第一章 1-2
喫茶店のドアを開け、店内に入ると、マスターがカウンターの向こうで「いらっしゃいませ」という渋い声をあげ、あげると同時に僕の顔を見て「おや?」というけげんそうな顔をした。それから僕の後ろについてきたおじさんを見て、少し表情を硬くした。僕はマスターに軽く会釈を返しながら、入り口からすぐの窓際のテーブル席に座り、おじさんに奥の椅子をすすめた。
早春の夕陽が窓から店内へ降り注いでいた。店は椅子もテーブルも床も壁も、みんな古ぼけていたが、よく掃除が行き届いていて清潔感があった。席に座った僕から見て、左前方の隅にグランドピアノが置いてあり、右前方の隅には薪暖炉が、右後ろの隅にはどでかいスピーカーのオーディオセットがあり、ジャズが流れていた。店主のこだわりがにじみ出て、栃木県の田舎町で、しかも駅から離れ大通りからは少し奥まったところにあるにもかかわらず、長いことつぶれずにやっているだけのことはあると思わせる、しゃれた内装だった。
僕から見て店の左ななめ後ろの隅が、カウンターになっている。そこからマスターが白のカフェコートに小柄な体を包んで、コツコツと革靴を鳴らしてやってきた。
「いらっしゃいませ。メニューになります。ご注文が決まりましたら、お呼びください」
静かな、落ち着いた声で、数時間前僕が一度目に来店した時と一言一句全く同じことを言い、メニュー表を僕に渡し、ごく浅く礼をした。
「なんや、あんまり食べ物は充実してへんなあ」
おじさんは僕からメニュー表をひったくると、何度も表裏をひっくり返してぶつくさ文句を言いながら眺め、やがて僕に返した。僕が、またブレンドコーヒーにしようか、それともさっきと違う飲み物にしようか悩んでいると、おじさんはさっさと、
「すんませーん。注文」
マスターを呼びつけた。おじさんはやってきたマスターに、
「ミックスピザと、ナポリタンと、それから、なんやったけかな、お兄さん、メニューちょうだい、ん……そう、マカロニグラタン!で、あとコーヒー。お兄さんは?」
おいおい、そんなに頼むのかよ。僕は内心呆れ、しかもおじさんがさっき外で僕に話しかけてきた時と比べると、なんだかずいぶん元気なことが気に障った。飢え死にしそうな演技をしていただけだったのだろうか。
「ブレンドと、レアチーズケーキを」
おじさんにばかりお金を使われるのがしゃくになってきて、ついでにケーキまで頼んでしまった。
料理ができるのを待っている間、すぐに出てきたコーヒーをすすりながら、僕はおじさんに気になっていたことを聞いた。
「あんなところに座って、何してたんですか?」
「ん? なんやこれ、すっぱいなあ。コーヒーって、こんなすっぱかったか? ……なんや、そんな眼で人を見て。あそこにいた理由か。人を待ってたんや」
「ああ、待ち合わせですか?」
「待ち合わせって、わけでもないんやけど。ずっと人を待っとった。お兄さん、あんたや」
「は? 僕ですか?」
どうも要領を得なかった。やっぱり、少し、おかしいのかな、と思った。場合によっては、警察を呼んだほうがいいかも知れない。
「そうやねん、待っとったでえ」
そう言って、意外につぶらな瞳で、にやりと笑った。笑うとボロボロに欠けた歯が見えた。
「レアチーズケーキです」
いつの間にかマスターがやってきていて、コトリ、とケーキの載った皿を置いた。
「おっちゃん、料理まだかいな。腹、減ってんねや。ピザくらい、すぐできるやろ。どうせでき合いの生地に、具乗っけただけのもんやろ。頼むわ」
「……かしこまりました」
マスターは表情を少しも変えずにそう言って、カウンターへ戻った。
しばらくしてピザが出てきた。おじさんは話を中断しすごい勢いでそれを平らげた。平らげて、底に残ったチーズまで、フォークでこそげとって食べた。そうしているうちにグラタンとナポリタンも出てきて、やはりあっという間におじさんの餌食となった。僕は動物のようにがっつくおじさんの姿を、レアチーズケーキとコーヒーを交互に口に入れながら眺めた。
グラタンがまだ半分くらい残っているところで、僕はケーキとコーヒーを食べ終えた。僕は会計伝票を取り、鞄を持った。
「じゃあ、僕はこれで。もう、こんなところでお腹減らしてうろうろしちゃいけませんよ。まだ寒いんですから」
そう言って立ち上がろうとすると、
「まあちょっと待ちいなお兄さん、まだお礼もしてへんのに」
「お礼?」
「そうや。飯の礼に、あんたの望んでることはな、大抵かなえてやれる。なんたってな」
「……」
おじさんはゲヘッとあの下卑た笑いを浮かべると、カウンターの方を見て、マスターがこちらに聞き耳を立てていないか確認し、小声になって、
「ホンマのところを言うとな、ワシ、悪魔やねん」
と言った。




