第四章 1-2
その夜更け、僕は妻の部屋に忍び込んだ。
キイ、とドアを鳴らして開けると、廊下の向こうのリビングの明かりが真っ暗な部屋に射し込み、ぼうっと部屋の中を照らした。六畳の洋室。家具はほとんど無い。大きなものはシングルベッドと赤い布貼りの椅子が付いた木製の机、そしてそこだけが女性らしく見える、雑貨や化粧品が整頓されて飾られている棚くらい。窓は閉められて、エアコンが静かに働いていた。
僕は部屋に入ると、素早く机の上と棚を見た。どちらも目当てのものはそこに無かった。とすればあとは部屋の西側にある備え付けのクローゼットの中しかない。僕は慎重に足音を消して一歩、二歩とクローゼットへ近づいた。
「ん……」
妻が寝返りを打った。僕はどきりとした。見ると、ベッドの上に横になっている妻がその大きな目を開き、こちらを見ていた。妻は頭を起こし、かすれた声で、
「有紀くん? どうしたの?」
僕はとっさにベッドに近づき、妻の頬に手を添えて、覆いかぶさるようにキスをした。妻はキスを黙って受けてから、
「久々に、襲いに来てくれたの? でもだめだよ、私眠くて……」
そうごにょごにょ呟いたかと思うと、頭を枕につけて目を閉じてしまった。そのまま少し間があって、やがて寝息を立てはじめた。
僕は安心して、妻のそばを離れてクローゼットの前まで行き、開けた。クローゼットは上半分に洋服がずらりと並んでかけられて、下半分は下着やインナーが詰め込まれている収納棚になっている。その収納棚の上に服飾小物が置かれ、そこに僕の探していた妻の財布もあった。
妻の財布を開き、銀行のキャッシュカードを取り出した。カードの無機質で硬い感触に指が触れた時、僕はさすがに妻に申し訳なくなって、心の中で三回ほど妻に謝った。もう僕には、こうするほか道が無いのだ。百万円なんていう大金、頼んでもとても妻はくれないだろうし、僕の実家の家族は余計厳しい。消費者金融も、安定した収入の無い僕には契約してくれないだろう。となると妻の口座から、黙って金を下ろすしかない。
妻を起こさないようにクローゼットを閉めて、部屋を出た。そのままアパートを出て自転車に乗ってコンビ二を目指した。気分が高揚して、なぜだか立ちこぎになって全速力で真っ暗な夜道を自転車を走らせた。
セブンイレブンのATMの前へ行き、カードを機械に入れた。まずはそもそも百万円以上預金があるかどうか確かめるため、残高照会をすることにした。
僕は妻のキャッシュカードの暗証番号を知っている。
二年前の冬に妻が風邪を引いて寝込んだ時、ちょうど妻と僕のどちらにも手持ちが無く、金を下ろしに行かなくてはならなくなったことがある。そのころ僕は既に会社もアルバイトも辞めて小説も売れず、預金が無かったから、妻の口座から下ろす他無かったのだが、あいにく妻は高熱で銀行にもコンビ二にもとても行けない。そこで妻が僕にキャッシュカードの暗証番号を教えてカードを貸してくれ、僕が金を下ろした。カードの暗証番号は妻の携帯番号の下四桁で、覚えやすかったので、僕は今でも彼女のカードの暗証番号を覚えていたのだ。
その暗証番号を入力すると、預金残高が表示された。三百五十六万八千円とちょっとだった。
(三百五十六万!?)
僕は心の中で叫んだ。なんだあいつ、俺には食費を一日当たり二千円以内に抑えろとかケチなことばっかり言って、自分はこんなに貯めこんでたのか、イチローのNPB通算打率(三割五分三厘)より上じゃないか、などと思う一方で、これだけあれば、百万円くらい借りても大丈夫なんじゃないか、と、かすかに安心した自分が居たのだった。
そう、借りるだけだ、借りるだけ。僕はそう思いながら、ATMの一日の利用限度額である五十万円を下ろした。受け取り口から出てきた福沢諭吉たちを、鞄の中に入れてきた茶封筒にしまい、念をいれてその茶封筒を更にチャックつきのポリ袋に入れた。
茶封筒の入ったチャックつきのポリ袋を鞄に入れると、店の壁に掛けられた時計を見た。十一時四十二分。雑誌コーナーへ行き、マンガ雑誌を手に取って二十分間読んだ。日付が変わったのを確かめて、もう一度ATMの前へ行き、再び五十万円を下ろし、茶封筒に入れた。
茶封筒を先ほどと同じように鞄にしまって、ペットボトル入りのお茶を買ってセブンイレブンを出、自転車に乗った。自転車を停めた駐車場で、店の外壁に取り付けられた蛍光灯にたくさんの羽虫と蛾が舞っているのが、妙に目に付いた。
アパートに帰り、妻の部屋に再び忍び込み、キャッシュカードをクローゼットの中の財布に戻した。妻は先ほど僕のキスを受けたままの姿勢で、寝息を立てて眠っていた。ノースリーブのパジャマを着ている妻は、夏掛け布団からその細い肩を出していた。ドアの外からの明かりに映しだされた鎖骨がなまめかしかった。




