第一章 1-3
はあ、悪魔、ですか……。僕はそう答えながら、鞄を床に置き、伝票をテーブルに戻した。
「そうやねん。実は三年前に交通事故にあって人間としては死んでもうてな、それからデーモンになってサタン様に仕えてんねん」
どうしようか、と僕は悩んだ。いよいよ警察を呼んだ方がいいだろうか。おじさんは黙る僕の顔をじっと見つめ、ニヤニヤ笑うと、
「信じてへんやろ。そらそうやな。……あっち見てみい」
首を横に振って、カウンターの方を指し示した。僕はつられてそちらを見た。カウンターの向こうで、マスターが背筋を伸ばして立っている。その奥の壁には、戸の無い棚がついていて、皿やコーヒーカップが並べられていた。
「上から三段目、左から二番目のカップや」
おじさんはそう言うと、息を止めて「んっ」と喉の奥で声をあげた。僕はおじさんに言われるがまま、白い肌に淡い青色の模様の装飾がなされたそのコーヒーカップを見た。すると、コーヒーカップがすーっとこちら側へ滑るように動き、やがて戸棚から静かに落ちた。
かちゃん
カップはカウンターの向こう側の床に吸い込まれるように落ちていき、間の抜けた音をあげた。音に気づいたマスターが後ろを振り向いて、カップの落ちた辺りを見た。それからこちらに向き直り、
「……失礼致しました」
冷静なままの口調で、僕たちに向かって言った。そうしてしゃがんで割れたカップを片付け始めた。その体はカウンターに隠れ、こちらからは見えなくなった。
「ほら、これくらいのことは当たり前にできんねん」
おじさんが得意げに言った。唖然とした僕はその声でおじさんの方に向き直った。おじさんは満足そうな顔をしていた。
「でも、偶然じゃ? いや、何かのトリックでしょう」
そう言いながらも、今起きたささやかな超常現象に対する驚きで、体が熱くなっていた。おじさんは、ゲヘへヘ、と醜く笑い、
「まあまあ、他にもあるで。お兄さん、売れない小説家をやっとるんやろ? で、このサ店には小説のネタを考えるために来た。でもそれがなかなかうまくいかへんかった」
「……」
「全部、わかっとんねん。でな、この飯のお礼にや、小説のネタになる体験をさせてやる、言うてんねん」
僕はまだ半信半疑でいた。ただ、それこそ魔法にかけられたように体がぼうっと熱く、思考が停止して、おじさんの言うことにただコクリ、コクリとうなずいた。
「ええか。今日このあと家に帰ったら、自転車を置いて、歩いて、なんて言うたかな、あの小学校、藤……?」
「藤岡小学校?」
「それや。藤岡小学校の方へ行って、正門の前を横切る道路を南へ歩くんや。帰ったらすぐ行かなあかんで。分かったか」
「それで、小説のネタになる体験ができるんですね?」
「そうや」
おじさんはそう言うと、グラタンの残りにとりかかった。食べだすと夢中になって、もう僕のことは頭になさそうだった。
「……分かりました」
おじさんの言うことを全て信じたわけではなかったが、僕はそう答えた。素直に従ったのは、ひとつには、僕は散歩が趣味で、毎日歩きながら小説のアイデアを練るのが日課になっており、今日もこの後散歩をしようともともと考えていたためだった。どうせ散歩をするのなら、そのついでにおじさんの言うコースを歩いてもいい。
おじさんの興味が僕から失せてしまったのを感じ、僕は「それじゃあ」と言って席を立った。僕が行こうとすると、おじさんが、マカロニが入ったままの口をもごもごさせながら、
「お兄さん」
と声をかけてきた。僕が振り返ると、おじさんはあの下卑た笑いを浮かべて、
「またネタに困ったらな、いつでもこの店の、この席で待っとるで。また来いや」
と言った。
僕は会計を済まして喫茶店を出て、自転車に乗った。早春の夕暮れの冷え込みがそうさせるのか、いやに寒く、体が震えた。




