第二章 1-2
おじさんに会釈をしながら、僕はおじさんの向かいの席に座った。座りながら、おじさんを一瞥した。以前会った時と全く同じボロボロの服を着ていたが、その全てが洗濯されたようで、染みや汚れは消えていた。体の臭いも、今日はしなかった。顔色も前より良くなっている感じがする。
カウンターの向こうからマスターがやって来た。
「いらっしゃいませ。メニューになります。ご注文が決まりましたら、お呼びください」
「ブレンドを」
僕はマスターが渡してきたメニュー表をちらと見ると、即座に答えた。おじさんの前には、既にコーヒーがカップから湯気をあげている。
「かしこまりました」
マスターはメニュー表を僕の手から受け取り、席から離れていった。
おじさんはにやにや笑って僕を見て、煙草を吸っている。僕はその笑いに反抗心を覚えながら、
「まさか、僕が来るのをずっとここで待っていたんですか? それとも、偶然ですか」
と聞いた。
「アホやなあ、ずっと待っとるわけにいかへんやろ。いつお兄さんが来るかくらい、分かんねん。なんでも分かっとんねん、悪魔やからな」
「……」
「そんなことより」
おじさんは煙草の煙を吐きつつ、
「また、小説のネタ、困ってんねやろ。あんたも甲斐性が無いなあ」
僕は返事をしなかった。言われたことは図星だったが、おじさんに言われるとなんだかしゃくに障る。
「ええで。また、ネタになるような体験、させちゃるよ。その代わり――」
現金なことに僕はすっかりうれしくなった。安心して、ここ何日間かずっと胃のあたりにつかえていた何かがすっと消えうせたのを感じた。これで小説が書ける。僕は慌てて答えた。
「分かってます、食事ですよね? なんでも食べてください」
「いや、飯もいいけど」
おじさんは再び煙草を一吸い、吸って、
「まあ、五万、ってとこやな」
吐き出しながら冷静に言った。
「五万?」
「せや。いっくらなんでもお兄さん、あんたもこれで少なくない金貰えんのやから、飯代だけってわけにはいかんやろ。なあ、センセ」
「……」
おじさんはにたにた笑っている。
「いやしかし、五万っていうのは……。正直に言いますけど、僕の貰った原稿料は、原稿用紙一枚につき五千円で、三十枚書いたから、十五万円だけなんですよ。そこから所得税分を源泉徴収されて、手取りは十三万五千円。それも全部妻に渡してしまいましたし」
「十三万! それだけ貰えたらええがな。お兄さん、甘いんとちゃうか? 商売にはなんでも『もとで』が必要やろ。この店だって、コーヒー代一杯四五十円、丸々あのマスターの懐に入るわけやないやろ? 原価率と毎日にらめっこしてんねん。それを作家さんだけ全部貰おうと考えるのがおかしい。いや、作家にだって『取材費』ちゅうもんがあるわな。そうや、この五万円はいわば取材費や」
「五万、ですか……」
おじさんは、はっ、と鼻で笑い、コーヒーをすすった。
「すっぱ! ……ええで。そんならネタの話は無しや。さて、帰るか。人が親切心で言っとるのになあ。待って損したわ」
そう言って、本当に立ち上がろうとする。僕は観念して、おじさんを抑え、
「分かりました! 今手持ちがないので……。貯金も、まるで無いですし。とにかく用意しますから、明日にでもお渡しするってことでどうですか」
おじさんは椅子に座り直し、あのゲヘッという下卑た笑いを浮かべた。
「明日の昼、ここで待ち合わせしよか」
それから運ばれてきたコーヒーをさっさと飲んで、僕は喫茶店を出た。おじさんはまだゆっくりしていくというので、僕一人だった。
駐車場で自転車の鍵を開けていると、背中の方からバリトンの声をかけられた。
「お客様」
振り返ると、マスターだった。その丸眼鏡の向こうに、小さな、しかし誠実さが伝わる眼を光らせている。
「さしでがましいようですが、あのお連れ様とは、あまり関わらない方が良いかと存じます」
「はあ、そうですか」
「これまでにも別のお客様と当店を利用なされて、そのお客様に対して、こう言ってはなんですが、悪徳商法のようなことをしているようです。私は大抵カウンターの中におりますので、きれぎれにしか会話は聴こえないのですが」
僕はこのありがたい忠告に、感謝の気持ちを抱いた。しかし――自分にはもうおじさんに小説のネタを提供してもらって、書くしかないのだ。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「そうですか。失礼致しました。またのご来店、お待ちしております」
「いつもコーヒー、おいしいですよ。それじゃあ」
僕は、自転車のスタンドをあげて、サドルにまたがった。ペダルをこいで、駐車場を出て、ふと後ろを振り向くと、まだマスターがこちらに頭を下げていたので、自転車に乗ったまま会釈を返した。




