第四章 変な店員 1-1
悪魔を自称し続けているおじさんは、紫のシルクの半袖シャツに白の長ズボン、蛇皮の靴というバブル期の金持ちが着るような趣味の悪い服装で、喫茶店の僕の向かいの席に座っていた。髪もこざっぱりと切りワックスをつけて頭になでつけ、髭も剃り、ホームレス同然だった以前の姿からは考えられないような格好をしていた。
前々から気になっていたことだが、おじさんは僕が会うたびにだんだん格好が派手になっていく。今回は、シャツの襟元から金のネックレスまで見えるのである。どうせ僕や他の人間から巻き上げた金で、服を買ったり散髪したりしているのだろう、と僕は思った。
おじさんは例のニタニタと嫌な笑みを浮かべ、煙草を吸いながら言った。
「ほうかほうか、それにしてもあんたさんもよかったなあ、とうとう小説が本になるか。え? こっちのほうも、いいんと違いまっか?」
そういいながら左手の親指と人差し指で輪を作り、金を表すサインを僕に見せつけた。
『散歩の文学』は次回で連載六回目を迎え、書籍化が進められることになった。二年前に僕が○○社の雑誌に掲載した短編小説と、『散歩の文学』を合わせると、(次回書く予定の『散歩の文学』第六章を含めて)原稿用紙二百枚を超える。それは単行本にするのに最低限足りうる分量であり、『散歩の文学』が読者の人気をそこそこ得ていることから、この話が進められたのだった。
僕はおじさんの卑しいサインに苦笑を持って応え、それでも内心うれしい気持ちが無いでもなく、早速おじさんに、今回も小説のネタを提供して欲しいという依頼をした。
もう僕は自分で作品のアイデアを考えることをはじめから諦め、おじさんに頼りっきりである。いや、これまでは筋を考えることを放棄せず、自分でアイデアを練って編集者に送ることも何度か試みたのだが、そうすると必ずその作品はボツを食らってしまうのだった。どうせ無駄になるのなら、はじめからおじさんにネタを提供してもらって早めに書きあげ、推敲に時間を使ってより良い作品を作りたい、という思いがあった。
「ああ、新しい小説のネタな。分かっとると思うけど、タダってわけにもいかんで」
そら来た、と思い僕は「わかっています」と言いながら、鞄から茶封筒を出した。古びた木製のテーブルにそれを載せ、おじさんの方に押しやった。
もちろん茶封筒の中にはおじさんに渡す「取材費」が入っている。それは『散歩の文学』の前回分の原稿料から捻出したものだった。どうせおじさんに金を支払うことになるのだから、と思い、前回分に限っては原稿料を妻に渡さなかったのだ。
おじさんは無言でそれを受け取り、中に入っている札を封筒から取り出し、数えた。数え終えると、札を封筒に入れなおし、テーブルに置いた。
「ちょっと、これじゃあなあ」
そっぽを向いて言うのである。しかしこのおじさんの態度も僕には想定内のことだった。封筒には十二万円、入れてきた。これまでおじさんが僕に要求してきた取材費の金額が、五万円、八万円、十万円、十二万円と上がってきたことを考えると、当然今回も十二万円からいくぶん上乗せした金額を欲するだろうと、あらかじめ予想していたのである。僕はポケットから財布を出した。
「じゃあ、これでどうですか」
財布から二枚、一万円札を出して、封筒の上に重ねて置いた。これで僕が前回書いた『散歩の文学』第五章の原稿料はほとんど僕の手元には残らなくなるが、それでもいい。なにしろ次回分を書いて無事入稿すれば、書籍化されて印税が何十万と入ってくるのだ。
しかしおじさんは僕の置いた二万円をちらりと見ただけで、手に取ろうともせず、僕の方を向いて左手の人差し指と中指を立ててみせた。
「二十万、ですか? ちょっとそれは……これ以上、出せませんよ」
するとおじさんは、
「なんか勘違いしてるんとちゃうか?二百や」
僕は驚愕した。なぜか背筋が寒くなった。
「二百万!? そんなに払えるわけないじゃないですか! 冗談じゃない」
「あははははは」
おじさんの笑い声が喫茶店内に響き渡った。カウンターの向こうにいるマスターと、カウンター席に座っていた女性の一人客が、こちらを振り向いた。
「何を言っとんねん、先生。小説、本になるんやろ? 印税が、がっぽがっぽ入ってくるんと違うか? その分や。バカにしてもらっちゃ困るで、印税のシステムくらい」
おじさんはそこで息をためて、
「ワシも知っとるわ! ボケ!」
怒鳴った。僕はおじさんの勢いにつりこまれて、びくりとし、一瞬こちらが悪いような気になったが、慌てて挽回した。
「いやいや、申し訳ないけど、それこそ分かってらっしゃらないですよ。何百万、何千万も印税が入ってくるのなんて、大ヒットした本だけです。今回僕が話をもらったのは、1200円のハードカバーの本、初版三千部。印税は業界の慣行どおり10%です。本を刷った分の印税は前払いでもらえるので……」
「1200×3000、三百六十万円の10%で、お兄さんの取り分は三十六万円ちゅうことやな」
「そうです」
おじさんはこういう計算だけは異様に速い。
僕の実情を聞いて、おじさんは多少失望したようだった。少しトーンを落として、しかしそれでもこう言った。
「ちゅうても本が当たればそのあと増刷されるわけやろ? そうしたらやっぱりがっぽがっぽやないか」
「がっぽがっぽ……。そうですけど、今の純文学小説の売れる部数なんて、平均三千冊に過ぎないんです。ただでさえ僕は新人で、名前も知られてないっていうのに、初版の三千部さえ売り切れるかどうか」
「なんやなんや、暗いなあ。せっかく本が出るっちゅうのに。景気悪いわ! そんなんやから、売れるもんも売れへんねん。まあ、ええわ。百や百、百万。これっきり、まけへんで。それが嫌なら、小説のネタの話も無しや」
「それは――」
「あーあ! せっかくここまで来たのに、これで書籍化も無しか!もったいないなあ。ワシも応援してたっちゅうのに」
言いながら、短くなった煙草を灰皿に押し付け、ぎゅっぎゅっと消した。
僕は目の前が真っ暗になった気分だった。しかし、もう僕には、おじさんに小説のアイデアをもらう他ない。僕は数十秒沈黙した後、
「分かりました。明日、同じ時間に来ます」
「ん。それが賢明やな。じゃあこれは、手付金ちゅうことで。これとは別に、百万やで」
さっと、テーブルの上に乗っていた十四万円を手に取り、ズボンのポケットに押し込み、ニッと笑ったのである。




