気に本性を現す。
まるで狩りをする肉食獣のような戦術。
恐ろしい。
恐ろしすぎる。
「リリー…お前…」
「ごめんね、タクヤ♡」
リリーの無邪気な笑い声が耳を突き抜ける。
その笑顔は、純粋で、無垢で、そして…狂っていた。
「最初は、ちゃんと治ったフリをしようと思ってたかな」
フリって自覚あるのかよ。
「でも、タクヤを見たら、我慢できなくなっちゃったかな♡」
頼むから我慢したままでいろよ!
彼女が俺の腕を抱きしめる。
その力は異常に強く、俺が振り払おうとしても全く離れない。
まるで蔦が木に絡みつくように、彼女は俺から離れようとしない。
「ずっとずっと、タクヤのこと考えてたかな」
リリーが俺の腕に頬を擦りつけながら、うっとりとした表情をする。
その顔は、まるで最高級のデザートを味わっているかのような、恍惚とした表情だ。
いや、これ完全にヤバい奴のそれだ。
アリシアのキス中毒もヤバいが、リリーはもっとヤバい。
次元が違う。
アリシアが可愛く見えるレベルでヤバい。
「会えなくて寂しかったかな。すっごく寂しかったかな♡」
寂しいのは分かるが、だからって…
「毎日、タクヤのこと考えて…♡
夜も眠れなかったかな♡」
それストーカーの思考パターン。
雪菜がそうだったから絶対にそう。
リリーが俺の首に顔を埋めて、深く息を吸い込む。
すーはー。
すーはー。
おい、何やってんだお前。
「あー♡ タクヤの匂いかな♡
やっぱり最高かな♡」
リリーは匂いフェチなのかもしれない。
その行為は明らかに異常だった。
まるで麻薬中毒者が禁断症状から解放されたかのような、危険な陶酔感に満ちていた。
これは……ダメだ。
完全にダメなパターンだ。
ハルカという外敵に加えて、リリーという内なる脅威。
しかも、リリーの方がある意味でより厄介かもしれない。
ハルカは堂々と襲ってくるが、リリーは味方のフリをして近づいてくる。
どっちがマシかなんて選べない。
両方ともダメだ。
「ねえ、タクヤ♡」
リリーが俺を見上げて、甘ったるい声で言う。
その声は蜜のように甘く、そして毒のように危険だ。
「わたしたち、昔約束したよね♡」
約束?
何の約束だ?
「結婚するって♡」
……ああ、あれか。
確かに、そんな約束をした覚えはある。
でも、それは彼女がまだ八歳の子供だった時の話だ。
冗談半分、いや、完全に冗談のつもりだった。
「大きくなったら結婚しようね」なんて、子供をあやす時の定番フレーズじゃないか。
まさか、本気で受け取っていたのか。
「あれは…」
「約束は約束かな♡」
彼女の瞳が、狂気に満ちた愛情で輝いていく。
まるで宝石のように、いや、宝石よりも危険に光っている。
「わたしはずっと待ってたかな。タクヤだけを愛して♡
他の男の子には見向きもしなかったかな。タクヤ一筋かな♡」
いや、それはお前の勝手な選択であって、俺に責任はない。
リリーが俺の胸に手を這わせる。
その手つきは妙に慣れていて、まるで何度も練習してきたかのようだ。
いや、実際に練習してたのかもしれない。
人形相手とかで。
想像したくないが。
「だから、タクヤもわたしだけを愛するべきかな♡」
「ねえ、タクヤ♡」
リリーが俺の手を取って、自分の頬に当てる。
その頬は柔らかく、そして異常に熱い。
まるで発熱しているかのような熱さだ。
「わたしのこと、覚えてるかな。
一年前、わたしが八歳の時。
タクヤは、わたしに優しくしてくれたかな♡」
その記憶は、確かにある。
でも、それは単なる優しさだった。
子供に対する、普通の大人の、ごく当たり前の対応だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
「あの時、タクヤは言ったかな♡」
リリーが俺を見上げて、頬を真っ赤に染める。
その赤さは、もはや恥ずかしさというより、異常な興奮状態を示しているようだった。
「『俺の気持ちが変わっていなかったら、結婚しような』って。
それは、プロポーズだったかな♡」
違う!
あれはただの社交辞令というか、子供相手のリップサービスというか…
「あれは…」
「冗談じゃないかな♡」
俺の言葉はやはり無情にも、かき消された。
その表情は真剣そのものだ。
冗談だと言おうものなら、何をされるか分からない。
「タクヤは、本気で言ってくれたかな♡
わたし、ずっと信じてたかな♡」
彼女の目は、完全に狂気に染まっている。
その瞳の奥には、揺るぎない確信がある。
「俺は自分のものだ」という、絶対的な、変更不可能な、事実として刻み込まれた確信が。
「だから、わたしたちは婚約者かな♡
もうすぐ結婚するんだから、旦那様も同じかな♡」
リリーが俺の腕を自分の胸…まあ、慎ましやかな膨らみだが…を押し当てながら、幸せそうに頬を染める。
「わたしたち、ラブラブかな♡」
一方的な愛だと心の中で絶叫していたが、リリーの妄想世界は止まらない。
彼女の中では、もう全てが決定事項なのだ。
俺とリリーは婚約者。
もうすぐ結婚する。
そして、幸せな家庭を築く。
その妄想が、彼女の中で完璧な現実として成立している。
恐ろしい。
本当に恐ろしい。
これが、ヤンデレの真髄なのか……
「ねえ、タクヤ♡」
リリーが俺の顔を両手で挟む。
その手は小さく、柔らかく、そして鉄のように強い。
逃げられない。
物理的にも、精神的にも。
「わたしたち、婚約者かな♡」
だから違うって…
「うん♡ そうかな♡」
自問自答。
「タクヤも、そう思ってるかな」
「いや、俺は…」
「思ってるかな」
リリーが、俺の反論を完全に無視して続ける。
その様子は、まるで予め決められた台本を読んでいるかのようだ。
「だから、わたしたちは夫婦みたいなものかな♡
もう、心は一つかな♡
タクヤは、わたしのことが大好きかな♡」
勝手に好きにされた。
「わたしも、タクヤのことが大好きかな♡」
それはもう嫌というほど分かった。
「だから、わたしたちは結ばれる運命かな♡」
リリーが、まるで既成事実を作るかのように言葉を重ねていく。
一つ一つの言葉が、呪いのように俺の周りに積み重なっていく。
「他の女の人たちは、タクヤを騙してるだけかな♡
本当にタクヤを愛してるのは、わたしだけかな♡」
愛情の定義がおかしい。お前のは愛じゃなくて執着だ。
「タクヤも、そう思ってるかな♡」
彼女が、俺の気持ちを勝手に解釈していく。
否定しても、反論しても、全て無視される。
まるで、最初から答えが決まっているかのように。
「ねえ、タクヤ♡」
リリーが俺の唇に顔を近づけてくる。
危険。
これは本当に危険だ。
「わたしたち、もう夫婦みたいなものだから♡」
「キスしてもいいよね♡
むしろ、キスするべきだよね♡」
彼女が、俺の同意を求めることなく、勝手に結論を出していく。
「旦那様と奥様なんだから、キスは当然かな♡」
リリーの言葉は、まるで洗脳のようだった。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、俺と彼女が夫婦であるかのように語りかけてくる。
まるで、それを何度も言えば本当になると信じているかのように。
いや、彼女の中では、もう本当になっているのだろう。
「タクヤも、わたしのこと『妻』って呼んでほしいかな♡
わたしは、タクヤのこと『旦那様』って呼ぶかな♡」
彼女が、勝手に役割を決めていく。
「そうすれば、みんなもわたしたちが夫婦だって分かるかな♡
他の女の人たちも、諦めてくれるかな♡」
俺は抵抗していたが、リリーの妄想の奔流は止まらなかった。
その時、アリシアがゆっくりと前に出てきた。
彼女の顔は青ざめていた。
リリーの姿を見て、明らかに動揺している。
そりゃそうだ。
雪菜とリリーに襲撃された時、アリシアは皆を庇って左腕を失ったのだから。
その時の記憶が、鮮明に蘇ってきているはずだ。
切断された腕。
流れる血。
消えていく意識。
でも、アリシアは気丈に振る舞おうとしていた。
震える体を必死に抑えて、いつものように……そう、いつものように……俺にキスをしようと近づいてくる。
ハルカの恐怖で止まっていたキス欲求が、少しだけ戻ってきたのかもしれない。
それとも、リリーへの対抗心か。
アリシアの唇が、ゆっくりと俺に近づいてくる。
その瞬間…
「何をしようとしてるかな?!」
空気が凍りついた。
リリーの声が、氷のように冷たく響く。
その声には、さっきまでの甘ったるさは微塵もなかった。
ただ、純粋な殺意だけが込められていた。
ばしっ!
リリーがアリシアを突き飛ばした。
小さな体から繰り出されたとは思えないほどの力で、アリシアが地面に叩きつけられる。
「きゃあっ!」
「わたしの旦那様に何をするつもりかな?」
リリーの目が、完全に変わっていた。
さっきまでの愛らしい少女の目ではない。
まるで獲物を狙う肉食獣のような、冷酷で、残忍で、容赦ない目だ。
「あなた、クズかな?」
リリーがアリシアに近づく。
その歩みは、ゆっくりで、しかし確実だ。
まるで、逃げ場のない獲物に近づく捕食者のように。
「わたしの旦那様に、勝手に触ろうとしたかな」
その声は、明るいのに、恐ろしい。
まるで、楽しい遊びについて語るかのような口調で、殺意を語っている。
「それは、泥棒と同じかな。
人の旦那様を奪おうとする、悪い女かな」
リリーが、倒れたアリシアの上に立つ。
その姿は、まるで勝利者が敗者を見下ろすかのようだ。
いや、もっと悪い。
ハンターが獲物を見下ろすような、残酷な優越感に満ちている。
「でも、許してあげるかな」
その笑顔は、天使のように可愛らしく…そして、悪魔のように恐ろしい。
「今回は、初めてだからかな」
その目には、一片の慈悲もない。
「次は、ないかな」
ちなみに、初めてではないぞ。
「わたしの旦那様に触ったはら」
彼女が、自分の小さな手を見つめる。
その手は、まるで刃物を持っているかのような仕草をする。
「その手、切り落とすかな」
アリシアの顔が、恐怖で歪んだ。
左腕を失った時の記憶が、フラッシュバックしているのだろう。
あの時の痛み、恐怖、絶望……全てが一気に蘇ってくる。
「もう片方の腕も、なくなっちゃうかな」
楽しそうな口調はまるで、子供がおもちゃについて語るかのような、無邪気な口調。
でも、その内容は悪魔的だ。
「や、やめて…」
彼女の体は、恐怖で小刻みに震えている。
いつもの積極的なキス攻撃を仕掛けてくる彼女とは、全く別人のようだ。
「タクヤから…離れて…」
でも、リリーは聞かない。
いや、聞いているが、無視している。
まるで、虫の鳴き声程度にしか認識していないかのように。
「離れるのは、あなたの方かな」
彼女が、アリシアの顔に自分の顔を近づける。
至近距離。
お互いの吐息が感じられるほどの距離。
「わたしの旦那様から、永遠に離れてほしいかな。
じゃないと」
リリーの目が、さらに狂気を増す。
その瞳の奥で、何かが燃えている。
理性という名のブレーキが、完全に壊れている。
「次は、腕だけじゃ済まないかな」
アリシアが必死に口を開く。
でも、声が出ない。
恐怖で、喉が凍りついている。
「両腕がなくなって、両足もなくなって。
目も見えなくなって、耳も聞こえなくなっても」
彼女が、にっこりと笑う。
「それでも、タクヤに近づこうとするかな?」
その笑顔は、純粋な悪意に満ちていた。
人を傷つけることに、何の罪悪感も感じていない。むしろ、楽しんでいる。
「でも、大丈夫かな」
リリーが、アリシアの髪を撫でる。
その動作は優しく、しかし、その優しさが逆に恐ろしい。
「わたし、優しいかな。殺したりはしないかな」
ああ、良かった…と思った瞬間。
「ただ、一度とタクヤに近づけないようにするだけかな」
むしろ、殺すより残酷なことを言ってる。
レオナルドが、ついに我慢の限界に達したようだった。
「やめてください!」
その顔は怒りで紅潮し、拳は固く握りしめられている。
「師匠は、あんたの旦那なんかじゃない!
師匠には、ちゃんとした家族がいる!」
その言葉には、師匠を守ろうとする強い意志が込められていた。
「あんたの妄想に、師匠を巻き込むな!」
妄想…その単語を聞いた瞬間。
リリーの動きが止まった。
完全に、静止した。
まるで時間が止まったかのように、彼女は微動だにしない。
そして、彼女の表情が、変わった。
笑顔が消える。
感情が消える。
全てが消える。
残ったのは、無表情な顔。
まるで壊れた人形のような、何の感情も浮かばない顔。
「…妄想…?」
その声には、感情がない。
怒りも、悲しみも、何もない。
ただ、虚ろな声だけが響く。
「…家族…?」
彼女が、ゆっくりとレオナルドの方を向いた。
その動きは、まるでロボットのようにぎこちない。
関節が錆びついた人形のように、カクカクと動く。
「…あなた…今…何て言ったかな…?」
リリーの震えは恐怖の震えではない。
怒りの震えだ。
抑えきれない、爆発寸前の、殺意に満ちた怒りが混じった。
「妄想…だって…?」
彼女の目が、血走る。
白目の部分に、細い血管が浮き上がる。
まるで、眼球が破裂しそうなほどに。
「わたしとタクヤの愛が…妄想…?
わたしが…一年間…ずっと…ずっと…」
彼女の声が、どんどん大きくなる。
「待ち続けた…この想いが…
妄想…だって…?」
その瞬間、空気が、歪んだ。
本当に歪んだ。
視覚的に、物理的に、リリーの周囲の空気が揺らめいた。
魔力だ。
膨大な魔力が、爆発的に放出されている。
でも、彼女の表情は、まだ無表情のままだった。
笑顔も、怒りの表情もない。
ただ、目だけが狂気に染まっている。
その目は、もはや人間のものではなかった。
何か別の生き物…理性を持たない、本能だけで動く、危険な生き物の目だ。
「…そう…
…あなたも…邪魔者…なのね…」
その目は、まるで虫を見るかのような冷たさだった。
いや、虫以下だ。
道端の石ころを見るような、無価値なものを見る目だ。
「…タクヤを…わたしから奪おうとする…
…悪い人…」
リリーの手が、ゆっくりと上がる。
その動きは、まるでスローモーションのようだ。
でも、その手に集まる魔力は、恐ろしく速く、恐ろしく強い。
「…消えて…」
その声は、感情がないのに、恐ろしい。
まるで、機械が処刑を宣告するかのような、冷たく、無慈悲な声。
「…邪魔者は…全部…消えて…」
リリーが、魔法を発動しようとする。
その魔力は、殺意に満ちている。
本気だ。
本気でレオナルドを殺そうとしている。
このままでは…
「リリー、やめろ」
俺が彼女の手を掴んだ。
その瞬間、リリーの魔力が止まる。
「誰も傷つけるな」
すると、リリーの動きが止まる。
彼女が、ゆっくりと俺の方を向く。
突然、いつもの笑顔に戻った。
まるでスイッチが切り替わったかのように、無表情から笑顔へ。
その変化は、一瞬で起こった。
「あ♡ タクヤ♡」
さっきまでの殺意が、嘘のように消えている。
「ごめんかな。
つい、邪魔者を消そうとしちゃったかな」
つい、じゃない、確実に殺そうとしていた。
リリーが、俺の腕に抱きつく。
「でも、タクヤが止めてくれたかな。
やっぱり、タクヤは優しいかな♡」
彼女の感情の切り替えが、あまりにも早い。
さっきまでの殺意が、まるで最初からなかったかのように消えている。
いや、消えているのではなく、隠されているのだろう。
表面的には笑顔を浮かべているが、その奥底には、まだ殺意が渦巻いているはずだ。
「だから、わたしはタクヤが大好きかな♡」
リリーが、俺を見上げる。
その目は、愛情に満ちている。
でも、その愛情は、正常な愛情ではない。
歪んでいる。
ねじ曲がっている。
そして…危険だ。
「ねえ、タクヤ♡」
リリーが俺の胸に顔を押し当ててくる。
その体温は異常に高く、まるで発熱しているかのようだ。
「あの人たち、邪魔かな」
彼女が、俺の仲間たちを指差す。
その指先には、明確な敵意が込められている。
「わたしたちの愛を邪魔する、悪い人たちかな。
だから、一人だけになるかな」
リリーが俺を見上げて、頬を赤らめる。
その表情は、恋する乙女のようで…そして、狂った執着者のようだ。
「わたしたちだけの、愛の巣を作ろうかな♡
そうすれば、誰にも邪魔されないかな。
タクヤと、ずっと一緒にいられるかな♡」
完全に狂っている。
いや、狂っているという表現すら生ぬるい。
これは、もう犯罪の領域だ。
「それで、タクヤ♡」
リリーが俺の手を取って、自分の胸…まだ成長途中の、慎ましやかな膨らみ…に当てる。
「わたしたち、もう夫婦みたいなものかな。
夜も一緒に寝るかな」
…は?
今、何て言った?
「もちろん、子供も作ろうかな」
その言葉に、俺は心底戦慄した。
この少女は、本気で言っている。
冗談ではない。
完全に本気だ。
「タクヤの子供♡ 欲しいかな♡」
リリーが、無邪気に笑った。
その笑顔は純粋で、無垢で、そして…恐ろしい。
「男の子がいいかな♡
女の子がいいかな♡」
彼女が、勝手に未来の計画を立てていく。
俺の意志は、完全に無視されている。
「でも、どっちでもいいかな♡
タクヤとの子供なら、どんな子でも可愛いかな♡」
リリーの妄想が、どんどんエスカレートしていく。
もはや、現実との境界線が完全に崩壊している。
「名前も考えるかな♡
男の子なら、タクヤの名前を取って。
女の子なら、わたしの名前を取って。、
彼女が、俺の首に腕を回してくる。
その腕は細く、華奢で、そして…鉄のように強い。
「ねえ、タクヤ♡」
リリーの吐息が、耳に当たる。
熱い。
「今すぐ、子作りしようかな♡」
話が急展開すぎるだろ。
というか、お前まだ十歳だろ。
俺は二十歳だぞ。
年齢的にアウトだ!
完全にアウトだ!
「ここで、今すぐ♡」
リリーが、俺の服に手をかける。
その手つきは真剣で、本気だ。
これは…本当にヤバい。
「みんなに見せつけてシよ♡
わたしたちが、どれだけ愛し合ってるか♡」
俺は必死に彼女の手を押さえたが、リリーの力は異常に強い。
小さな体のどこにそんな力があるのか。
「タクヤ♡ 楽しみかな♡」
リリーの妄想の深さに改めて恐怖を感じた。
彼女の中では、もう俺と彼女は夫婦なのだ。
そして、それ以外の現実…家族も、仲間も、全ての関係性は、すべて偽物として処理されている。
まるで、彼女の脳内には独自の世界が構築されていて、その世界では俺とリリーだけが真実の存在なのだ。
「タクヤ♡」
その声は、甘く、優しく、そして狂っている。
「わたし、タクヤのことが大好きすぎて、どうしようもないかな♡」
その「どうしようもない」という自覚はあるのか。
「朝起きた時も、タクヤのこと考えてるかな♡
夜寝る時も、タクヤの夢を見るかな♡」
夢に出てくるな。
「食事中も、タクヤとの会話を想像してるかな♡
お風呂に入ってる時も、タクヤのこと考えてるかな♡」
その告白は、愛情というより完全な執着だった。
健全な恋愛感情とは程遠い、歪んだ、ねじ曲がった、病的な依存関係。
「わたしの全てがタクヤかな♡」
リリーが俺の腕をさらに強く抱きしめる。
その力は、もはや痛みを感じるレベルだ。
「だから、タクヤもわたしの全てになってほしいかな♡ わたし以外のこと、考えちゃダメかな♡」
「わたしだけを見て♡」
「わたしだけを愛して♡」
「わたしだけのものになって♡」
リリーの言葉が、呪いのように俺を縛っていく。
一つ一つの言葉が、まるで鎖のように、俺の自由を奪っていく。
「タクヤは、わたしのものかな♡
誰にも渡さないかな♡
永遠に、わたしだけのものかな♡」
彼女の狂気が、どんどん深くなっていく。
もはや、底が見えない。
どこまで深いのか、どこまで狂っているのか、全く分からない。
「もし、他の女の人に取られそうになったら♡」
リリーの目が、さらに狂気を増す。
その瞳の奥で、何かが燃えている。
理性という名の最後の砦が、完全に崩壊している。
「その女の人、殺しちゃうかな」
殺害予告だ。
しかも、笑顔で、楽しそうに、まるで遠足の計画を立てるかのような口調で。
「タクヤを奪おうとする人は、全員消すかな。
それが、愛の証明かな♡」
リリーが、俺の唇に顔を近づけてくる。
やばい、このままではキスされる。
「キスしようかな♡ 愛の証として♡」
俺は慌てて顔を逸らした。
でも、リリーは諦めない。
まるでホートミングミサイルのように、執拗に俺の唇を狙ってくる。
「逃げちゃダメかな!
わたしたちは夫婦なんだから♡ 夫婦なら、キスは当然かな♡」
彼女が執拗に俺の唇を狙ってくる。
左から、右から、上から、下から。
まるで、全方位から攻撃してくる敵機のように。
その様子は、もはや獲物を逃がさない捕食者そのものだった。
「わたしとタクヤは、永遠に一緒かな♡」
リリーが俺を見つめて、狂気に満ちた笑顔を浮かべる。
その笑顔は、純粋で、無垢で、そして……絶望的なほど狂っている。
「誰にも邪魔させないかな♡
永遠の愛を育んでいこうかな♡」
俺は、家族を守るために何をすべきか考え続けた。
でも、今の俺には、明確な答えが見つからなかった。
クロウを失った悲しみ。
ハルカの圧倒的な力への恐怖。
そして今、リリーという新たなヤンデレの脅威。
三重の絶望が、俺たちを包み込んでいた。
「タクヤ♡ これから、ずっとずっと一緒かな♡」
その言葉は、祝福ではなく…呪いだった。
リリーという名の、甘く、危険で、逃れられない呪い。
彼女の歪んだ愛情表現は、これからもエスカレートしていくことが確実だった。
そして俺には、それを止める術がなかった。




