猫耳紳士は真顔です
王都で一番格式高いカフェの、一番奥の席。フィオレンツァ・アルディーニは紅茶のカップに口をつけるふりをして、実際にはひと口も飲めずにいた。
馬車に残してきた侍女のマルタには「フィオレンツァ様、あまり緊張なさらずとも普段通りで大丈夫ですからね」と、自分のほうが緊張しているような顔で言われた。
その時は、大丈夫だから心配しないでと返したのだ。
とはいえ緊張するなというほうが無理な話だ。今日の見合い相手は、あのヴァレンティーニ公爵家当主、レオナルド・ヴァレンティーニなのだから。
社交界で彼の名を知らぬ者はいない。弱冠二十三歳にして王国最強の呼び名も高い天才魔導士。冷静沈着、非の打ちどころのない立ち居振る舞い。おまけに顔立ちも人形めいて整っているとくれば、噂好きの貴族たちの間で話題にならないはずもなかった。
伯爵令嬢である自分との爵位の釣り合いは取れている。とはいえ、それは形式の上での話だ。ヴァレンティーニ公爵家は王国屈指の名門。その当主であるレオナルドを相手に、平常心でいられる令嬢がいるなら会ってみたいくらいだった。
「完璧すぎて逆に近寄りがたい、という評判だったかしら」
「ええ。ですが今日でフィオレンツァ様も、その完璧なお姿を拝見できますね」
マルタの声には隠しきれない浮つきが滲んでいた。フィオレンツァ自身、正直に言えば少しだけ楽しみにしていた。相手がどんな人物であれ、まずは自分の目で確かめてから判断する。それが彼女のやり方だった。
カフェの入り口で、給仕たちの空気がふっと変わった。誰かが扉を押し開けた気配。フィオレンツァは背筋を伸ばし、テーブルの向こうへ視線を上げる。
歩いてくる青年の姿は、噂に違わず見事なものだった。漆黒の髪、すっと通った鼻筋、蒼灰色の瞳は氷を溶かし込んだように涼やかで、纏う衣装の仕立ても一分の隙もない。
その頭の上に、黒い三角の耳が二つ、ぴょこりと生えていた。
フィオレンツァの持っていたカップが、かちゃりと音を立てて皿に戻った。
見間違いだろうか。瞬きを二度してみる。耳は消えなかった。むしろ、彼の歩調に合わせてふるふると小さく揺れている。
給仕の一人が水差しを運びながら、明らかにその耳を二度見し――そして何事もなかったかのように顔を戻した。近くの席の貴婦人も、扇で口元を隠しながら視線を明後日の方向へ逃がす。
誰も、何も、言わない。
「――お待たせいたしました」
青年は席の前で立ち止まると、寸分の乱れもない所作で一礼した。声は評判通り、低く落ち着いていて、耳に心地よい響きを持っている。それだけなら、非の打ちどころのない紳士の登場だった。
頭上の耳さえなければ。
フィオレンツァはとっさに視線を彼の目に戻した。相手の顔は、笑みひとつ浮かべぬ真顔だった。冗談を言っている風でもなければ、余興のつもりでもなさそうだ。至って平静、至って真剣。まるでその耳が最初からそこにあるのが当然だと言わんばかりの表情で、彼はゆっくりと向かいの椅子に腰を下ろした。
――何なの、これ。
フィオレンツァは、握りしめた扇の陰でひとり困惑を噛み殺した。
「レオナルド・ヴァレンティーニです。本日はお時間をいただき感謝します」
真顔のまま名乗る青年の頭上で、耳がぴくりと動いた。まるで自分の声に反応するみたいに。
フィオレンツァは半分ほど口を開けたまま、しばし言葉を失っていた。何か言わなければ。だが「はじめまして」よりも先に「その耳は」が喉まで出かかって、慌てて飲み込む。
「……フィオレンツァ・アルベルティです。こちらこそ」
かろうじて絞り出した挨拶は、我ながら間の抜けたものになった。
給仕が飲み物を運んできて、恭しくテーブルに置く。その視線が一瞬、公爵の頭上をかすめた。ほんの刹那の停止。だがすぐに何も見なかった顔で一礼し、優雅に去っていく。
護衛らしき男が壁際に控えているが、彼もまた微動だにせず前を向いたきりだった。訓練された無表情というより、意識的に「見ないようにしている」硬さがある。
近くのテーブルの令嬢たちが扇の裏でひそひそと囁き合っているのが見えた。何を話しているかは聞こえずとも、視線の先が誰の頭上を向いているかは明白だった。それでいて誰一人、公爵に向かって指をさす者もいなければ、声をかける者もいない。
(見えてる。絶対見えてるのに、誰も何も言わない)
相手の身分と実績があまりに圧倒的すぎると、常識のほうが道を譲るらしい。猫耳を生やした公爵閣下がいるという、この目の前の異常事態にすら。
「フィオレンツァ嬢は、紅茶がお好きですか」
レオナルドが静かに問う。世間話の第一声としては至極まっとうな質問だった。まっとうすぎて、逆に不気味だった。
「え、ええ。好きです、が――」
言いながら、フィオレンツァの視線はどうしても彼の耳に吸い寄せられてしまう。黒い毛並みがつやつやと光を弾いていて、よく見れば付け耳にしては動きが自然すぎる。風もないのに、ぴるり、ぴるりと小さく震えているのだ。
「このカフェの茶葉は、東方から取り寄せた希少な品種だと聞いています。渋みが少なく、香りが立つのが特徴です」
「……はあ」
耳の話は一切出ない。彼の顔には、恥じらいも、悪びれも、悪ふざけの気配すらない。ただ淡々と茶葉の産地について語る公爵閣下と、その頭上でふるふる揺れる黒い三角の耳。あまりのちぐはぐさに、フィオレンツァは自分の常識のほうがおかしいのではないかとすら思い始めていた。
誰も触れない。触れられない。だが確実に、この場にいる全員がその存在に気づいている。
フィオレンツァの中で、こめかみのあたりに小さな苛立ちの芽が顔を出し始めていた。
◆
「――魔法談義といえば、先日の学術院での発表をご存じですか。属性変換術式の新理論についてです」
レオナルドは実に興味深そうに――声色だけは――語り続けていた。フィオレンツァは相槌を打ちながら、内心では別のことを数えている。彼が話し始めてから、耳が動いた回数。すでに両手の指では足りない。
「新理論、ですか。私はあまり詳しくなくて……」
「なるほど。では簡単に説明しましょう。属性変換とは、術者の魔力を――」
説明は淀みなく、理路整然と続く。声に熱はないが、内容には確かな知性が滲んでいた。だからこそ余計に始末が悪い。この人は本当に、頭の上に猫の耳を生やしたまま、何ら恥じるところなく学術の話を続けているのだ。
給仕が新しい茶菓子を運んできた。今度は護衛の男の目が、ほんの一瞬だけ泳いだ。彼もまた必死に「見ていない」ふりを保っているらしい。だがその肩には、明らかに力が入りすぎていた。
近くの令嬢たちの囁き声が、少しずつ大きくなっている。扇の陰から漏れる声に、抑えきれない笑いの気配が混じり始めていた。誰も直接口にはしないが、この場の全員が同じ一点を見つめ、同じ疑問を共有している。
(何なのその耳は。何なのその耳は。何なのその耳は――!)
フィオレンツァの内側で、同じ言葉が反響するように渦を巻いていた。淑女としての自制心が、必死にその渦を押しとどめている。今この瞬間も、公爵の耳はぴるり、ぴるりと会話の抑揚に合わせて震え続けていた。
「――フィオレンツァ嬢? 聞いておられますか」
「は、はい! もちろんです!」
慌てて頷いたものの、正直なところ内容はほとんど頭に入っていなかった。彼の耳が右に傾いた、左に伏せた、また立った――そちらにばかり気を取られていたのだから無理もない。
レオナルドはわずかに首を傾げた。その拍子に、耳もつられて同じ角度へ傾く。
「顔色が優れないようですが」
「いいえ、あの、大丈夫です。大丈夫、ですので……」
大丈夫では、まったくなかった。
フィオレンツァの手の中で、扇の骨がみしりと小さな音を立てた。喉の奥から、堰き止めていた何かがせり上がってくるのを感じる。淑女らしく、上品に、当たり障りなく――そう自分に言い聞かせるほどに、その何かは大きくなっていく。
もう、限界だった。
「いえ、やっぱり大丈夫じゃありません!」
声は、自分でも驚くほど大きく響いた。カフェの喧騒がすっと止まる。
「猫耳です! さっきからずっと、猫耳の話をされてもいいはずなのに、そこに触れないから、私、ずっとどうしたらいいのか分からなくて――」
言ってしまった。フィオレンツァはいったん口を噤んだ。けれど、もう遅い。口に出した言葉は取り消せない。ここまで来て、黙って淑女らしく微笑むなど、できるはずがなかった。
フィオレンツァは扇をぱちりと閉じ、レオナルドの――正確には、その頭の上の黒い三角の耳を、まっすぐに指差した。
「公爵様、それ、その耳、一体何なんですか? さすがに猫耳はないでしょう!」
言葉は堰を切ったように溢れ出る。もう止まらない。
「属性変換術式の前に、まず頭の上のそれです! 皆さん気になっていますよね? 私だけじゃありませんよね?」
フィオレンツァは勢いのまま、周囲のテーブルへぐるりと視線を向けた。令嬢たちが扇の陰でびくりと肩を跳ねさせる。給仕は運んでいたトレイを危うく傾けかけ、護衛の男は壁に張り付いたまま石像のように固まった。誰もが「見て見ぬふり」の仮面をはぎ取られ、行き場を失っている。
「見えてますよね! 動いてますよね、今も! ぴるぴるって! それを誰も指摘しないまま、紅茶がどうとか術式がどうとか、そんな話を涼しい顔で続けられる神経が、私には理解できません!」
言い切って、フィオレンツァは肩で息をついた。頬が上気しているのが自分でも分かる。淑女らしからぬ大声を出してしまった自覚はあったが、今更後には引けない。
カフェの中に、痛いほどの沈黙が落ちた。
給仕のトレイの上で、カップが小さく鳴った。それだけが聞こえるほどの静けさだった。誰も動かない。誰も口を開かない。まるで時間ごと凍りついたようだった。
その沈黙の中心で、レオナルドは大きく目を見開いていた。整った顔に張り付いていた無表情が、初めてわずかに揺らぐ。頭上の耳が、ぴんと勢いよく立ち上がった。
数拍の間、彼は言葉を探すように口を薄く開けたまま、フィオレンツァの顔をまじまじと見つめていた。
沈黙を破ったのは、レオナルドの喉から漏れた小さな音だった。
「――ふ」
短い、けれど確かな呼気。それが笑い声だと気づくまで、フィオレンツァには少し時間がかかった。真顔しか見せなかった彼の口の端が、ほんのわずかに持ち上がっている。
「……この耳に問題があるとは考えていません」
いつもの平静な声だった。だがその響きには、これまでと違う何かが滲んでいる。頭上の耳が、機嫌よさそうにぴくぴくと揺れていた。
「は? 問題があるかないかを聞いているのではなくてですね」
「あなたは、正直な方ですね」
レオナルドはフィオレンツァの抗議を涼しい顔で受け流し、そう続けた。真顔のまま、けれど確かにその声には柔らかさが混じっている。
「好ましく思います」
不意打ちの言葉に、フィオレンツァは開きかけていた口を閉じることになった。何と返せばいいのか分からない。淑女らしい切り返しの一つも思いつかず、ただ相手の顔を見つめ返すことしかできなかった。
周囲では、凍りついていた空気がゆっくりと溶け始めていた。給仕が我に返ったようにトレイを持ち直し、護衛の男が詰めていた息を静かに吐く。近くの令嬢たちも、扇の裏で小さく囁き合いながら、驚きと安堵の入り混じった視線をこちらへ向けていた。
「あの、公爵様。今のは褒め言葉のつもりですか」
「ええ。誰も口にしないことを、あなたは口にした。それは得難い美点だと思います」
「褒められている気がまったくしません……」
そう言いながらも、フィオレンツァの中では先ほどまでの苛立ちが少しずつ形を変えていた。目の前の男は、真顔のまま自分の失礼な発言をきちんと受け止め、その上で「好ましい」とまで言ってのけた。普通なら気を悪くしてもおかしくない場面のはずだ。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」
レオナルドが静かに問う。
「その耳について、これ以上追及なさらないのですか」
「え……」
「先ほどまでの勢いからすると、まだ質問は尽きていないように見えましたが」
からかっているわけではなさそうだった。むしろ本当に不思議そうに、彼はフィオレンツァの反応を窺っている。頭上の耳が、答えを待つように小さく立っていた。
「……聞いたら、答えてもらえるんですか」
「勿論です」
即答だった。むしろ、はぐらかす気満々である証拠のような返しに思えた。だからフィオレンツァは思わず眉を上げる。
「いえ、やっぱり結構です。聞くとしたら、周囲に関係のない人が居ないような場所にします」
「賢明な判断です」
生真面目な声で、レオナルドはそう言った。だがその口元には、先ほどよりもはっきりとした笑みの気配が浮かんでいる。
真顔しか見せなかった男の、初めての表情の揺らぎ。それを目の当たりにして、フィオレンツァは自分の胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かない音を立てているのに気づいた。
(何、今の。別に、大したことじゃないのに)
苛立ちの続きだったはずの熱が、いつの間にか違う質のものに変わりかけている。フィオレンツァはそれを認めたくなくて、紅茶のカップに視線を逃がした。
◆
見合いの時間は、思っていたよりもずっと穏やかに過ぎていった。
あの一悶着のあとは、不思議と場の空気が軽くなっていた。給仕たちの動きにもぎこちなさが取れ、令嬢たちの囁き声も、どこか楽しげな響きに変わっている。レオナルドは相変わらず猫耳をつけたままだったが、もう誰もそれを「見て見ぬふり」する必要はないようだった。ただ触れないだけで、空気そのものは確かに和らいでいた。
「本日はありがとうございました、フィオレンツァ嬢」
見送りに立ったレオナルドが、丁寧に一礼する。その拍子に耳がふわりと揺れた。
「こちらこそ、その、失礼な発言も多々あったかと思いますが」
「いいえ。有意義な時間でした」
淡々とした声で、けれど確かな響きを持ってそう告げられ、フィオレンツァは小さく頷くしかなかった。馬車に乗り込む前、最後にもう一度だけ振り返る。レオナルドは真顔のまま、けれど口元にはやはりあの小さな笑みの気配を残していた。
馬車の中、揺れる車内でフィオレンツァは窓の外へ視線を投げていた。隣に座るマルタが、待ちきれない様子で身を乗り出してくる。
「フィオレンツァ様、いかがでしたか、公爵様は」
「……変な人だったわ」
「まあ」
「猫耳は付けてるし、それについて全然説明してくれないし、こっちの失礼な発言にまで『好ましい』とか言い出すし」
数え上げればきりがないほど、突っ込みどころに満ちた見合いだった。それなのに、なぜだろう。振り返ってみても、不快な記憶としては残っていない。
脳裏に浮かぶのは、あの一瞬だけ緩んだ口元だった。真顔しか見せなかった男が、自分の言葉で初めて表情を動かした、あの束の間の変化。
(ただの変な人、のはずなのに)
窓に映る自分の顔が、思いのほか落ち着かない表情をしていることに、フィオレンツァは気づいてしまった。慌てて表情を引き締めてみても、胸の奥のざわめきまでは消せそうにない。
社交界では誰も触れられない、あの奇妙な空気。その中でただ一人、自分だけがレオナルドの素の笑みを見た。そう思うと、なんだかくすぐったいような、落ち着かないような、名前のつけにくい感情が胸の内側に居座っている。
「変な人だったけど」
窓の外を流れる王都の景色を眺めながら、フィオレンツァは小さくつぶやいた。
「――また会うことになったら、今度こそ、あの耳についてちゃんと説明してもらうんだから」
馬車は静かな車輪の音を立てながら、アルディーニ伯爵邸への道を進んでいった。




