猫耳紳士は今日も真顔です
夜会の会場に足を踏み入れた瞬間、フィオレンツァはまず音の圧に少したじろいだ。弦楽の調べ、グラスの触れ合う涼やかな響き、そこかしこで交わされる社交辞令の波。シャンデリアの光が磨き抜かれた大理石の床に反射して、会場全体がきらきらと眩しい。
「お嬢様、探す方はお一人だけですか」
背後に控えるマルタが、笑みを含んだ声音で尋ねてくる。フィオレンツァは振り返らずに答えた。
「探すも何も、いれば嫌でも分かるでしょう」
「ふふ、違いないですね」
言うが早いか、会場の奥の方に小さな渦のような空気の乱れを見つけた。人だかり――いや、正確には「人だかりの周りに空いた不自然な空白」だった。誰も彼もがそちらを見ないようにしながら、しかし視線の端では絶対に外していない。給仕がグラスを配る速度が、その一角だけ明らかに遅くなっている。
「今夜も絶好調のようね」
フィオレンツァは苦笑を浮かべながら、その空白の中心へと足を向けた。近づくにつれ、人の輪の隙間からようやく目当ての姿が見えてくる。漆黒の髪、蒼灰色の瞳、そして――夜会の正装の上に、堂々と鎮座する黒い三角の耳。
レオナルド・ヴァレンティーニ公爵は、いつも通りの真顔で、いつも通りシャンパングラスを傾けていた。周囲の視線など存在しないかのように。
「ご無沙汰しております、ヴァレンティーニ公爵。相変わらず、絵になりますな」
近くにいた老年の伯爵が、当たり障りのない言葉を投げかけながらも、目線はレオナルドの耳の五センチ上あたりを慎重に泳いでいる。誰も彼の目を見ない。誰も耳を見ない。器用に、まるで最初からそこに何もないかのように振る舞う。
「恐縮です」
レオナルドは短くそう返しただけだった。愛想笑いの一つもなく、淡々と。それでいて、耳の先だけがぴくりと小さく動いたのを、フィオレンツァは見逃さなかった。
(退屈しているのね)
なぜかそれが分かってしまう自分に、フィオレンツァは小さく息を吐いた。呆れているのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない感情が胸の内側でくすぐったく動く。
「フィオレンツァ様がいらっしゃいましたわ」
近くの令嬢たちが囁き合う声が耳に入る。好奇の視線がこちらへ向くのが分かった。
社交界の噂が回るのは驚くほどに早い。
この夜会にいる誰もが知っている。ヴァレンティーニ公爵の猫耳に関しては、触れないでおくのが暗黙の了解であること。そして、そんなヴァレンティーニ公爵に唯一まともに話しかけられる令嬢がいる、と。
「さて」
フィオレンツァは肩をすくめ、人だかりの空白へと迷いなく踏み込んだ。誰も足を踏み入れない領域に、当然のように。
周囲がわずかにざわめく。公爵に対して不躾なのでは、という空気。だがフィオレンツァはそんな視線などとうに慣れっこだった。
「ごきげんよう、公爵様」
真正面から声をかけると、レオナルドの蒼灰色の瞳がすっとこちらを向いた。その瞬間だけ、耳の先が嬉しそうに――いや、これはきっと気のせいだ――ぴこん、と持ち上がった気がした。
「ごきげんよう、フィオレンツァ嬢」
レオナルドはグラスを持ったまま、いつも通りの声量、いつも通りの抑揚のなさで返した。周囲の令嬢たちが息を呑む気配がする。まるで珍獣の生態観察でもしているかのような視線だ。
「今日も見事な猫耳ですこと」
「ありがとうございます」
「褒めてません」
「そうでしたか」
真顔で言い切られると、こちらの方が調子を狂わされる。フィオレンツァは扇を軽く広げて口元を隠しながら、内心でひとつ息をついた。この人はいつまで経ってもこうなのだ。
「今夜は何か特別な予定でも?」
「いえ、特には」
「では、なぜいらしたんです」
「招待されたので」
「それはそうでしょうけど」
会話が微妙に噛み合っているようで噛み合っていない。だがフィオレンツァはもう慣れたもので、次の一手をすぐに繰り出す。
「せめて隠すお気持ちはないんですか。帽子とか」
「試そうとしたことはあります」
「あるんですか」
「耳の形に穴を開ける手間を考えて、やめました」
「発想が実用的すぎます」
思わず笑いが漏れた。周囲の空白地帯にいる貴族たちが、ぎょっとした顔でこちらを見る。公爵に向かってそんな軽口を叩ける人間がいるとは、という驚きが見え隠れしていた。
「フィオレンツァ嬢は、今夜も遠慮がありませんね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「そのつもりで言いました」
耳の先が、ぴるりと小さく揺れる。フィオレンツァはその動きをちらりと見て、口元がゆるむのを堪えた。この人は表情筋こそ仕事をしないが、耳が代わりに全部喋ってくれる。便利といえば便利だった。
「今日のドレス、とてもお似合いです。あなたの美しい姿が見られたから、今夜は来て正解でした」
不意にそう言われて、フィオレンツァは一瞬言葉に詰まった。飾り気のない、まっすぐな賛辞。冗談の合間に唐突に挟まれるものだから、余計に威力がある。
「……ありがとうございます」
「本当のことを言っただけです」
「知ってます。だから困るんです」
小さく零した言葉に、レオナルドが軽く首を傾げる。その拍子に耳がふるりと揺れ、フィオレンツァは慌てて話題を変えることにした。
「そういえば、シャンパンばかりで食事は?」
「まだです」
「では行きましょう。話し相手がいなくて時間を持て余していたんじゃないですか?」
「否定はしません」
素直すぎる返答に、フィオレンツァはくすりと笑って歩き出す。隣に並んだレオナルドの気配が、いつもよりわずかに軽やかに感じられた。周囲の視線はまだ纏わりついていたが、もう気にならなかった。いつものことだ。
軽食の並ぶテーブルへ向かう途中、フィオレンツァは背後で交わされる囁き声を拾ってしまった。
「相変わらずの変わったご趣味だこと」
「あれで公爵家当主だなんて、ねえ」
「まあ、魔法の腕は確かなのでしょうけど……人となりはどうも」
振り返らなくても、誰が言っているかは大体察しがついた。扇の陰に隠れて、こちらに聞こえていないつもりの声。だが夜会の喧騒の中でも、悪意を含んだ言葉というのは不思議とよく届くものだ。
隣を歩くレオナルドの横顔を、フィオレンツァはちらりと窺った。表情は変わらない。いつも通りの真顔。耳もぴくりとも動かない。聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているだけなのか、判別がつかなかった。
「公爵様」
「はい」
「今の、聞こえていました?」
「何のことでしょう」
しれっとした返答に、フィオレンツァは眉根を寄せた。嘘が下手なのか、それとも本当に気にしていないのか。どちらにせよ、その平然とした態度がかえって胸の奥をちりちりと焦がした。
(聞こえていないはずがないのに)
給仕からグラスを受け取る手つきも、料理を選ぶ仕草も、いつもとまったく変わらない。まるで自分に向けられた言葉ではないかのように振る舞っている。その徹底ぶりに、フィオレンツァは奇妙な苛立ちを覚えた。誰かを庇いたいと思ったのは、これが初めてではないけれど。
「変わったご趣味、ですか」
思わず声に出してしまってから、フィオレンツァは唇を引き結んだ。レオナルドがこちらを見る。
「気にしていません」
「私が気にしているんです」
言ってから、しまった、と思った。だがもう遅い。レオナルドの蒼灰色の瞳が、わずかに見開かれる。耳の先が、今度こそはっきりと持ち上がった。
「フィオレンツァ嬢が?」
「……当然でしょう。目の前で悪口を言われて平気な顔をされていたら、こっちの気が済まないんです」
早口でまくし立てるように言ってから、フィオレンツァは自分の頬が熱くなっているのに気づいた。庇うつもりで口を開いたのに、まるで自分の方が動揺しているみたいだ。
レオナルドはしばらく黙ってこちらを見つめていた。周囲の喧騒が、なぜか一瞬遠くなったような気がした。
「……ありがとうございます」
静かにそう言われて、フィオレンツァは慌てて視線を逸らした。皿の上の小さな菓子を意味もなく見つめる。心臓のあたりが、いつもより少しだけ落ち着かない。
これまでは、いつも自分がツッコミを入れる側だった。呆れて、笑って、それで済んでいた。けれど今の感情は、それとは少し違う手触りをしていた。誰かを庇いたい、守りたいという気持ちに、自分でもまだうまく名前をつけられずにいる。
◆
「少し、外の空気を吸いに行きませんか」
食事を終えたところで、レオナルドが静かにそう切り出した。フィオレンツァは一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに頷く。
「ええ、そうしましょう」
会場の喧騒を抜け、バルコニーへと続く硝子扉をくぐると、夜風がふわりと頬を撫でた。屋内の熱気とざわめきが遠のき、代わりに庭園の木々のざわめきと、遠くの虫の音だけが聞こえてくる。手すりに寄りかかると、月明かりが石畳の上に淡く影を落としていた。
しばらく二人とも黙っていた。気まずいというよりは、言葉を探しているような沈黙だった。フィオレンツァは夜風に揺れる自分の髪を押さえながら、隣に立つレオナルドの横顔を見やる。
「今夜も、私は遠巻きにされていますね」
先に口を開いたのはレオナルドだった。淡々とした声、いつも通りの真顔。だが、その言葉には自嘲めいた響きが確かに混ざっていた。
「……気にしていないのでは?」
「気にしていません。慣れていますから」
「慣れている、というのは、気にしていないというのとは違う気がします」
フィオレンツァがそう返すと、レオナルドは少しだけ目を伏せた。月明かりの下で、その耳が力なく後ろに倒れるのが見える。ふだんの、感情豊かに動く様子とは違う、静かな伏せ方だった。
「物心ついた頃から、私は少し周りと違っていました。魔力の質も、量も。強すぎる力というのは、時に人を遠ざけるものです」
「……」
「猫耳のことも、正直に言えばもう慣れました。ただ――」
言葉が一瞬途切れる。フィオレンツァは息を潜めて続きを待った。
「誰も、私に本当のことを聞かない。聞かれれば答えるのに、誰も聞いてくれない。それが、少しだけ寂しいと思うことはあります」
静かな声だった。責めるでも嘆くでもない、ただ事実を淡々と述べるような口調。だからこそ、その奥にある孤独の輪郭が、フィオレンツァの胸に鋭く刺さった。
「私は、聞きましたよ」
思わず口をついて出た言葉に、レオナルドがこちらを見る。
「ええ。あなたは、聞いてくださいました」
その声に、微かな熱がこもっているのをフィオレンツァは感じ取った。真顔のまま、けれど確かに、何かが揺れている。耳の先がゆっくりと持ち上がり、こちらへ向く。
「あなたにだけは、いつも本当のことを話してしまいます。不思議なものですね」
月明かりに照らされたレオナルドの横顔を見つめながら、フィオレンツァは自分の鼓動が速くなっていくのを感じていた。
庇いたい、という気持ちの向こうに、もっと知りたい、もっと近づきたいという感情が確かに芽生えている。それが何という名前を持つ感情なのか、彼女はまだ、はっきりとは分からずにいた。
夜風が二人の間を静かに通り抜けていく。フィオレンツァはしばらく黙ったまま、手すりの上で組んだ自分の指先を見つめていた。何か言わなければと思うのに、言葉がうまく形にならない。
「公爵様」
ようやく口を開いたのは、沈黙に耐えきれなくなったからだった。
「はい」
「猫耳、やっぱり気になりますか」
我ながら遠回りな聞き方だと思った。本当に聞きたいことは、もっと別のところにあるはずなのに。
レオナルドは少しの間、こちらを見つめてから答えた。
「気にしていません。ただ」
「ただ?」
「あなたが当たり前のように受け入れてくれることが、ありがたいのです」
いつも通りの真顔、いつも通りの平坦な声。それなのに、その言葉はフィオレンツァの胸の奥深くまで、するりと入り込んできた。
――ああ。
不意に、何かが像を結ぶ感覚があった。今までずっと、猫耳のことは「これさえなければ」と思っていた。この人から猫耳を取り除いた姿を、無意識のうちに思い描いていたのかもしれない。けれど今、目の前でこちらをまっすぐ見つめる蒼灰色の瞳と、月明かりを受けて微かに揺れる黒い耳と、その両方があって初めて、この人なのだと分かった。
猫耳込みで、この人が好ましい。
自覚した瞬間、頬がかっと熱くなるのが分かった。心臓が急に存在を主張し始め、耳の奥で自分の鼓動がやけに大きく響く。これは一体何なのだろう。恋、と呼ぶにはまだ輪郭がはっきりしない。けれど、ただの好意や興味だけでは片付けられない、もっと確かな重みを持った感情だった。
「フィオレンツァ嬢?」
黙り込んだこちらを不審に思ったのか、レオナルドが小さく首を傾げる。その拍子に耳がふるりと揺れて、フィオレンツァは慌てて視線を逸らした。
「な、何でもありません」
「顔が赤いようですが」
「夜風のせいです」
「今夜は特別暑くもないと思いますが」
「風の質にも色々あるんです」
我ながら苦しい言い訳だと思いながらも、フィオレンツァはそれ以上言葉を続けられなかった。心の中で今しがた起きた変化を、どう言葉にすればいいのか分からない。ただ、確かなのは――もう、この人を「猫耳さえなければ」とは思わないということだった。
耳を含めて、真顔のまま冗談を言うところも、不器用な優しさも、全部ひっくるめて、この人なのだ。それを「これはこれでアリ」だと、心のどこかがはっきりと認めていた。
レオナルドは不思議そうな顔をしながらも、それ以上追及はせず、静かに夜空を見上げた。その横顔を盗み見ながら、フィオレンツァは自分の頬の熱がなかなか引かないことに、密かに困り果てる。
さすがに、このままではまずい。
フィオレンツァは自分の中で警報が鳴り響くのを感じた。何がまずいのかは自分でもよく分からない。だがこのまま黙っていたら、赤くなった顔も、跳ねる鼓動も、何もかも見透かされてしまう。そうなる前に、いつものペースを取り戻さなければ。
「そ、そういえば!」
やや大きすぎる声で、フィオレンツァはレオナルドに詰め寄った。
「その耳、今夜はやけに元気ですね! ぴこぴこ動いて忙しないこと!」
「動いているつもりはありませんが」
「動いてます! ほら、今も!」
言うが早いか、フィオレンツァは両手を伸ばしてレオナルドの耳をむんずと掴んだ。
「なっ……」
珍しく、レオナルドの声に僅かな動揺が混じる。だがフィオレンツァは止まらない。照れを誤魔化す勢いのまま、両手でわしゃわしゃと容赦なく撫で回した。
「柔らかい! やっぱり柔らかいです! 何なんですかこの手触り、反則です!」
「フィオレンツァ嬢、それは」
「動じないでください、いつもの調子はどこへ行ったんですか」
「いえ、いつも動じています。かなり」
耳が忙しなく前後に揺れ、時折びくんと跳ねる。真顔を保とうとしているレオナルドの努力もむなしく、耳だけがその内心を洗いざらい暴露していた。
「お耳がピョコピョコしてます。子猫ちゃんは、耳の付け根が弱点なんですか?」
からかうように言うと、レオナルドの耳がぴたりと伏せられた。降参の合図とばかりに、頭を心持ち低くする。
「その呼び方は、無しにしませんか」
「光栄です、って仰ったじゃないですか。もう決定事項です」
「決定した覚えはありませんが」
「私が決めたので、決定です」
「暴君ですね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
先ほどと同じやり取りを、からかい交じりに繰り返しながら、フィオレンツァは自分の頬の熱がようやく引いていくのを感じた。いつも通りの、遠慮のない掛け合い。これでいい。これがいつも通りの二人の距離感だ。
「もう、いい加減放してもらえますか」
「あと少しだけ」
「フィオレンツァ嬢」
「あと少しだけです」
耳の付け根のあたりを指先でくすぐるように撫でると、レオナルドの喉の奥から小さく、抑えきれない声が漏れた。真顔を保ったまま器用に耐えていたが、それも限界だったらしい。
「……くすぐったい、です」
僅かに眉を下げ、低く呟かれたその一言に、フィオレンツァは思わず声を上げて笑った。バルコニーに、月明かりの下で、二人分の笑い声と、なおも忙しなく動く黒い耳が残された。
ひとしきり笑い合った後、二人は会場へと戻ることにした。硝子扉をくぐると、先ほどまでの喧騒がふたたび押し寄せてくる。楽団の演奏はいつの間にか緩やかな曲へと変わり、夜会も終盤に差し掛かっているのが空気で分かった。
「ヴァレンティーニ公爵、こちらにいらしたのですね」
「フィオレンツァ様も、ご一緒でしたか」
すれ違う貴族たちの視線が、相変わらずレオナルドの耳の上を器用に避けて通る。誰も面と向かって触れない、いつもの光景。先ほどまでのフィオレンツァなら、その空気に苛立ちを覚えていただろう。
けれど今は、なぜだかその視線の群れさえも、少し違って見えた。
「皆さん、今日も見事に見て見ぬふりですね」
小さく囁くと、レオナルドが横目でこちらを見る。
「慣れたものです」
「私はまだ慣れませんけど」
そう言いながらも、フィオレンツァの声には棘がなかった。むしろどこか、笑いを含んだ余裕すら滲んでいる。周囲がどう振る舞おうと、自分がこの人をどう見ているかは、もう揺るがない。それが分かっているからこその余裕だった。
「フィオレンツァ嬢」
「はい?」
「随分と楽しそうですね」
不意打ちのような一言に、フィオレンツァは一瞬息を詰まらせた。レオナルドはいつも通りの真顔でこちらを見つめているだけだったが、その視線には確かに何かを見透かすような色があった。
「そ、そう見えますか」
「ええ。心なしか、頬の赤みも先ほどから続いているようですし」
「それは夜会の熱気のせいです」
「先ほどは風のせいだと仰っていましたが」
「今度は熱気のせいです。二つとも原因になり得ます」
苦しい言い訳を重ねながら、フィオレンツァは扇でぱたぱたと顔を扇いだ。誤魔化しきれていないことは自分でも分かっていたが、今この場で「あなたを猫耳込みで好ましく思い始めています」などと素直に白状する勇気はまだなかった。
レオナルドはそれ以上追及することなく、小さく――本当に小さく、口の端を持ち上げた。滅多に見せない、ごく自然な笑みだった。
「そういうことにしておきましょう」
その一言に、フィオレンツァの中で何かがふわりと軽くなる。恋、と呼ぶにはまだ足りないかもしれない。けれど確かに、この人と過ごす時間が、他の誰と過ごすときとも違う色をしていることだけは、もう疑いようがなかった。
会場の明かりの下、二人は自然な足取りで歩き出す。周囲の視線はまだ纏わりついていたが、フィオレンツァはもう、それを気にする素振りすら見せなかった。
夜会がお開きになるのに合わせて、フィオレンツァは玄関ホールでレオナルドと二人、馬車を待つ間のわずかな時間を過ごしていた。先ほどまでの楽団の緩やかな音色ももう聞こえない。代わりに、外の馬留めから響く車輪の音と、従者たちの控えめな声だけが夜気に溶けている。
「今夜も、煩わしい思いをさせてしまいましたね」
レオナルドがぽつりと言った。いつも通りの真顔、いつも通りの淡々とした声。だがその言葉の裏に、微かな気遣いが滲んでいるのをフィオレンツァはもう聞き取れるようになっていた。
「煩わしいというほどでは」
フィオレンツァは扇を閉じ、まっすぐにレオナルドを見上げた。
思えば、初めてこの人と対面したときは、ただ呆気にとられるばかりだった。お見合い相手として現れたのが猫耳の紳士だなんて、誰が想像できただろう。「猫耳はないでしょう!」と、あの時の自分は半ば反射的にツッコミを入れたのだ。あれから、たった三度顔を合わせただけ。それなのに、今は隣に立つこの人の些細な耳の動き一つで、機嫌の良し悪しまで分かってしまう。
「むしろ、ちょっと分かったことがあるんです」
「分かったこと、ですか」
「ええ。私、ずっと思っていたんです。公爵様は猫耳さえなければ完璧なのに、って」
「手厳しいですね」
「最後まで聞いてください」
くすりと笑いながら、フィオレンツァは続けた。胸の奥で、言葉にする前から答えはもう出来上がっていた。バルコニーで感じたあの確信、いじり倒しながら誤魔化した照れ、そのすべてが、今この瞬間のために積み重なっていたような気がする。
「でも今夜、気づいたんです。真顔で冗談を言うところも、変な意地を張って隠さないところも、ぴこぴこ動く猫耳だって、全部ひっくるめて公爵様なんだって。だから――」
一拍置いて、フィオレンツァは目を逸らさずに言い切った。
「猫耳込みで、これはこれでアリだと思います」
レオナルドが小さく息を呑む気配がした。耳の先が、ぴんと勢いよく持ち上がる。真顔を保とうとする口元が、わずかに緩んで震えているのが分かった。ふだんなら瞬時に平静を取り戻すはずのその表情が、今だけはうまく制御できていないらしい。フィオレンツァはその珍しい綻びを、少しだけ得意な気持ちで見つめた。
「……それは、光栄です」
「ただの感想です。それ以上でも以下でもありません」
「分かりました。感想として、大切に受け取っておきます」
そう言うレオナルドの声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。フィオレンツァはまだ、自分のこの気持ちに恋という名前をつける勇気はなかったけれど、少なくとも、この人を前にすると心が浮き立つことだけは、もう疑いようがなかった。
馬車が玄関前に到着し、従者が扉を開ける。フィオレンツァが乗り込もうとしたところで、レオナルドが静かに口を開いた。
「フィオレンツァ嬢」
「はい?」
「近いうちに、また会っていただけますか。今度は――」
こちらを見つめるレオナルドの蒼灰色の瞳が、ホールの灯りを反射してちかりと瞬く。
「もう少しだけ、踏み込んだお誘いをしても?」
いつもと変わらぬ真顔。けれどその瞳には、これまでとは違う、確かな決意の色が宿っていた。フィオレンツァは一瞬目を瞬かせた後、ふっと噴き出すように笑った。
「その耳で言われると、あまり緊張感がないんですけど」
「善処します」
「善処しなくて大丈夫です。そのままでどうぞ」
軽く言い放って、フィオレンツァは馬車に乗り込んだ。扉が閉まる直前、振り返った先で、レオナルドの耳が抑えきれない喜びを表すように、ぴこぴこと落ち着きなく動いているのが見えた。
馬車が走り出す。窓の外に遠ざかっていく公爵邸の明かりを眺めながら、フィオレンツァは頬に浮かんだ笑みを、もう隠そうともしなかった。
◆
座席に深く身を預け、揺れる馬車の中で、今夜のことを反芻する。猫耳を全力でいじり倒したことも、バルコニーで頬が熱くなったことも、思い返せば思い返すほど、頬が緩んでしまって仕方がない。
――これは、一体何という感情なのだろう。
夜会の最中に一度胸に浮かべた疑問を、もう一度自分に問いかける。
恋、と呼ぶにはやはりまだ早い気がする。でも、ただの好奇心だと片付けるには、あまりにも胸の内側がくすぐったい。名前をつけることを、フィオレンツァはひとまず保留にすることにした。急いで答えを出す必要はない。次に会うときに、また少しずつ分かっていけばいい。
「次は、もう少し踏み込んだお誘い、ですって」
窓の外の暗い並木道を眺めながら、フィオレンツァは小さく声に出して呟いてみた。あの真顔でそんな殺し文句めいた台詞を口にされると、緊張感も何もあったものではない。それでも――いや、だからこそ、その一言が耳の奥に残って離れなかった。
次に会う日が、待ち遠しい。
そう思っている自分に気づいて、フィオレンツァはひとり、声を殺してくすくすと笑った。馬車の窓に映る自分の顔は、今夜何度目かも分からないくらい、頬を赤く染めたままだった。




