三章 五節
「あんな散歩を毎日やっていれば、身体もそんな風になるはずだわ。納得した」
「慣れるまでは、よく身体を傷だらけにしたよ」
愛花は、公園から徒歩三十秒の所にあった弾真のアパートに通された。二階建てのアパート、その二階の角部屋にあたる部屋だ。
全身が汗で濡れている。ジャケットはとうに脱いで、部屋の隅に畳んで置いた。ボーダーのシャツが汗によって透けて、その下の白い下着の柄すらも露わにしている。
「……」
そんな姿で、足を延ばし、手を後ろについてカーペットの上に座る愛花の姿を、弾真はごくりと唾を飲み込んで、立ったまま見下ろしていた。
「き……着替えとか、いる? Tシャツぐらいならあるけど」
「え? 何で……。……っ」
愛花はその言葉の真意に、間を一瞬置いて気付き、きっと目線をキツくした。じりじり下がって弾真から距離を置き、胸を隠す。
「……ちょっと」
「ご、ごめん。気を回したつもりで……って言っても言い訳か。でも本能に嘘は吐けないって」
「……。借りるわ、Tシャツ。いい?」
「も、もちろん」
弾真は、クローゼットの中から、黒い無地のTシャツとタオルを取り出した。
「はい。……これなら、透けないと思うから」
「余計なことは言わない方がいいわよ。それと、もう一つ」
「な……何?」
「あっち向いてて。私は性の象徴を人に見せつける趣味はないの。あなたと違って」
「わ、わかりました」
百八十度回転。弾真は愛花に背を向け、ベランダへと続く大窓を見る。
愛花はその背を数秒見てから、ボーダーのシャツを脱いだ。
玉の汗が浮かぶ白い柔肌と、ブラジャーに包まれた乳房、美麗な細さのウエスト、可愛くぽこんとへこんだへそが晒される。
その状態のまま、愛花はまた数秒止まり……。くいと、ブラと胸の間に指を差し込んでみた。
愛花は横目で、弾真がこちらに背を向けていることを確認。
その後、両手を背中に回して、ブラジャーのホックに、手をかけた。
ぷちん。
小さな、しかしとても意味のある音が、弾真の部屋に初めて響く。愛花の胸、その二つのなだらかながら巨大な丘が、たっぷんと揺れてその柔和さを示した。白く大きな二つのお椀のような形状の衣類が、愛花の指を伝い、はらりと落ちていく。それを脱いだシャツにくるむようにして隠した後、一糸纏わぬ姿となった上半身の汗をタオルで拭き取り、借りた黒いTシャツをさっと着る。
「もういいわよ。シャツは今度、タオルと一緒に洗って返すわ」
「……」
「……? ねえ、ちょっと」
「……」
「……聞いてる? ねえってば!」
「……はっ!? あ、ああ、うん、はい。わかった。……い、いつでもいいよ、うん」
「え、ええ」
「うん。……ありがとうね、本当」
「……?」
愛花は、怪訝な面持ちとなった。
なお弾真には、すべてが見えていた。目を向けていた窓に映る、部屋の中の光景が、である。
いろいろと大変なことになっている弾真は、愛花に背を向け続ける妙な体勢のまま、部屋の中を歩いた。
「な、何か飲む? 冷蔵庫から、取ってくるよ」
「……何があるの?」
「えっ、ええと。み、水と、炭酸と、野菜ジュースと。あとブルーベリーかな」
「ブルーベリーは飲み物じゃないでしょう。じゃあ、水」
「わ、わかった」
「……どうかしたの? 変なことになってるけど」
「い、いいや、そんなことないよ、本当! は、はははぁ、はは……」
「……? 何なのよ、まったく……」
愛花の疑問だらけの目線に刺されながら、弾真はキッチンとリビングを仕切る扉をくぐり、冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。
「……ふうぅぅぅぅーーーっ……」
……いろいろと思うところはある。だが、やはり本能に嘘は吐けなかった。弾真はしばらくここで気を落ち着けてから、愛花の方に行こうと決めた。
大量の罪悪感を胸に落とし込みながら、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、しゃがんだまま、リビングの愛花へと放り投げる。
「い、稲穂さん。はい水! あと、そのへん、適当に座ってて、クッションとかあるから」
「どうも。悪いわね」
愛花はそれをキャッチしつつ、薦められたクッションの上で、今一度あたりを見回した。
キッチンと風呂場がついたワンルームだ。愛花は部屋の間取りにあまり詳しくないが、結構広いと感じている。床全体がカーペットのリビングの中に物は少なく、家具と言えるのはテーブル、ベッド、テレビ、本棚……。その程度だが、それにしても空いているスペースが多い。
本棚にも空きが目立つ。数冊のマンガに、犬の本、武術の本、ミリタリー系の雑誌、何やら医学書のようなもの、そして文庫本。ジャンルがまったく揃っていない。
ただでさえ人の家に入り慣れていない愛花は、部屋の中の空白という空白が気になり、今さらになってそわそわし始めた。
それと同時に、弾真の身体の横を通り抜けて、ホムラが部屋に入って来た。
尻尾の先に濡れタオルをひっかけて、それで全身をくまなく拭いている。足先の爪はすでにぴかぴかで、部屋に上がる前に自分で綺麗にしたことが伺えた。タオルを上へ放り投げ、それを口でキャッチ。尻尾でベランダへ続く大窓を開け、そこにあった洗濯機の扉を開け、タオルを放り込み、閉じる。窓を閉め、施錠までする。
「……器用ね」
愛花は思ったことを素直に口にした。ホムラは首を愛花へ向け、吐息なのか鳴き声なのかわからないものを口から漏らした後、窓際で伏せをした。
クールダウンを済ませた弾真が、両手に食料を持ってリビングに入ってくる。右腕には、大きな皿に山盛りになった何かの生肉。左手にはパック詰めのブルーベリーだ。
「はい、ホムラ。ご飯」
ホムラの前に、生肉を置く。ホムラは身を起こし、乱暴に肉の山に噛り付き、咀嚼を始めた。
「そんな大量のお肉なんて、お金がかかりそうね。ホムラのご飯」
「そうでもない。さっきの散歩の途中、肉屋が見えなかった? あそこから廃棄の肉をもらって来て、骨を取ってあげてるんだ。タダだよ。……本当は、ホムラは新鮮な肉を毎日食べたいみたいだけどね」
「そう。……水、いただくわ」
一言かけてから、愛花はペットボトルを開け、あおった。乾いた身体に、心地よい感覚が流れ込む。気持ちよさげな吐息が、ふっとこぼれた。
「……」
一方弾真は、サイズが大きいはずの黒いシャツの向こうですら、やたら自己主張して来る二つの膨らみに目を奪われ、必死で逸らしを繰り返していた。そこに付随する、「反則」という言葉がよく似合う、小さな二つの突起からも。
……さらには、己の指につままれた、「何か」とよく似たサイズと思わしきブルーベリーからも。
胡坐をかいて座り、手近なクッションを腹の前に抱き、あえてブルーベリーをいくつも纏めて掴んで口の中へ押し込む。そうして、煩悩を消し飛ばす努力をした。でないとまた再燃してしまう。
そんな弾真の現状にはまったく気づかず、しっかり、ゆっくりと喉を湿らせる愛花。そして気を見計らい、テーブルの向かいに座った弾真へ目を向けた。
「さてと。今さら逃げたりしないわよね? ……いろいろ、聞かせてもらうわよ」
「……。ああ。勝負は、僕の負けだ。何でも訊いていい」
ブルーベリーの粒を手に、弾真は小さく頷く。愛花の一言だけで、余計なことを考える余裕は消え去ってしまっていた。
「答えがあるものには、答えるよ」
「じゃあ……まずは、あなたのランクについてから。何故Eランクなのか、そこから教えてくれる? 入学時からそうなのか、それとも入学後にそのランクになったのか、そのあたりもね」
果実の粒を一つだけ噛み、飲み込んだ後、弾真はゆっくりと話し始めた。
「入学時の査定では、Dランクだった。忌術は扱えなかったし、心臓の異常もあったけど……一応は忌力を持っていて、何よりホムラがいたからね。異常なまでの聴力と嗅覚、そして高い戦闘能力をホムラは持っている。使役獣として彼女を従えている時点で、それなりの力はあると見なされたんだろう」
愛花は、先ほどゲームセンターで起きた騒動を自分たちに教えたのがホムラであることを思い出した。店の外、しかも屋上にいたはずなのに、騒がしい店内の中から、志吹に起きたトラブルの音を聞き分けた。そもそも、店の屋上までひと飛びする脚力も尋常ではない。少なくとも身体能力と聴力に関しては、弾真の言葉に偽りはない。愛花はそう確信し、弾真の言葉の続きに耳を傾けた。
「Eランクになったのは、その三か月後だ」
「……その時に、何があったの?」
「…………」
また、弾真はブルーベリーを口に放り込む。
一粒、また一粒。愛花は黙って、待っていた。
合計七粒のブルーベリーを食べた後、弾真は口を開いた。
「稲穂さんは、僕にランカーになる可能性があったって言ったら、驚くかな」
その問いに、愛花は言葉を詰まらせた。
「……何とも言えないわね。あなた自身を見ている限り、その可能性はあると思う。けれど、ガンナーの人間がランカーになったことは、今まで一度もないはずだから」
「そうだね。ナイトなら聖騎士、忌術をメインに使うメイジなら忌術士。非ランカーとランカーとでクラスの呼び名は変わるけれど、ランカーにはガンナーに相当するクラス分類はない。それが証拠だ。……でも僕は、そのクラスになる最初の一人になっていたかもしれないんだ」
「ガンナーで初めてのランカーに、ってことね」
「ああ。……でも、叶わなかった。……代わりに得たのが、【負け犬】という二つ名だった」
弾真は立ち上がり、窓辺に立った。食事と終えたホムラは、その顔を見上げ、身を起こし、部屋の隅へと移動する。
その様子をじっと見ていた弾真だったが、ホムラが伏せたのを見届け、正面に目線を戻した。
「忘れることはないよ。忘れたい過去でも、あるけれど」
「……その時のこと……話す勇気はあるの?」
「はは。……どうだろうね。でも、話すよ。約束だから」
眼鏡の向こうから愛花の方を一瞬だけ見て、弾真は窓の外へと視線を戻した。
「僕の故郷は、とある山中の田舎町だ。住んでいる人は決して多くない、小さな、小さな町。……そんな町の近くに、ある時、災いの柱が出現した。瘴気の汚染はなかったけれど、超常現象による災害と忌獣の被害は、免れなかった」
「……」
「多くの人が命を落としたって聞いてる。交通に不便な田舎であることと、瘴気による直接的な汚染がないことが理由で、偉い人たちは僕らの町を救うことを後回しにした。救援物資もなければ、逃げる先も与えられない。どうにか生き延びているわずかな人たちは、行くあてもない上に、町を離れることも出来ない。……そんな状況になってから、もう三十年以上経つらしい」
「……辛いわね」
「……。どうかな。僕は……今は、どう思ってるんだろう。よくわからないよ」
「?」
「……そんな町で、ある年、三人の子どもが生まれた。瘴気に耐性を持つ、忌抗者の資格を持った、二人の男の子と、一人の女の子。……その一人が、僕だ。町はひどい状態だったけれど、僕は幸せだったよ。両親も、町のみんなも、とても優しかった。物心つく頃には、ホムラもいてくれた。他の素質持ちの二人も一緒に、町のみんなの期待を受けて、僕らは育てられて……十五歳になると同時に、定家学園に入学した。それぞれの家庭だけじゃ、学費はまかなえなかったから……町のみんなの協力を受けた上でね。……必ず、その期待に応えよう、って。三人で、強くなって、この町を助けられる忌抗者になって、帰って来ようって。そして、みんなでふるさとを救うんだ……って。……そう、思っていた。……心から」
「その……あなたの、幼馴染っていうのかしら? その二人は、今は……」
「女の子の方はCランク。そろそろランカーに手が届く頃らしい。もう一人は……男子の方は、ランカーになった。入学後はDランクだったけど、その後三か月という早さで、Bランクのランカーだ。噂はたびたび耳にする。今年度からは、Aランクに上がったって聞いてる」
「へえ、すごいじゃない。あなたの故郷を救う人になる日も近い――っ、ちょっと待って」
愛花は頭の中で、まったく同じ言葉……けれど違う意味を持つ言葉が、ぶつかり合ったことに気付いた。
「あなたがEランクに落ちたのも……入学から、三か月後じゃなかった?」
「……うん。……たぶん、今稲穂さんが思っていることが、正解だ」
弾真は、愛花へ身体を向ける。
「僕は、同じ志を持ってこの学校に入学した幼馴染、高見絆に負けて、Eランクに落とされた。そして彼は……絆は、僕を踏み台にして、ランカーになった」
弾真の胸中に、その日の光景がありありと蘇る。胸の奥が、ざわりと音を立てた。
「…………」
愛花は、何を口にするべきか、わからなかった。
それを探すための沈黙は、弾真の言葉によって破られる。
「僕は、町を救いたい一心で自分を磨いてた。そうして、少しずつ強くなって……ホムラと共に戦うことで、Cランクへと上がった。絆もまた腕を上げて、ランクを上げて……二人で、強くなっていった。女の子の幼馴染、琴弦溟も僕らを応援してくれていた。僕はそれが嬉しかった。両親や町のみんなの声よりも、絆と技を競うことよりも……溟の存在が、支えだった」
「……。好きだったって……そういうことよね」
「ずっと一緒に育ってきたから。溟のことは女の子として、絆のことは友達として。……大好きだった。三人でいる時間が、楽しかった。この三人で、同じ道を歩んで行ければいい……。いや、歩んで行くんだって……そう思うぐらいにはね」
「……。でも、わからないわ。どうしてあなたは、幼馴染と戦うことになったの? ランクマッチの相手は、誰かに指定されるわけじゃない。戦わずに、二人で上を目指すことだって……」
「絆がそれを望まなかったんだ。入学から三か月後、お互いがランクマッチで勝ち星を重ねて、Bランクが夢じゃなくなって来たある日、絆は僕に試合を申し込んで来た。僕は、それが彼の意思ならばと、申し込みを受けた。……どれだけお互いが強くなったのか、それを知りたいって気持ちもあったけどね。……そして……僕は、負けた」
ここまでの話を聞いた愛花の中に、どうにも解消出来ない疑問がまた一つ浮かんできた。
「……こんなこと言いたくはないけれど、それだけでEランク? Cランクにまで上がった人間が、同ランクとのたった一回の戦闘で? そんなことあり得るの?」
「…………。ねえ、稲穂さん。ちょっとこっち、来てくれるかな」
「え?」
弾真はガラスの扉を開け、サンダルを履いてベランダに出た。振り返り、目線でも、言葉と同じように愛花を誘う。
「頼むよ」
「……わかった」
立ち上がり、愛花もまた、ベランダにあったサンダルを足に履き、弾真の横に並ぶ。町の向こうに沈む太陽が、今日の終わりを告げようとしていた。
「あれ、見える? あの店の看板」
夕焼けの町角を、弾真が指さした。
その先には、肉屋があった。恐らくはホムラのエサの供給源だろう。外から店内がよく見えるガラス張りの外観で、その向こうに先ほどの散歩中に見かけた男性の姿がうっすら見える。
看板は、個人の商店などによくあるタイプの、小ぶりな長方形をした看板だ。
この部屋からは、目算で約三十メートルほどの距離がある。
「……ええ、見える」
「何て書いてある?」
「お肉のナカムラ。新鮮、美味い、びっくりマークが三つ。電話番号も書いてあるわね。それも言う?」
「いや、店名が読めるなら、たぶん番号も読めているはずだ。……じゃあ、これかけて」
弾真は、いつも身に着けている眼鏡を取り外し、愛花に差し出す。
「見えるって言ったじゃない。かけても……」
「……」
「……わかったわよ、かけるわ」
弾真の視線に後押しされ、愛花は眼鏡をかけた。
「もう一度、看板を見てみて」
「ええ。……えっ?」
愛花は異変に気付く。先ほどは明瞭に見えていた看板の文字が、見えない。
「これ、どういうこと? レンズが、レンズじゃないというか……でも、かけると視界が……」
何度か、裸眼の状態と見比べて確かめる。眼鏡をかけた状態だと、視界が曇り、物が見づらくなるのは確かだ。しかし、それは所謂「度が合っていない」状態とは違う気がした。
「それ、視力を落とす眼鏡なんだ」
弾真の口から、その現象の正体が語られる。
「単純な視力と、動体視力の両方が落ちる忌術がレンズにかけられている。幼い頃に両親から貰ってから、ずっとかけてる」
弾真は手を差し出し、眉をひそめた愛花から、眼鏡を受け取る。じっとそれに目を落とした後、裸の目で肉屋に視線を投げかけた。
「鶏もも肉はグラム九十八円、豚バラは百二十八円、数量限定特上ステーキ用サーロインは千二百八十円。……今の僕には、これぐらいは簡単に見える。よく目を凝らせば、店員さんのエプロンの、どの位置にどんな汚れがあるのかもわかるよ」
「……私が見えないからって、適当なこと言ってるんじゃないでしょうね」
愛花は、ぐっと身体をベランダから乗り出して、店内を注視する。ガラスケースに値札が貼ってあることは何となく確認出来るが、値段はまるで見えなかった。
「そんなことしない。疑うなら、帰る時にでも見てみて欲しい。……ともかく、これが僕の目なんだ。目としての機能だけではなく、それを処理する視神経といった部分も、異常に発達してる。ホムラと同じで、物心つく頃からの付き合いだ。心臓と同じで体質的なものだよ」
「なら……何でその眼鏡を? かけない方が、いろいろと便利になるはずなのに」
「……僕にとっては、そんなことはない。僕は、この目を良いものだと思ったことはないよ」
眼鏡をしっかりとかけた後、弾真は前髪を整え、続けた。
「裸眼の僕には、余計なものが見えてしまうんだ。声が聞こえなくっても、人の口の動きから何を話しているかが見えてしまう。それどころか、微細な顔の筋肉の動きから、感情をも読み取れる。……嘘だって見破れる。見破る気なんてなくってもね」
「……」
「そのせいで、意図せず何度も人に不快な思いをさせたよ。眼鏡をくれたのは両親の計らいだったけど……僕自身、いつしかこの眼鏡を手放すことが出来なくなっていた。……笑顔の奥にある、嘘や、僕に対する不信感、刺々しい真意。……そういう、自分を傷つけるものを見てしまうことが、嫌だったから」
「……」
「絆はそれを知っていた。そして絆は……僕との試合で、僕の眼鏡を、故意に破壊した」
弾真の記憶が、完全なひとつのシーンとして、脳内で再生された。
フレームの真ん中で切断される眼鏡。
開ける視界。
剣を構える絆。
そして……観客席の、人、人、人、人、人……。
あらゆる悪意と蔑みが、四方八方から自分に降り注いでくる現実。それが、弾真の記憶の中で再現された。
「僕が見たのは、観客席の人たちの言葉と、その表情。……ガンナーである僕に対する負の感情、そして僕を相手取る絆に対する正の感情。……誰一人として、僕の勝利を望んでいる人はいなかった。……大好きだった、溟でさえも。彼女は、手を合わせながら何度も絆の名を呼んでいた。……絆の、名前だけを」
「……」
「僕は……その時我を忘れて、観客席に向けて叫びながら銃を乱射していたらしい。弾が切れたことにすら気付かないまま、絆の攻撃で気を失うまで。防護壁のおかげで誰も怪我をしなかったのは幸いだったけれど……。……その行為が、僕がEランクになった最大の要因だ。……一番下から、もう一度やり直せ。審判役の先生は、そう言ったっけ」
弾真は顔を俯け、自嘲じみた吐息を漏らす。
「……もっとも、やり直そうとすることすら、不可能だったけどね。銃を使う臆病者に勝ったところで、得られる評価は微々たるもの、箔だってつかない。Eランクのガンナーと戦う生徒なんてどこにもいなかった。……稲穂さんと戦うまでね」
目を閉じて、弾真は小さく笑った。漏れた吐息と共に、記憶が零れ落ち、消えてしまえばいいのにと思った。
「その時闇雲に銃を振り回したせいで、近くにいたホムラの左目にも傷を負わせた。……その時からだ、ホムラが僕の言うことを聞かなくなったのは。身体には一切触れさせないし、散歩も以前は普通だったのに、さっきみたいなことになって……」
「……目は、見えてるのよね、ホムラ」
「そのあたりの様子は、前と変わらないよ。……その後僕は、両親を通じて、この眼鏡を作ってくれた人を訪ねるために帰省した。そこでも、気付いた。みんなが気にかけるのは、絆と溟の二人だ。両親も例外じゃない。……みんな、僕に期待を向けるどころか……この目と体質を気味悪がって、ガンナーにしかなれない僕を諦観していた。……その時になって、初めて気付いたよ。両親がその眼鏡をくれたのは、僕を気遣ってのことじゃない。僕の目から、逃れたかったがためだったってことに」
自虐めいた笑みは、弾真の口元にまだしつこく絡みついている。
「もっとも最初は、ほんの少しくらいは期待していたらしいけどね。だからみんな、僕の入学を後押ししてくれたんだし。……でも、Eランクに落ちた時点で、その小さな期待すらも、僕に向けられることはなくなった。だからもう、建前の慰めも、励ましもない。……その気になっていたのは、僕だけだったんだ。会場で試合を見ていた人たちだけじゃない。今まで僕の周りにいたほとんどの人たちが……僕自身が、見たくないと思っていた人たち、そのものだったんだ」
「……」
「……眼鏡をかけることで気付かないふりをずっとしていたけれど、絆に負けたことで、それが出来なくなった。急いでかけ直して、髪も伸ばして視界を隠したけれど、その時はもう僕は気付きたくないことに気付いてしまっていて……。……ずいぶんとたくさん、大事に思っていたものを、自らの手で失くしてしまっていた。その事実は、いつだって目の前に浮かんでくる」
両手にじっと視線を落とし、弾真は静かに、重いまばたきをした。
「相棒、友達、恋、故郷……。大切にしたかったものを……守ろうと思っていたものを、全部、僕は……。……僕は、戦う理由を、見失った。どれだけ目が良くても、それを見つけることは出来なかった」
「……戦う……理由」
「自分のせいではあるけれど、ひどく堕ちたよ、その時は。学校にも行かずにこの部屋に引きこもって、時折昼夜問わずに町に出ては、いろんなことをした。……遊ぶだけならまだしも、人を傷つけるようなこともね」
「……。ひとつ、訊いていい? それでも定家学園で、忌抗者としての道を歩んでいるのは、何で? どうして……戻って来たの? 戦う理由を、見つけることが出来たってこと?」
弾真は、遠い目をして、夕焼け空を眺め、そして首を横に振る。
そうすることで少しだけ間を置いて、答えた。
「全力を尽くす戦いだけは、いつも僕に真摯だったって、気が付いたから」
「真摯……?」
「うん。……自分を鍛えて、戦いに挑む。その理由は人によって様々だと思う。でも誰もが、勝ちたいと、強くなりたいと思って戦ってる。そんな人たちが、全力で僕に向かってくる。甘えが利かなくて、怖くもあるけど……そこには、生半可な嘘や御託、誤魔化しが通じない、裏表のない世界がある。……そこにある真実は、決して僕を見捨てない。そう思うんだ」
弾真の握り拳に、人知れず力がこもる。
「一度は戦いから離れようとしたけど……でも、結局僕は戦いを捨てることは出来なかったんだよ。本当に、僕っていう存在を受け入れて、諦めないでいてくれるのは……戦いだけなんだ」
「……」
「理由もなければ、強くもない。このまま続けていたって、忌抗者として身を立てることが出来るかどうかもわからない。大手を振って帰れる場所だってない。……それでも、戦いを続けることしか出来ないんだ。……それが、僕なんだと思う。言わば、僕という人間の限界がそこにある」
「……限界、ね……」
「普通の人間なら、誰しもが持っているものだよ。少なくとも、僕は見つけた。強さや身体能力じゃない。僕が生きていく、人生の限界だ」
「人生……」
「そう。僕は、稲穂さんのように頂点に辿り着ける人間じゃない。絆のように、誰かを守るために戦える人間じゃない。そうして、高みを目指すことを望まれる人間でもない。僕の戦いには理由も必要もないって、自分でわかっていながら、それを止めることも出来ない。……僕の目の前にあるのは、誰からも目を向けられない、日陰者の人生。……【負け犬】の、人生だ」
努力が報われるかどうかじゃない。努力しながら生きている価値を、誰からも問われることのない人生。
どこにでもある、道端の石のような人生。守られるほど弱くはなく、守れるほど強くはない。
そんな人間の茫漠たる未来が、自分の足先から延々と伸びている。
「それでも、戦っていたいから、僕は戦うんだよ。ただ、それだけなんだ」
それでも弾真は、戦うと口にして、その言葉に笑って見せた。
そこにはもう、己を蔑むような嫌らしさは張り付いていない。
「…………」
愛花は、口にしようとしたことを、すべて奥歯で噛み砕いて飲み込んだ。何一つ、言葉は意味がないと感じていた。
自分は、弾真とは違う。ひたすらに上を目指すことを定められた人生。期待も羨望も、すべてこの身に受け止めて、今まで生きて来た。
それでも、上を目指して生きることが出来ていた。自分を含む誰もが、それを止めなかった。弾真の言葉を借りるなら、限界などない人生だ。
弾真にとって、そんな人間からの言葉が、どれほどの意味を持つだろう?
疑問符が、愛花の喉元につっかえる。結局、それを完全に取り除くことは、出来なかった。
何より愛花は、戦いを楽しいと口にした弾真に対し、かける言葉を持ち合わせていなかった。
「…………。そろそろ、帰るわ」
だから、愛花はそう告げた。
「ああ、うん。ごめん、いろいろと、余計な事まで喋って」
小さなため息の後、弾真は手で、「お先にどうぞ」と愛花を部屋へ入れた。その後、弾真も愛花と同じようにサンダルを脱ぎ、入室する。 窓とカーテンを閉めると、部屋の中が暗くなった。もう、夜だ。弾真はうっすらと見える部屋の中を進み、電気をつける。
「面白くない話だったとは思うけど。……稲穂さんが知りたかったことに対する答えにはなった?」
「……。ええ」
「そっか。はは、よかった。話したくもないことを話した意味はあったみたいで」
「……。ねえ」
ひと纏めになった自分の衣類を手に取り、抱き締めながら、愛花は弾真に目を向けた。
「ん、何?」
「いつにする?」
「……え?」
その瞬間、愛花の口から零れた一言を、弾真は理解出来ないでいた。
「えっと……いつって、何を?」
「決まってるでしょう、模擬戦よ」
はっきり、愛花はそう声にした。
「……え? い、いいの?」
「……あなたが頼んで来たんでしょう? 私、ちゃんと受けるって返事したわ。それなのに、そんな反応しないでくれる?」
惑った顔の弾真をまっすぐ見て、愛花は目に少し厳しさを混ぜた。
「……戦うこと、止められないんでしょう? 理由なんてなくても、戦いたいんでしょう?」
「う、うん……」
「これからも、止める気はないんでしょう?」
「……うん。もちろん」
「なら、相手になる。戦いの毎日を生きる人の足を止めるなんて、私はするつもりはないわ」
愛花は、自分には弾真に向けられる言葉など、無いとしか思えなかった。
「これは、私自身の意思」
だから、行動で示すことにした。
「どうなの。いつにするの?」
「……じゃあ……明日の放課後、さっそく。どう?」
「いいわ。五時半に第六闘技場を確保しておく。邪魔になるだけだから、誰も見学出来ないようにしておく。いいわね?」
「ああ、それでいい」
弾真は驚きこそしていたが、次第に落ち着き、笑顔で愛花の質問に答えた。
「……ありがとう、稲穂さん」
「……。さっきも言ったけど、これは私の意思よ。あなたのためだけじゃないわ」
「それでも、だよ」
「何でもいいわよ、もう。それじゃあ、明日ね」
愛花は、弾真に背を向け、靴を履いて、部屋を後にする。
「うん。……また明日」
声が聞こえたかどうかは、わからなかった。
玄関のドアが、ぱたんと閉じる。
足音が、遠ざかっていくのは、何となく聞こえた。
「……模擬戦、か」
眼鏡をかけていても、弾真は薄々感づいていた。きっと愛花は、言葉よりも行動を取ったのだろう、と。
その気遣いは、純粋に嬉しかった。
それだけではない。大して面白くもない過去の話を、愛花はすべてしっかりと聞いてくれていた。弾真自身が大した価値もないと思える話を、受け止めてくれていたのだ。
「……みっともないところ、もう見せられないな」
愛花より自分が弱いことはわかっている。けれど、それに甘えて情けない戦いをしてしまうのは絶対に嫌だ。
最初から本気で行く。向こうもそのつもりのはずだ。だから、思い切りやろう。
せめて、自分に目を向けてくれた愛花を、失望させないように。弾真はそう心に決めた。




