猫耳紳士の真相です
「お嬢様、今日はまたヴァレンティーニ公爵様とお会いになるんですよね」
姿見の前で髪を結い上げられながら、フィオレンツァは紅茶を飲むふりでその話題をやり過ごそうとした。もちろん、カップの中身はすでに空だ。
「……ええ、庭園でのお茶会に招待されているの」
「楽しみですね。何せ、あの『変な人』ですもの」
カップを皿に置こうとしたフィオレンツァの指がぴたりと止まった。
「ちょっと、マルタ!」
「お嬢様がそうおっしゃったんですよ。猫耳を付けた変な人だったって」
「それはそうだけど、そういう言い方をされると私が意地悪みたいじゃない」
鏡の中のマルタが、にんまりと笑うのが見えた。
「意地悪だなんてとんでもない。ただ、あの日から毎晩、お嬢様が寝る前に天井を見つめてため息をついていらっしゃることには、気付いておりますが」
「っ、そんなことしてません!」
咄嗟に振り返った拍子に、結いかけの髪がぱらりと解けた。マルタが「あらあら」と苦笑しながら手を伸ばし直す。フィオレンツァは仕方なく前に向き直りながら、心の中でだけ小さく毒づいた。
――していない、なんて嘘だ。
あの日、公爵――レオナルド・ヴァレンティーニの、初めて見せた笑み。真顔が標準仕様の彼が、ほんの少しだけ口の端を持ち上げたあの表情が、頭の片隅に居座って離れないのは事実だった。理由は分からない。分からないから余計に落ち着かない。
「別に、気になっているわけじゃないの。ただ、あの猫耳がまだ取れていないのかどうか、常識的な範囲で確認したいだけよ」
「常識的な範囲、ですか」
マルタの声に含み笑いが滲む。
「そうよ。だって普通、気になるでしょう。あんな立派な公爵様が、真顔で猫耳を生やしたまま社交場に出続けているのよ。周りの皆さんは見て見ぬふりを続けているみたいだけど、私はそういうの、性に合わないの」
「はいはい。お嬢様は昔からそうでした。王太子殿下の靴下の色が左右違っていたときも、真っ先に指摘したのはお嬢様でしたものね」
「あれは殿下のためを思って――」
「分かっております、分かっております」
髪飾りが最後の一つ、カチリと留まった。マルタが鏡越しに満足げに頷く。
「さあ、支度は完璧です。あとはお嬢様のお心の準備だけですね」
「心の準備なんて、必要ないわ」
そう言い切った声が、自分でも思ったより硬かった。マルタは何も言わず、ただ楽しそうに目を細めるだけだった。
◆
馬車に揺られながら、フィオレンツァは窓の外を流れる景色を眺めていた。今日もあの耳は健在なのだろうか。健在だとして、自分は今度こそ、あの謎について尋ねられるのだろうか。
(聞くと決めたのだから、聞くのよ)
膝の上で拳をきゅっと握る。目的はあくまで謎の解明であって、それ以上でもそれ以下でもない。そう自分に言い聞かせているうちに、馬車はヴァレンティーニ公爵邸の庭園へと近づいていった。
庭園に足を踏み入れた瞬間、フィオレンツァは既視感に似た緊張を覚えた。薔薇のアーチをくぐった先、白いガーデンテーブルの向こうに、レオナルド・ヴァレンティーニが座っている。
そして、その頭の上には、相変わらず黒い三角の耳が二つ、行儀よく立っていた。
「フィオレンツァ嬢。お待ちしておりました」
彼は立ち上がり、丁寧に一礼した。声も表情も、あの日と寸分違わず真顔のままだ。だが耳だけが、彼女の姿を捉えた瞬間にぴくりと動き、そのままこちらへ向いて微かに揺れた。
――まだ、あるんだ。
分かっていたはずなのに、実際に目にすると妙な安堵と困惑が同時に押し寄せてくる。フィオレンツァは淑女らしい笑みを浮かべて着席しながら、傍らに控える侍女や庭師たちの様子を横目で窺った。
誰も、彼の耳を見ていない。
いや、正確には、見て見ぬふりを完璧に貫いている。庭師は不自然なほど熱心に生垣を刈り込み、給仕は必要以上に紅茶を注ぐことに集中し、護衛の視線は地面に固定されたまま動かない。まるでこの場に耳など存在しないかのような、静かで完璧な茶番だった。
(相変わらずすごい光景だわ……)
フィオレンツァは内心で乾いた感想を抱きながら、紅茶が注がれるのを待った。カップに口をつけ、香りを味わうふりをしつつ、彼女は本題を切り出すタイミングを計っていた。
「今日の庭園も、素晴らしい薔薇ですね」
「ありがとうございます。庭師が丹精込めて育てております」
当たり障りのない会話が二言、三言。だが頭上の耳は落ち着きなく揺れ続け、時折フィオレンツァの一挙一動に合わせてぴくりぴくりと反応している。それを横目で捉えるたび、彼女の中の我慢はじわじわとすり減っていった。
「あの……公爵様」
「はい」
「率直に伺いますが」
フィオレンツァはカップをソーサーに戻し、まっすぐレオナルドを見据えた。
「その耳、まだ外れないのですか」
テーブルの周囲で、給仕がびくりと肩を揺らした。庭師の鋏がぴたりと止まる。護衛だけは微動だにしなかったが、その分だけ肩に不自然な力が入っているのが見て取れた。
レオナルドは、といえば。
「はい、まだ外れません」
至極平然と、当然の質問に当然答えるような口調で頷いた。耳がぴょこん、と機嫌よさそうに動く。
「困った様子が全くありませんね」
「困ってはおりません。慣れましたので」
「慣れるようなものなんですか、これ」
「慣れるかどうかは個人差があるかと思いますが、私は慣れました」
淡々としたやり取りに、フィオレンツァは笑ってしまいそうになって、堪えた。だが小さく肩が震えるのは止められなかった。この人は本当に、何を聞いても真顔で正面から答える。その一貫性が、かえっておかしい。
「では、伺ってもよろしいですか。皆さん気になっているはずなのに、誰も聞かない。私だけがこうして無遠慮に尋ねているわけですが――一体、その耳は何なんです?」
耳がひときわ大きく、ぴんと立った。
レオナルドは少しの間だけ、フィオレンツァの顔をまっすぐに見つめた。その視線に他意はなさそうだったが、彼女は妙にどきりとして、慌てて紅茶に視線を落とした。
「それは」
彼が口を開く。
「少々、説明に時間がかかる話になりますが」
「時間なら、ございます」
フィオレンツァは背筋を伸ばし、伯爵令嬢としての姿勢を保ったまま、彼の言葉を待った。
レオナルドは紅茶に一度も口をつけないまま、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「この耳は、魔法の副作用です」
「魔法の……副作用?」
「王国最上級魔法をご存知ですか」
フィオレンツァは記憶を辿った。学園の授業で名前だけは聞いたことがある。国家機密に類する扱いを受けており、詳細はほとんど公にされていない、あの魔法だ。
「名前だけは。詳しいことまでは存じません」
「詳細は国家機密にあたりますので、私からお話しできる範囲は限られています。ですが、大まかに申し上げれば――あの魔法を行使できるのは、王国内でもごくわずかな魔導士に限られます」
「わずか、とは」
「片手で数えられる程度です。現時点で、私を含めても」
さらりと告げられた事実に、フィオレンツァは思わず息を呑んだ。片手で数えられる。つまり、目の前のこの人物は、王国が誇る魔導士の中でも頂点に近い場所に立っているということだ。
最強の魔導士、と噂されているのは知っていた。しかし社交界の噂など、鵜呑みにはせずに誰もが話半分で聞く。もちろんフィオレンツァも。
「……それほどの魔法を、公爵様は実際に行使なさったと」
「はい」
レオナルドは短く肯定した。それ以上の説明を続けるつもりはないらしく、代わりに紅茶のカップにわずかに視線を落とした。しかし口をつける気配はない。
「差し支えなければ、なぜその魔法を?」
「それも含めて、詳細は国家機密です。申し訳ありませんが」
「いえ……不躾な質問を、失礼いたしました」
フィオレンツァは慌てて言葉を引っ込めた。国家機密という言葉の重さを、今更ながらに実感する。目の前の男が背負っているものの大きさが、少しずつ輪郭を帯びてくるようだった。
「そしてその魔法を行使すると、魔力が完全に安定するまでの間、術者にはある種の副作用が現れます。個人差はありますが……私の場合は、これでした」
レオナルドは自分の頭上を指差した。耳がその動きに合わせて、ぴくりと揺れる。
「猫耳が、副作用……」
「はい。命に別状はありません。いずれ魔力が落ち着けば自然に消えるものです。ただ、いつ消えるかについては、正直なところ私にも分かりかねます」
フィオレンツァは口を開きかけて、そのまま閉じた。理解が追いつくのに、少しの間が必要だった。
変な人。そう思っていた。誰もがそう思っているはずだった。この耳の異様さだけが浮き上がって見えて、その裏にある事情など、誰も想像しようとしなかった。
けれど今、語られた事実は真逆だった。この耳は、彼が国内でも指折りの実力を持つ証だったのだ。
「では……その耳がある間は、公爵様は」
「王国最上級魔法を使った、という事実の証明になります。もっとも、それを公言するつもりはありませんが」
「どうしてですか。むしろ胸を張っていいことのように思えますが」
「魔法の詳細を尋ねられれば、私は国家機密に触れずに済む範囲で答えることになります。それが誤解を招く可能性もありますし、何より」
レオナルドは初めて、微かに視線を伏せた。
「猫耳を生やした男が、自ら『これは最上級魔法の証です』と説明して回る姿は、あまり格好の良いものではないかと」
その言葉に、フィオレンツァは思わず噴き出しそうになった。堪えようとしたが、口の端が抑えきれずにひくついてしまう。
「それは……その、公爵様なりの美学ですか」
「美学と呼べるほど立派なものではありませんが、そう思っていただいて構いません」
耳がへにゃりと少し下がった。フィオレンツァにはそれが、微かな照れのように見えて仕方がなかった。
けれど同時に、彼女の中では、もっと大きな感情が渦を巻いていた。
――変な人、なんかじゃなかった。
これまで抱いていた印象が、音を立てて塗り替えられていく。真顔で猫耳をつけたまま社交場に立ち続けていた彼は、ただ奇妙なだけの人物ではなく、その裏側に確かな実力と、誰にも見せずにいた事情を抱えていた。
そのことに気づいた瞬間、フィオレンツァの胸の奥で、何かがことりと音を立てて位置を変えた気がした。
「教えてくださって、ありがとうございます」
素直にそう告げると、レオナルドは少しだけ目を見開いた。
「……お礼を言われるとは思っていませんでした」
「当然のことをしたまでです。知りたいと思ったので、尋ねた。教えていただいたので、お礼を言う。それだけのことです」
「あなたは、本当に」
レオナルドがそこで一度言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだような間があった。
「正直な方ですね」
以前と同じ評価だった。けれどその声の温度が、あの日よりも更に柔らかい気がして、フィオレンツァは自分の頬がわずかに熱を持つのを感じた。
礼を言われたレオナルドが、珍しく次の言葉を探しあぐねているように見えた。その沈黙が少し気になって、フィオレンツァは小首を傾げる。
「あの、ひとつよろしいですか」
「なんなりと」
「その理由でしたら、これまでにも尋ねられれば、いくらでも説明できたはずですよね。国家機密に触れない範囲で、ということでしたら」
「ええ、その通りです」
「でしたら、どうして今まで誰も……その、公爵様ご自身から、事情を明かされることがなかったのですか」
耳がぴたりと動きを止めた。
レオナルドは紅茶に視線を落とし、それから静かに顔を上げた。表情はいつも通り、変わらず真顔のままだった。
「単純な話です。聞かれなかったので」
あまりにあっさりとした答えだった。フィオレンツァはその言葉をそのまま受け取ろうとして、けれど何かが引っかかった。
聞かれなかったので。
その一言の奥に、何か小さな棘のようなものが潜んでいる気がした。周囲を見渡せば、給仕も庭師も護衛も、今この瞬間もなお、彼の耳を「見て見ぬふり」で押し通している。誰も聞かない。誰も触れない。それは彼にとって、この場に限った話ではなく――もしかしたら、ずっと続いてきた日常そのものなのではないか。
一瞬だけ、レオナルドの口元がわずかに強張ったように見えた。ほんの微かな、瞬き一つ分にも満たない変化。耳の先が、力なく伏せられる。
フィオレンツァの胸が、きゅっと締めつけられた。
それは同情ではなかった。もっと近い場所にある感情――彼がこれまで、誰からも尋ねられることなく、真顔の仮面の下でこの奇妙な状況をひとりで受け止め続けてきたのだという、静かな理解だった。
気づいているのは、きっと自分だけだ。
そう思った瞬間、フィオレンツァは何か言葉をかけなければという焦りに似た衝動に駆られた。けれど、気の利いた言葉なんて、すぐには浮かばない。
沈黙が一拍、庭園に落ちた。
風が薔薇の花びらを一枚攫っていく。給仕がカチャリと控えめにティーポットを動かす音だけが、やけに大きく響いた。
――このまま黙っていては、駄目だ。
フィオレンツァは咄嗟にそう判断すると、次の瞬間には席を立ち、テーブルを回り込んでレオナルドの隣に立っていた。
「フィオレンツァ嬢……?」
「動かないでください」
有無を言わさぬ声で告げるなり、フィオレンツァは両手を伸ばし、彼の頭の上の耳をむんずと掴んだ。
「なっ――」
「聞かれなかったから話さなかった、なんて悲しいことをおっしゃるからです。今、私が思う存分聞いて差し上げますので、覚悟してください」
指の間で、耳が驚いたようにぴるぴると震える。想像していたより柔らかく、そして温かい。フィオレンツァは構わず、根元から先端まで指を滑らせるように撫でた。
「フィオレンツァ嬢、あの、これは」
「静かに。今、観察中です」
「観察……」
給仕が持っていたポットを危うく落としかけ、庭師の鋏がガチャンと地面に転がった。護衛は完全に空を見上げて、この世に存在しない何かを熱心に鑑賞するふりを始めている。誰もかれもが、必死に「見ていない」を貫こうとしていた。
そんな周囲などお構いなしに、フィオレンツァは真剣な顔つきで耳をふにふにと揉み続けた。
「不思議な触り心地です。本物の猫みたい」
「くすぐったいのですが」
言葉とは裏腹に、レオナルドは表情ひとつ動かさない。真顔のまま、律儀に感想だけを申告してくる律儀さがまたおかしくて、フィオレンツァは思わず笑いそうになった。
「くすぐったいなら、もっとそれらしい顔をしてください。手加減します」
「いえ、報告しただけです。続けていただいて構いません」
「続けていいんですか」
「あなたが満足するまでは」
その返答に、フィオレンツァの手が思わず止まった。真顔で紡がれた言葉のはずなのに、なぜだかやけに甘く聞こえてしまって、頬に熱が集まる。ごまかすように、彼女はぐりぐりと両手に力を込めた。
「な、なら遠慮なく続けさせていただきます!」
「どうぞ」
耳が心地よさそうに、ふにゃりと垂れた。かと思えば、また何かに反応したようにぴょこんと立ち上がる。その忙しない動きが、フィオレンツァにはたまらなくおかしかった。
「ふふ、動きすぎです。忙しない子猫みたい」
「子猫と称されたのは初めてですね」
「今、命名しました。今後はそのように呼ばせていただきます」
「光栄です」
くすくすと笑うフィオレンツァと、真顔のまま淡々と応じるレオナルド。庭園の空気はいつの間にか、先ほどまでの微かな緊張感を忘れたように緩んでいた。給仕も庭師も護衛も、依然として「見ていないふり」を続けてはいたが、その口元にはどこか安堵にも似た緩みが浮かんでいる。
◆
そんな、どこか気の抜けた時間を過ごして幾刻かが経ち、お茶会の終わりを告げるように、庭園に淡い橙色の光が差し始めていた。フィオレンツァは名残惜しさを覚えながらも、耳から手を離し、身なりを整えて席へと戻った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、貴重な時間をいただきました」
レオナルドが立ち上がり、見送りのために馬車まで歩を進める。並んで歩く道すがら、フィオレンツァはふと横目で彼の横顔を窺った。耳はすっかり落ち着きを取り戻し、穏やかに佇んでいる。
馬車の前まで来ると、レオナルドが不意に足を止めた。
「フィオレンツァ嬢」
「はい?」
「先ほどの話ですが」
耳が、ほんの少しだけ緊張したように立った。
「私がこれまで誰にも事情を話さなかったのは、聞かれなかったからだと申し上げました。それは事実です。ですが……もう一つ、正直に申し上げると」
彼は珍しく、言葉を選ぶように一拍置いた。
「話す価値がある相手が、いなかったのだと思います。今日まで」
フィオレンツァの心臓が、小さく跳ねた。
「あなたにだけは、隠し事をしたくないと思いました。これは、私自身にとっても意外な感情です」
真顔のまま告げられた言葉は、飾り気もなければ、気の利いた台詞めいた響きもなかった。だからこそ、フィオレンツァの胸に真っ直ぐ届いてしまう。
「それは……」
何と返せばいいのか分からず、フィオレンツァは言葉に詰まった。頬が熱い。困惑しているはずなのに、不思議と嫌な気分はしなかった。むしろ、その逆だった。
「変な意味で受け取らないでください。あくまで、事実を申し上げただけです」
「わ、分かっております。分かっておりますとも」
早口でそう返しながら、フィオレンツァは馬車に乗り込んだ。扉が閉まる直前、レオナルドが小さく一礼するのが見えた。耳の先が、名残を惜しむようにぴるりと揺れていた。
馬車が動き出し、公爵邸の門をくぐる頃には、フィオレンツァはもう窓の外を見ていなかった。膝の上で組んだ手を見つめながら、先ほどの言葉を頭の中で何度も繰り返している自分に気づく。
――話す価値がある相手が、いなかった。
――あなたにだけは。
その一言一言が、耳の奥にじんわりと染み込んでいくようだった。彼を「変な人」だと思っていたのは、もう随分と昔のことのように感じられる。今はただ、あの真顔の下にある不器用な誠実さを、もっと知りたいと思っている自分がいた。
単なる好奇心なのだろうか。それとも――。
フィオレンツァは自分でもまだ名前をつけられないその感情に、そっと蓋をするように目を閉じた。けれど蓋の隙間から、何かが静かに顔をのぞかせている気配だけは、確かに感じていた。




