第二章 津坂先生の涙 1-1
数日後、担当編集者からまた連絡があって、一度打ち合わせをしたいから社まで来て欲しい、というので、僕は東京へ向かった。
千駄ヶ谷の○○社のオフィスの談話スペースで、僕は編集者と向かい合わせに座った。編集者は三十前後の年恰好の男だ。ひどく肥満した体をジャケットとスラックスに包み込んで、アンパンマンのようにふくよかな顔に終始営業スマイルを浮かべていた。
「わざわざ遠いところご来社ありがとうございます。へっへへへ。栃木からはどれくらいでここまで来れるんですか? 二時間? 意外と近いんですね。ふっへへへ、ああそうだ、交通費は後でお渡ししますので、へへへへ」
何がおかしいのかよく分からないところで笑い、しゃべりちらす。僕は前々からあんまりこの担当編集者が好きになれなかった。かわいくて若い女性の編集者に代わってもらえないかなあ、などと時々思ったりする。
話というのは小説の連載についてだった。前に編集者が言っていた通り、僕の小説の載った文芸誌の紙面に空きがあるので、僕さえ良ければ連載をしないか、ということだった。
「この間の作品の評判が――もちろん雑誌は刊行されたばかりなので、読者の評判はまだあまり分からないですけど――なかなか社内で良くて。六月号以降も真島さんにお願いしようかという、編集長のお達しなんです」
もちろん僕にはありがたい話だった。しかし、六月号となると締め切りまでの時間があまり無く、長編の構想を練る余裕が無い。その不安を伝えると、
「へっへへ、そこはまあ大丈夫ですよ。短編を書き続けてもいいですし、なんならこの間の小説を第一話にして、連作にしてもいいです」
僕はこの話を受けることにした。
それから二度、必死の思いで短編小説を書き、編集者に送ったが、どちらもボツになってしまった。
「この前の作品みたいな、リアリティが無いんですよねえ」編集者は電話口の向こうから痛いところをずばずば突いてくる。数日間僕がまごまごしていると、また電話をかけてきて、そろそろ締め切りも近づいてきたし、今回は他の作家さんの作品を載せることにしましょうか、と嫌な口調で言う。
「いえ、もう一度だけ、書かせてください。プロットが無いわけじゃないんです」
そうですか、じゃあいついつまでに、と編集者は言って、電話が切れた。
編集者に見得を切ったものの、実際にはプロット(あらすじ)どころか、これなら、というアイデアさえ無い。自分の部屋で電話をしていた僕は、通話の切れたスマートフォンをベッドの上に放り、自分の身もベッドに投げ出した。
仰向けになって、(このままじゃ、まずいなあ)と思いながら天井の模様を見つめていた。あの模様とあの模様、人の顔に見える……あれとあれが目で、あれが口で……。そんなことを考えていると、唐突に、あの悪魔のおじさんが別れ際に言ったことが思い出された。
「またネタに困ったらな、いつでもこの店の、この席で待っとるで」
僕はベッドから起き上がった。
(いつでも待ってるって? 連絡先も交換しなかったから、僕がいつ行くかも分からないのに?)
おじさんの言ったことは信じがたかったが、藁にもすがる思いだった。僕はアパートを出、自転車に乗ってあの喫茶店に向かった。
商店街を抜け、住宅地を走り、渡良瀬川に架かる大きな橋を渡る。喫茶店はその橋の向こう、すぐにある。橋を渡って、大通りからすぐの路地を右に折れると、店の駐車場が見えてくるのだ。自転車を駐車場に停めて、喫茶店に入ると――、あの入り口近くの窓際の席に、おじさんが座っていた。煙草を吸っている。
目が、合った。
「来よったか」
おじさんは僕に向かってそう言い、にやりと笑った。




