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第百三十六話「深まるトラウマ」


 エルリックをヴェリアント王国に引き渡してから一週間が経過していた。


 俺たちは、まだセリア大陸から出ることができずにいた。

 プロイシェン王国が出した海禁令は依然として有効で、まるで鉄のカーテンのように大陸を封鎖している。

 どの船も他の大陸への航路を運行していない。

 完全な孤立状態だ。


 レオナルドやクロウも、魔神対策公安会での情報収集を続けていたが封鎖解除の見通しは、まったく立たなかった。

 この状況が、いつまで続くのか。

 誰にも分からない。


 ただ、指名手配が解除された今、俺たちは堂々と王都の宿に泊まることができるようになっていた。

 清潔で快適な部屋。

 柔らかいベッド。

 温かい食事。


 久しぶりに、ゆっくりと休むことができた。


「やっぱりぃ〜、普通の宿はいいわねぇ〜」


 ミスティは満足そうで偉そうになってしまった。

 彼女は、すっかりメスガキモードに戻って、生意気な態度全開だった。

 ベッドの上で寝転がって、足をぶらぶらさせている。


「あたいみたいな天才にはぁ〜、このくらいの待遇が当然なのよぉ〜」


 ミスティが鼻を高々と突き上げる。

 その仕草は、完全に調子に乗った子供のそれだ。


「ねえねえ、おじさぁん? あたいってすっごいでしょ〜?

 無詠唱魔法を使えるなんてぇ〜、世界でもあたいくらいよぉ〜」


 彼女は完全に調子に乗っている。

 もう、天狗になっているレベルだ。


「魔神? そんなのぉ〜、あたいの魔法で一発よぉ〜。

 おじさんは後ろで見てればいいわぁ〜。あたいが全部ぅ〜、やっつけてあげるからぁ〜☆」


 ミスティのメスガキっぷりが完全に全開だった。


 お前、カリオペラの時あんなに怯えてたのに…

 俺は心の中でツッコミを入れたが、口には出さない。

 平和なのは良いことだ。


 アリシアは、相変わらず俺から離れようとしない。

 一時間おきにキスをするという約束は風化し、今は一分おきにキスしてくるというのは変わらないが、宿の個室なので、周囲の目を気にする必要がなくなった。

 これは、ある意味で助かる。

 ある意味で地獄だが。


「魔力補給は、順調です…♡

 この調子なら…私の魔法能力も、向上し続けるでしょう…♡」


 そして、また俺にキスをしてくる。

 もはや、呼吸するような自然さで。


「ちゅっ…ぷちゅ…♡」


 もうこれが日常になっていた。

 異常が日常になる恐怖。


 レオナルドは、芸術活動に励んでいた。

 王都には優れた芸術品が多く、彼にとっては刺激的な環境らしい。

 毎日、目を輝かせて街を歩き回っている。


「師匠! この王都の銅像は素晴らしいです!」


 レオナルドが興奮しながら、目をキラキラさせている。

 その目は、完全に芸術家のそれだ。


「ぜひ、一緒に見に行きましょう!

 この曲線美、この陰影の表現…」


 クロウは、いつものように無口だったが…

 時々、何かを考え込んでいるような様子を見せていた。


 遠くを見つめて、じっと動かない。

 天啓を受ける前触れなのかもしれない。


 平和な日々。


 それが…どれほど脆いものか、俺たちはまだ知らなかった。




 ◇ ◇ ◇




 そんな平和な午後のことだった。


 俺たちが宿の酒呑場で昼食を取っているとクロウが突然、バッと立ち上がった。

 椅子が倒れる音が、酒呑場に響く。


「…天啓」


 彼の表情が、いつもより緊迫している。

 その目には、何か恐ろしいものを見たような色が浮かんでいた。


「また天啓か?」


 クロウの天啓は、これまで何度も重要な情報をもたらしてくれた。

 古代竜の襲撃で俺が死ななかったのも、ヴェリアント王を助けられたのも、すべて彼の天啓のおかげだ。


「…大規模王国…消える」


 大規模王国が…消える?


 その言葉の意味が、一瞬理解できなかった。

 王国が消える?

 どういうことだ?


 セリア大陸で大規模王国といえばプロイシェン王国だった。

 エルリックが仕えていた、あの強大な王国。

 数百万の人々が暮らす、セリア大陸最大の国が消えるというのか?


「プロイシェン王国のことか?」

「…そう」

「…近々」


 数日以内にプロイシェン王国が消える?


 それは、とんでもない事態だった。

 想像を絶する規模の災害。

 数百万人の人々が住む王国が、一夜にして消失するなんて…


 いや、考えたくない。

 考えたくないが、クロウの天啓が外れたことは一度もない。


 いや、王様を救えたのは外したことになるか。


「急いで向かおう。何か阻止できるかもしれない」


 俺たちは、急いで出発の準備を始めた。

 プロイシェン王国まで瞬間移動で向かう予定だ。

 時間がない。

 一刻も早く。




 ◇ ◇ ◇




 でも、俺が瞬間移動の準備をしていると、突然空気が変わった。

 いや、変わったというレベルではない。

 嫌な予感が俺の背筋を氷のように冷たく走り抜ける。


 心臓が、ドクンと大きく脈打った。


 いや、嫌な予感どころではない。


 これは…

 世界全体が、まるで色を失ったかのように灰色に染まった。

 鮮やかだった景色が、一瞬でモノクロームになる。

 まるで、古い写真の中に閉じ込められたかのように。


 時間が止まったような感覚。

 いや、止まっているのかもしれない。


 呼吸が…苦しくなる。

 空気が、まるで水のように重い。


 心臓が激しく鼓動する。

 ドクン、ドクン、ドクンと。

 耳の奥で、自分の心音が響く。


 そして…


 俺の目の前に、見慣れた人影が現れた。

 いや、見慣れたくなかった人影が。


 ハルカ・カミシロだった。


 相変わらずの無邪気な笑顔を浮かべているがその目は、深淵のように暗く、底が見えない。


「拓也せんぱーい!」


 ハルカが俺に向かって、ブンブンと手を振る。

 その声は明るくてまるで、久しぶりに会った親友に声をかけるような、心からの喜びに満ちている。


「待ちくたびれちゃったっすよー!

 もうっ、どれだけ待ったと思ってるんすかー?」


 彼女はクルクルとまるで子供のように回転しながら近づいてくる。

 その動きは、無邪気で、純粋で、だからこそ恐ろしい。


「拓也先輩、全然魔神を殺してくれないっすからぁ〜。

 暇で暇で暇で〜、仕方なかったっす!」


 全身の血液が、一瞬で氷点下まで冷え切ったような感覚。

 また、この狂気の魔神と対峙することになるとは。


 俺の仲間たちも、ハルカの登場に完全に硬直している。


 特に、ミスティは一瞬で、メスガキの仮面が崩れ落ちた。

 まるで、ガラスが割れるような音が聞こえた気がした。


「ひ…ひぃぃぃっ…」


 彼女の体が、ブルブルと激しく震え始める。


「な、ひっ…何…ひっ…これ…」


 ミスティの顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。

 さっきまでの生意気な表情は、どこかに飛ばされたように。


「あたい…さっき…ひっ…まで…調子に、乗って…」


 彼女の声が、どんどん小さくなる。

 震えて、途切れて、消えそうになる。


「ご、ごめん…ひっ…ごめんなさい…っ」


 ミスティが、ドサッと床に膝をつく。

 その小さな体が、ガタガタと震えている。


「あたい…ひっ…弱い、です…本当に…ひっ、弱いです…っ。

 魔神なんて…ひっ…無理…絶対、無理…っ」


 彼女は完全に子供に戻っていた。

 さっきまでの「魔神なんてあたいの魔法で一発よ〜」という言葉が、虚しく響く。


 アリシアも、いつものキスの素振りを一切見せない。

 恐怖で完全に固まって、震えているだけだった。

 顔は真っ青で、今にも気を失いそうだ。


「こ、これは…魔力が…規格外…です。

 い、いえ…魔力なんて、レベルじゃないですよ」

「これは…世界そのもの…」


 彼女の瞳に、涙が浮かんでいる。


「怖い…怖い、です…

 キ、キスも…できない…」


 彼女の中毒的なキス欲求すら…ハルカの存在の前には、意味をなさなかった。

 それほどまでに、圧倒的な存在。


「せっかく待っててあげたのにぃ〜」


 ハルカが突然、表情を変える。

 無邪気な笑顔が消え、氷よりも冷たい殺意が浮かんでくる。

 でも、その殺意すら、どこかゲームを楽しむような雰囲気がある。


「拓也先輩、全っ然来てくれないっすもん〜」


 彼女の声は、まるで拗ねた子供のようだ。

 でも、その声に込められた怒りは本物だ。


「後輩ちゃん、ずーっと待ってたんすよ?

 なのにぃ、拓也先輩は魔神を一人も一人もっ!

 殺してくれないっす〜」


 ハルカが、ゆっくりと俺に近づいてくる。

 その一歩一歩が俺の心臓を、ギュッと締め付ける。

 呼吸が、できない。


「だからぁ〜、誰か殺しちゃうっす」


 彼女の指が、ゆっくりとまるでピアノを弾くかのように優雅に動く。


「えっとねぇ〜、誰にしようかなぁ〜」


 ハルカが、俺たちを一人一品定めするように見回す。

 その目は、まるで玩具屋で遊ぶおもちゃを選ぶ子供のようだ。


「あっ、そうだ! あの無口な人にするっす!」


 彼女がクロウを指差す。


「だってぇ、つまらなそうっすよね〜。

 無口な人ってぇ、殺しても面白くなさそうっすよねぇ〜」

「…え」


 ハルカが、無邪気に笑う。


「でも、まあいっかぁ〜」


 そして…

 

 彼女が、指を…


 パチンと鳴らした。


 その瞬間、信じられないことが起こった。

 いや、信じたくないことと言った方が正しい。


 クロウが……跡形もなく消えてしまった。


 まるで、最初からそこにいなかったかのように。

 存在そのものが、世界から削除されたかのように。

 一切の痕跡も残さず、完全に、消失した。

 血も、肉片も、服の破片すら…何も残っていない。

 空間に、ぽっかりと穴が開いたかのようだった。


「クロウ!!」


 声が裂けるほど叫んだ。


 でも、彼はもうそこにはいない。

 ハルカの指パッチン一つで、大切な仲間が消されてしまった。


 存在ごと。

 記録ごと。

 すべてが。


「あーあ、消しちゃったっすぅ〜」


 ハルカの無邪気な笑い声が響く。

 まるで、おもちゃを壊してしまった子供のように。

 でも、その目には後悔のかけらもない。


「でもぉ、つまらなかったっすねぇ〜

 もっと面白い反応を期待してたんすけどぉ〜」


 彼女が残念そうに首を傾げる。

 その仕草は、可愛らしいほど無邪気だ。


「指パッチンで消すのってぇ、一瞬すぎて楽しめないっす〜。

 次はぁ、もっとゆっくり殺すっす〜」


 ハルカの言葉が俺たちの心を、完全に凍らせる。


 こんなのが…魔神…?

 俺は心の中で、絶望的な問いを投げかけた。


 ミスティは完全に崩壊していた。

 いや、崩壊というレベルではない。

 粉々に、跡形もなく、砕け散っていた。


「ひ、ひぃぃぃぃっ!」


 彼女が床にベタッと這いつくばる。

 まるで、捕食者に怯える小動物のようだ。


「や、やだ…やだやだやだっ!」


 ミスティの声が、幼児のような泣き声に変わる。

 もはや、言葉にすらなっていない。


「あたい…ごめんなさい…ごめんなさいっ…

 さっきまで…調子に乗って…メスガキとか…」


 彼女が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で謝る。


「あたい…本当は弱い…すごく、すごく弱い…っ。

 魔神を倒すとか…嘘…全部、全部嘘…っ」


 ミスティが、ブルブルと震えながら俺にしがみついてくる。

 その小さな手は、俺の服をギュッと掴んで離さない。


「お、おじさん…助けて…お願い…っ!

 あたい…死にたく、ない…っ」


 彼女の体は——まるで冬の寒空に放り出された子猫のように、激しく震えている。


「も、もう悪口とか…言わない…っ。生意気なことも…言わない…っ! だから…お願い…助けて…っ」


 ミスティの目には純粋な恐怖しかなかった。

 カリオペラの時以上の恐怖。

 いや、比べ物にならないレベルの恐怖。


 ハルカの存在は、ミスティの心を完全に、跡形もなく砕いてしまった。

 もう、元には戻らないかもしれない。

 あのメスガキは死んだ。




 ◇ ◇ ◇




 絶望に完全に打ちのめされた。


 クロウの天啓に、何度も助けられた。

 彼の存在が、どれほど重要だったか。

 その大切な仲間を一瞬で失ってしまった。


 指パッチン一つで。


「そうそう、拓也せんっぱい♪」


 ハルカが、軽やかな本当に軽やかな声で呼びかける。

 その声は、まるで世間話をするかのように明るい。

 友達を遊びに誘うかのような調子だ。


「あたし、ちょっと実験したいことがあるんすよー」


 次の瞬間。

 手刃が、俺の右腕を肩の付け根から…


 スパッと。

 切り落とした。


 痛みすら感じる暇がなかった。

 それほど、一瞬の出来事だった。

 あまりにも鮮やかな一撃。


「うぎゃあああああ!!」


 遅れて激痛が俺を襲った。

 そして、大量の血がドクドクと噴き出した。

 まるで、赤い噴水が急にできたようだ。

 床に落ちた俺の腕から、血がどくどくと流れ続ける。

 赤い水たまりが、みるみるうちに広がっていく。


 断面からは骨、筋肉、血管、神経、すべてが露出している。

 白い骨が、赤い肉に囲まれて見える。


「わあっ、血の勢いがすっごいっすね!」


 彼女の目は、まるで科学者が珍しい実験を観察するような好奇心に満ちている。


「人間の体ってぇ、こんなに血が出るんすねぇ〜。

 面白いっす、面白いっす!」


 そして、床に落ちた俺の腕をヒョイと拾い上げた。


「ねえねえ、拓也せんぱいっ」


 ハルカが、俺の切断された腕をまるでバトンのように振り回す。

 血が、飛び散る。


「これぇ、拓也先輩の腕っすよねー?

 重さは、どれくらいあるんすかねー?」


 彼女が腕を天秤のように上下に動かす。

 まるで、重さを測っているかのように。

 比較対象がない秤。


「んー、意外と重いっすね〜。

 あ、そうだ! 中身を見てみたいっす!」


 やめてくれ。

 でも、声にならない。


「ぐちゅぐちゅ、ぐちゅぐちゅ〜」


 ハルカが、俺の切断された腕の断面を指でかき回し始める。

 血まみれの肉と骨が、彼女の指によってぐちゃぐちゃに混ぜられる。

 まるで、料理でもしているかのようだ。


「うわぁ、中身ってこんな感じなんすねー。面白いっす〜」


 彼女は、まるで粘土をこねるかのように俺の腕の中身を、楽しそうにかき回している。


「この赤いのが筋肉っすかねー? 白いのは骨っすよねー。

 あ、これは神経っすかー? 触ると、どうなるんすかねー?」


 ハルカが、俺の神経を指でツマミと摘まむ。

 床に落ちた腕なのになぜか、痛みが走る。

 いや、走るどころじゃない。

 全身に、電撃のような激痛が。


「うぎゃあああっ!!」


 声が、喉を引き裂くように出る。


「おおっ、反応するんすねー! すっごいっす!」


 ハルカが喜んで何度も、何度も神経を引っ張る。

 その度に激痛が俺を襲う。

 脳が、痛みで真っ白になる。


「面白い、面白いっす〜!」


 彼女は、俺の切断面にも指を突っ込んできた。


「ぐちゅぐちゅ、ぐにゅぐにゅ〜」


 俺の肩の傷口を、楽しそうにかき回す。


 激痛に加えて、気持ち悪さが俺を襲った。

 吐き気が、喉まで込み上げてくる。

 内臓がかき回されるような、言葉にできない不快感。

 これは拷問だ。

 完全な拷問。


「やめろ、やめてくれ!」


 俺の声はハルカには届かない。

 それどころか、もっと深く指を突っ込んでくる。


「うわあ、すっごくあったかいっす〜。

 生きてるって感じがするっすねー」


 ハルカの指が、俺の肩の骨にコツンと触れる。


「あ、これが骨っすかー。硬いっすねー」


 彼女が骨を指でコツコツと叩く。

 カツン、カツンという音が響く。


「ねえねえ、拓也先輩。

 骨ってぇ、折れるんすかねー?」


 ハルカが、俺の骨をタフっと掴む。

 そして、わずかな力を込めた。


 メキメキメキ…


 骨が軋む音がする。

 嫌な音が残り続ける。


「うぎゃあああああっ!!」


 涙が、勝手に溢れ出しているのがわかる。


「あっ、まだ折れないっすねー。

 もっと力を入れないとー」


 ハルカが、さらに力を込める。

 その顔は、まるでお菓子を開けようとする子供のように無邪気だ。


「メキッ!」


 骨が折れる音が響いた。

 パキン、という乾いた音。


「おおっ、折れたっす! やったっす!」


 ハルカが、喜んでパチパチと拍手をする。

 その手は、俺の血で真っ赤に染まっている。


 俺の仲間たちは完全に萎縮していた。

 いや、萎縮というレベルではない。

 凍りついていた。


 ミスティは、いつものメスガキムーブが一切できなくなっていた。

 床に這いつくばって、体を小刻みにいや、激しく震わせている。


「ひっ、ひぃぃぃっ…」


 か細い声しか出せない状態だった。

 もはや、言葉にすらなっていない。

 あの生意気で挑発的な態度は完全に消え失せ、まるで怯えた子猫のようになっている。


「お、おじさん…おじさん…っ。

 あたい…もう、ダメ…っ。こんなの…無理…っ」


 アリシアも、いつものキスの素振りを一切見せない。

 恐怖で完全に固まって、震えているだけだった。

 顔は真っ青で今にも、気を失いそうだ。


「キ、キスが…できない…ません。

 こ、これは…魔力補給も…意味が、ない…です。こんな化け物…相手に…」


 彼女の目には絶望しかなかった。

 涙が、ポロポロと流れている。

 俺へのキス中毒すらハルカの恐怖の前には、完全に無力だった。


 レオナルドは、拳を強く本当に強く握りしめていたが、何もできずにいる。


「師匠…っ」


 悔しさと無力感が、混じり合っているのが痛みに悶える頭からでも伝わった。


「僕は…何も、できない…っ」


 ハルカの圧倒的な存在感の前に誰も、行動を起こせない状態だった。

 動けば、次は自分が…そう思うと、体が動かない。


「あ、そうそう〜」


 ハルカが突然、俺の傷口から指を抜く。

 血まみれの指を、ペロペロと舌で舐め始めた。


「拓也先輩の血ぃ、鉄の味がするっす〜。しょっぱいっすねー」


 彼女が、まるで飴を味わうかのように指を丁寧に舐める。


「でもぉ、美味しいっす〜。もっと舐めたいっす〜」


 ハルカが、俺の切断された腕を舐め始める。

 血まみれの断面を、べろべろと犬のようだ。


「んー、やっぱり美味しいっす〜。

 生きてる人間の血はぁ、新鮮で最高っすねー」


 その光景は悪夢そのものだった。

 いや、悪夢以上だ。

 こんな悪夢、見たことがない。


 そして、急に、泣き出した。


「でもぉ…全員殺すのは、無理難題っすかねー…

 あたしぃ、拓也さんに期待しすぎたっすかねー…

 ちゃんと魔神を殺してくれると思ってたのにぃ…」


 彼女が、本当に悲しそうに涙をボロボロと流しながら泣いている。

 その感情の変化の激しさが余計に恐ろしい。

 何を考えているのか、まったく読めない。

 その涙すらも恐ろしく感じた。


「拓也先輩、失敬失敬〜」


 泣いていたのが嘘のように、楽しそうにケラケラと笑い始めた。


 血まみれの指で涙を拭いている姿が、異様だった。

 赤と透明が、混じり合うがもちろん赤が勝つ。


「後輩ちゃん、すぐ感情的になっちゃうんすよねー。 ごめんごめん〜」


 その明るさが狂気を、さらに際立たせている。


「せめて魔神は1人くらい〜、殺してほしいっすねー」


 俺の切断された腕をブンブンと振り回している。

 血が周囲に飛び散る。

 赤い雨のように。


「後輩ちゃん、退屈なのは嫌いっす〜。

 魔神と人間で殺し合うのもぉ、面白いと思うんすよねー。だからぁ、後輩ちゃん。頑張ってほしいっす〜」


「じゃないとぉ、あたしがもっと誰か〜、殺しちゃうっすよー」


 その言葉は完全な脅迫だった。

 でも、ハルカの口調は、まるでお願いをしているかのように明るくて、軽い。


 そして突然。


「『上級治癒魔法:ディヴァイン・リジェネレーション』〜」


 俺の右腕がみるみるうちに再生されていく。

 骨、筋肉、血管、神経、皮膚すべてが、まるでタイムラプスのように元通りに修復された。


 折られた骨も、切断された神経も、すべてが完璧に戻る。

 まるで、最初から何も起きなかったかのように。


 でも、痛みと恐怖の記憶は、消えない。

 俺の心に…深い、本当に深いトラウマが刻まれた。

 まるで、焼印を押されたかのように。


 ハルカの指が、俺の肉をかき回した感触が生々しくまだ残っている。

 骨を折られた激痛がまだ脳裏に焼き付いて消えない。


「あ、これもいらないっすねー」


 俺の切断された腕は宙にポイッと放り投げ出された。

 そして、腕は空中で光の粒子になって、キラキラと消えていった。

 まるで、最初から存在せず、まるで幻だったかと錯覚してしまいそうだった。


「それじゃあ、また今度っす〜」


 ハルカが、血まみれの手をブンブンと振って、俺たちの前から消えていった。

 その笑顔は、最後まで純粋で、無邪気で、明るかった。


 だからこそ余計に恐ろしかった。

 狂気そのものだ。

 サイコパス。


「拓也先輩、頑張ってっす〜!

 次はぁ、もっと楽しいことするっす!」


 そして、完全に消えた。

 世界が、元の色を取り戻す。

 でも、俺たちの心は灰色のままだった。

 後には血まみれの床と、恐怖に震える俺たちだけが残された。


 しばらくの間誰も動くことができなかった。

 声も、出せない。

 呼吸すら、忘れそうになる。


 ハルカの狂気が、あまりにも強烈で俺たちは、完全に打ちのめされていた。


 ミスティは、まだ床に這いつくばったままガクガクと震えている。


「う、うぅぅっ…」


 言葉にならない呻き声しか出せない。

 もはや、人間の声ですらない。

 いつもの「〜」という調子も使えず完全に子供に、

 いや、幼児に戻ってしまっていた。


「あたい…もう…メスガキとか…無理…っ」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっているミスティ。


「調子に乗るとか…生意気言うとか…っ

 全部…嘘、だった…っ」


 彼女の心は粉々に砕かれていた。

 さっきまでの「魔神なんてあたいの魔法で一発よ〜」という言葉がどれほど愚かだったか。

 どれほど無知だったか。


 ハルカはそんな次元の存在ではなかった。

 次元が、違う。

 格が、違う。

 世界が、違う。


「キスが…できませんでした…

 あなたへの…愛が…

 あの化け物の前では…意味が、なかったです…」


 アリシアの目には涙があふれている。

 ポロポロと、止まらない。

 彼女の中毒的なキス欲求すらハルカの恐怖で、完全に抑え込まれていた。

 それほどまでに、ハルカの存在は圧倒的だった。


 レオナルドは、悔しそうに拳を握りしめたまま動かない。


「師匠を…守れなかった…っ」


 悔しさと無力感が、渦巻いているのだろう。


 大丈夫、俺は生きている。


「僕は…芸術家として…貴族として…っ。

 何の…何の役にも、立たなかった…っ」


 俺たちは完全にトラウマを負ってしまった。

 ハルカという存在の恐ろしさを身をもって、骨身に染みて体験した。

 もう、元には戻れないかもしれない。


「クロウ…」


 俺が、ようやく声を絞り出すことができた。

 大切な仲間を失った悲しみと自分の無力さに対する怒り。

 そして、ハルカに対する恐怖。


 すべてが混在して、ぐちゃぐちゃに混ざり合って俺の心を支配していた。


 クロウは、俺たちに何度も…何度も天啓で助けてくれた。

 彼の予知能力がなければ、俺は確実に死んでいただろう。


 その大切な仲間がハルカの指パッチン一つで、消されてしまった。

 すべてが削除されてしまった。


 そして、クロウを失った現実も受け入れなければならない。


 俺は、床に座り込んで頭を抱えた。

 どうすればいいのか分からない。

 魔神を倒すどころか、一方的に仲間を殺されてしまった。

 俺たちの無力さが痛いほど、骨身に染みて分かった。


 でも、諦めるわけにはいかない。

 クロウの死を無駄にしてはならない。


 彼が最後に伝えてくれた天啓、プロイシェン王国の危機。

 それを阻止するために、俺たちは行動しなければならない。


 たとえ、どんなに恐怖に震えていても。

 たとえ、足が動かなくても。


 立ち上がる決意を固めた。


 クロウのためにも、俺たちは戦い続けなければならない。

 ハルカの狂気に屈するわけにはいかない。

 長い沈黙の後…俺は、震える声でみんなに呼びかけることができた。


「プロイシェン王国に…向かおう」


 声が震えている。

 足も震えている。

 全身が震えている。


「クロウの天啓を…無駄にするわけには、いかない」


 仲間たちも、ゆっくりと立ち上がった。


 ミスティは、まだ震えが止まらずいつものメスガキムーブは、完全に封印されてしまっていた。

 恐怖に震えながらも、俺に付いてきてくれる。


「お、おじさん…っ。

 あたい…もう…生意気、言えない…っ。

 でも…ついて、いく…っ」


 彼女の目には恐怖と共に、小さな、本当に小さな決意の光が見えた。


 アリシアも、震えながら立ち上がる。


「わ、私も…行きます…キスは…できなかった、けど…

 でも…あなたの、そばに…いたいです」


 レオナルドも、拳を握りしめて立ち上がった。


「師匠、僕も一緒に行きます」


 彼の目には、悔しさと決意が混じっている。


「今度こそ…役に立ちたい」


 俺たちが立ち上がろうとした時床を見た。

 そこには、大量の血が——まるで赤い湖のように残っていた。

 俺の腕から流れ出た血。

 ハルカがかき回した時に飛び散った血。

 すべてが、この悪夢の証拠として生々しく残っている。


 宿の主人が、血を見て驚愕するだろう。

 いや、卒倒するかもしれない。


 でも、それどころではない。


 俺たちは、プロイシェン王国に向かわなければならない。

 ミスティが、床の血を見て再び激しく震え出した。


「これ…おじさんの、血…っ」


 彼女が、涙を流す。

 その涙が、床に落ちて血と混じる。


「あたい…本当に、無力だった…っ。

 最強とか言って…調子に、乗って…っ。

 でも…何も、できなかった…っ」


 ミスティが、俺にしがみついてくる。

 その小さな体は、まだガタガタと震えている。


「ごめん…ごめんなさい…っ。

 あたい…もう二度と…生意気なこと、言わない…っ」


 彼女の心は完全に変わってしまった。

 ハルカの恐怖が、ミスティの性格を根本から、跡形もなく変えてしまった。




 ◇ ◇ ◇




 俺たちは、荷物をまとめて宿を出ることにした。


 でも、全員の動きが遅い。

 恐怖で、体が思うように動かないのだ。

 手が震えて、足が震えて、すべてが震えている。


「早く…しないと…っ」


 自分に言い聞かせる。


「クロウの天啓…無駄に、できない…っ」


 でも、手が震えてまともに荷物を持てない。

 何度も落としてしまう。

 右腕は、完全に治っているのにまだ幻痛が残っている。


 ハルカの指が、肉をかき回した感触がまだ生々しく皮膚に残っているような気がする。

 骨を折られた激痛がまだ脳裏に焼き付いて消えない。


「うっ…っ」


 思わず右腕を押さえた。

 アリシアが、心配そうに見る。


「だ、大丈夫、ですか…」


 手と唇が激しく震えている。


「キ、キスで…治癒を…」


 彼女が、俺にキスをしようとするが、できない。

 彼女の唇が、俺の唇に触れる直前でピタリと止まる。


「で、できない…」


 アリシアが、涙を流す。

 その涙が、頬を伝って落ちる。


「キスが…できないです…

 ハルカさんの恐怖が…まだ…」


 アリシアのキス中毒すらハルカの恐怖で、完全に抑え込まれていた。

 これは想像以上に深刻な事態だった。

 もう、元には戻れないかもしれない。


 俺は、改めてハルカの恐ろしさを理解した。


 エルリックは、軽い素振りで山を消し飛ばした。

 それだけでも、十分にいや、十分すぎるほど規格外の力だった。


 でも、ハルカはそれをはるかに超えている。

 次元が違う。

 

 彼女は、指をパチンと鳴らすだけで生物を存在ごと消せる。

 痕跡すら残さず、完全に世界から削除できる。


 そして、その力を使う時の彼女の表情は無邪気そのものだった。

 まるで、子供がおもちゃで遊ぶかのように。

 積み木を壊すかのように。


 人の命を何とも思っていない。

 いや、思っていないどころか楽しんでいる。

 心から楽しんでいる。

 それが、ハルカという魔神の本質だった。


 俺たちは、そんな化け物と戦わなければならない。

 いや戦うことすら許されるのだろうか。

 一方的に殺されるだけではないのか。


 そんな絶望的な思いが俺の心を、完全に支配していく。


 ミスティは、もはや別人のようになっていた。

 さっきまでの生意気な態度は完全に、跡形もなく消え去っている。


「おじさん…あたい…っ。

 もう…天才とか…無理…っ。調子に乗るとか…できない…っ」


 ミスティの目には深い恐怖が刻まれている。


「魔神人族の前では…あたい…虫けら以下、だった…っ。魔法とか…無詠唱とか…っ。全部…意味、なかった…っ」


 彼女が、俺の服をギュッと掴む。

 その小さな手は、震えて離さない。


「あたい…さっきまで…魔神を倒せるとか、言ってた…っ。

 でも…嘘だった…全部、全部嘘…っ」

「あたい…ただの弱い、子供…っ。

 ごめん…おじさん…っ。あたい…役立たず…っ」


 彼女は——完全に自信を失っていた。

 ハルカの圧倒的な力の前に、ミスティのメスガキの仮面は—粉々に砕かれた。

 もう元には戻らないかもしれない。

  あのメスガキは死んだ。


 そして、そこにいるのはただ怯える、一人の少女だけだった。


第12章 スカウト編 -終-


次章

第13章 認識改変指輪編


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