第9話「侯爵家の食卓に、小さな影」
20話中の9話
ヴェルナー侯爵家の晩餐は、王都でも指折りの豪華さで知られている。
白磁の食器に銀のカトラリー。季節の花を飾った長テーブルの上座に、当主ルドルフ・フォン・ヴェルナー侯爵が座っている。六十代半ば。白髪をなでつけた堂々たる体格。この国の宮廷を裏から二十年以上動かしてきた男の目には、今も衰えない鋭さがある。
向かいには夫人のイルゼ。侯爵とは正反対に穏やかな物腰だけど、社交界の情報を誰よりも早くキャッチする耳を持っている。
そして侯爵の右隣には、跡取りのカール。三十手前の、自信に満ちた……というより、えらそうなのを隠す気がゼロの青年だった。
「——で、ブレンナーの件はどうなった」
侯爵が食事の手を止めずに聞いた。
「ディートリヒが書簡を送りました。鉱山の管理権の移譲について、近く返答があるかと」
カールが平然と答える。他人の鉱山を奪い取る話を、今夜のメニューを選ぶのと同じノリでする男だ。
「ブレンナーも分かっているでしょう。王都での立場を考えれば、素直に従うのが賢明です」
「ふむ」
侯爵がグラスのワインを傾けて、小さくうなずいた。
いつもの光景だった。侯爵家の食卓では、こんなふうに地方領主の財産を算段する話が日常的に交わされる。
「ところで」
夫人のイルゼが、前菜のスプーンを置いて口を開いた。
「グラーフ子爵のことなのだけれど」
「ハインリヒか。何かあったのか」
「先日の茶会で、子爵夫人とお話ししたの。いつもなら侯爵家の催しには真っ先にお返事をくださるのに、今回はちょっと遅くて」
「どのくらい遅い」
「三日ほど。以前は翌日にはお返事があったのに」
三日。たった三日の遅れ。
カールが鼻で笑った。肉を切るナイフの音が、やけに大きく響いた。
「たかが返事が三日遅れただけでしょう。子爵は昔からのんびりした男です。借金まみれの小物が、今さらどうこうできるはずもない。気にするほどのことではないですよ」
「そうかしら」
イルゼが首をかしげる。
「それだけじゃないの。茶会の席で、子爵夫人がいつもとちょっと違ってたのよ。以前はこちらの話に何でもうなずいてくれたのに、最近は……なんていうのかしら、ほんのすこしだけ、間が空くの」
間が空く。
侯爵がフォークを止めた。一瞬の間。でもすぐ食事を再開する。
「イルゼ、お前の気にしすぎだ」
「ええ、きっとそうね」
夫人はにっこり笑って、それ以上は言わなかった。
◇
晩餐のあと。侯爵はカールを書斎に呼んだ。
どっしりした樫の机の向こうで、侯爵がパイプに火をつけた。甘い煙が天井に向かって昇っていく。
「カール。最近、子爵に何か変わったことはあるか」
「ハインリヒですか? とくには。会議での態度も、前と変わりないですよ」
カールは壁際のソファにどかっと腰を下ろして、退屈そうに答えた。
「母上の心配は考えすぎですよ。子爵があの歳で今さらうちに逆らうなんて、あり得ない。逆らったって、行く先がないんですから」
「……そうだな」
侯爵はうなずいた。でもパイプを持つ手がほんの一瞬止まったことに、カールは気づかなかった。
二十年以上宮廷を動かしてきた男のカンが、かすかに鳴っていた。
イルゼの言葉はたぶん正しい。あの女は、社交の場での人のちょっとした変化を嗅ぎ取る力がある。
でも、子爵ごときが侯爵家に背くなんて考えにくいのも事実だ。
「ディートリヒに言っておけ。子爵への連絡をもうすこし頻繁にするように。催しの招待は欠かさず、必要なら小遣いもやれ」
「わざわざそこまで」
「手綱はゆるめたときに切れる。引き締めるんじゃなくて、なでてやれ。飴のほうが安上がりだ」
カールは肩をすくめたけど了承した。立ち上がりぎわに、「そういえば」とつけ足す。
「兄上のあの婚約者——リーゼとかいう子ですが、そろそろ処分の頃合いでは? エミーリアのほうが殿下のお気に召してるようですし。アルトハイム家からはもう搾るものもない」
「ああ、あの地味な娘か。まあ、時期が来ればな」
侯爵は興味なさげに答えた。アルトハイム家の令嬢なんて、この食卓の話題にすら値しない。その程度の認識だった。
カールが出ていったあと、侯爵は窓の外の夜空を眺めながら、ゆっくりとパイプをくゆらせた。
気のせいだろう。
子爵は二十年来の配下だ。借金の件も把握してる。逃げ場なんてない。
このとき、ルドルフ・フォン・ヴェルナー侯爵は知らなかった。
子爵の借金がもうべつの手に渡っていることを。
子爵が夜眠れるようになった理由を。
そして、自分の食卓でのこの会話すらも、元侍女たちのネットワークを通じて、ある令嬢の耳に届くことを。
◇
同じ夜。
侯爵家の屋敷から馬車で二十分ほどの場所。
王都の仕立て屋の二階で、エルザは一通の短い手紙を書いていた。
宛先は学園の寮。差出人の名前はない。
内容はこう。
——子爵について、侯爵家が「手綱を引き締める」動きあり。ただし原因は特定されていない模様。当面は飴の方針。
エルザはペンを置いて、ちいさく息を吐いた。
リーゼ様はこの報告を読んでどう動くだろう。あの子は昔から……いや、あの子はもう昔とは違う。穏やかだった伯爵家のお嬢様は、いつのまにかこんな危ない綱渡りをする人になっていた。
それでも。
あの家に何をされたか知ってる。伯爵様の背中がどれだけ小さくなったか見てきた。奥様の笑顔がどれだけ薄くなったか知ってる。自分を含めた侍女たちが、ひとりずつ追い出されていく日々を覚えてる。
だから止めない。止められない。
手紙を封筒に入れて、明日の朝いちばんで中継点に届ける段取りを確認する。
窓の外の月が、薄い雲に隠れようとしていた。
◇
翌朝。学園の寮。
朝食前に届いた手紙を読んで、静かに折りたたんだ。
侯爵家が子爵の変化に気づき始めてる。ただし原因は特定できてない。
想定内。イルゼ夫人は賢い女性だと知ってた。あの人のカンを甘く見ちゃいけない。
でも侯爵家の対応は「飴」。子爵を締めつけるんじゃなくて、なだめる方針。
それでいい。飴をあげればあげるほど、子爵は「侯爵家なしでもやっていける自分」と「侯爵家にいれば安泰な自分」のあいだで揺れることになる。侯爵家がやさしくすれば、借金を引き受けてくれた「誰か」の存在が薄れる——と侯爵は思ってるだろう。
でも逆だ。
両方から甘やかされた人は、どっちにも完全には頼れなくなる。ひとつの鎖に繋がれた犬は忠実だけど、ふたつの鎖に繋がれた犬はどちらの主人にも全力じゃ走れない。
これでいい。
一本目の柱は折る必要すらない。揺らすだけで十分。
手紙をランプの火で焼いた。灰になるのを見届けて、窓を開ける。朝の空気が部屋に流れ込んだ。
机の上には、慈善バザーの案内状がまだ置いてあった。
二本目の柱。マリアンヌ。
彼女に近づくチャンスが、もうすぐ来る。
案内状に目を落として、ゆっくり息を吸った。
手は、まだ震えてない。
まだ、大丈夫。
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