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第6話「図書室の税制と、二度目の綻び」

20話中の6話目です。

 学園の図書室は、午後の時間が好きだ。


 高い天井のアーチ窓から差し込む光が、古い書架の背表紙を金色に染める。この時間帯、図書室はほとんど人がいない。貴族のお坊ちゃまお嬢さまたちは午後の茶会や社交で忙しいから。

 私にとっては、数少ない息をつける場所だった。


 今日の目的は、王国の地方税制の資料。ブレンナー男爵の領地の鉱山にかかる税のしくみを調べておきたかった。恩を売る相手の事情は、できるだけ正確に知っておく。前の人生でも、取引先の決算書くらいは目を通してから商談に臨んだものだ。


 書架の奥から分厚い本を引っぱり出して、窓際の席に座る。

 ページをめくりながら、ノートに数字を書き写していく。地方領主の鉱山収益にかかる王国税と領地税の二重課税のしくみ。ここに侯爵家が「管理費」の名目で上乗せしてたとすれば——


「渋い本を読んでいるな」


 頭の上から声が降ってきた。


 心臓がびくっと跳ねた。

 本から目を上げると、銀灰色の髪に青灰の瞳。


 クロード殿下が、書架に肩を預けて立っていた。

 私の手元の本をちらっと見て、片眉をほんのすこし上げている。


「『地方税制概論——鉱業権と徴税の実務』。令嬢が読む本にしては、ずいぶんと——」


「ごきげんよう、クロード殿下」


 かぶせるようにあいさつした。仮面オン。微笑み。何でもない顔。


「まあ、少し興味がありまして。領地のことを知っておくのも、嫁ぐ者の嗜みかと思いましたの」


 当たりさわりのない言い訳。嫁ぐ者の嗜み——我ながらぺらっぺらな言葉だ。嫁ぐ相手は、もうすぐ私を捨てるんだけど。


「嗜み、ね」


 殿下が、私の向かいの椅子を引いた。

 座るの? なんで座るの。


「鉱業権の実務まで把握しているのは、この学園では財務学の教授くらいだと思うが」


「まあ、殿下は大げさですわ」


「ノートに二重課税の計算式を書いている令嬢は、少なくとも俺は初めて見た」


 (……しまった)

 ノートが開いたままだった。計算式と数字がびっしり並んだページが、殿下の目の前に丸見え。


 さりげなく閉じようとしたけど、殿下の視線のほうが早かった。


「隠さなくていい」


「隠してなどおりません。ただ、お恥ずかしい走り書きですので——」


「嘘だな」


 静かに、きっぱり言い切られた。

 あの夜のバルコニーと同じ声。穏やかなのに、逃げ道をふさぐような。


「恥ずかしいから隠すんじゃない。見られたくないから隠す。違うか」


 笑顔を保った。保ったつもりだった。

 でもこの人の前だと、笑顔を維持するのにいつもの倍の力がいる。


「殿下は、人の本を覗き見るのがお好きなんですのね」


「人のノートの中身が、気になっただけだ」


「同じことですわ」


「全然違う。——で、なぜ地方税制を?」


 引き下がらない。この人はほんっとうに引き下がらない。

 社交の場なら、相手が話をそらしたら察して退くのがマナーだ。クロード殿下はそのマナーをわざと無視してる。


 苛立ちが、ほんのすこしだけにじんだ。


 (……まずい)


 でも、もう遅かった。


「……領地経営の基礎も知らずに嫁ぐほど、愚かではありませんので」


 声のトーンが変わっていた。

 微笑みの表面をぺりっと剥がしたような、硬い声。従順な令嬢の言葉づかいじゃない。


 言ってから、さーっと血の気が引いた。


「——あ。今のは、その、言葉が過ぎました。申し訳——」


「いや」


 クロード殿下が、笑った。

 初めて見る笑顔だった。バルコニーのときの冷めた表情でも、社交の場での無関心な顔でもない。口の端がちょっとだけ上がった、小さな、でも本物の笑み。


「続けてくれ。そっちの君のほうが、ずっといい」


 ◇


 心臓が、うるさい。


 なに今の。「そっちの君のほうがいい」ってどういう意味。仮面を外した私のほうがいいって言ってるの。なぜ。何のために。この人は何を考えてるの。


 前の人生で、こんなこと言われたことない。

 「もっと愛想よくしろ」「笑顔が足りない」「お前は真面目すぎる」。そう言われたことは山ほどある。でも「そっちのほうがいい」なんて。素の自分のほうがいいなんて。


 混乱してる。頭がぜんぜん回らない。


 立ち上がった。


「失礼します。次の授業の準備がありますので」


 嘘だ。午後の授業はない。でも、これ以上ここにいたら仮面が——


「逃げるな」


 静かな声だった。命令でも詰問でもない。ただ、こっちを引き止める力があった。


 足が止まる。

 また。バルコニーのときと同じだ。この人の声には、私の足を縫い止めるなにかがある。


「さっきの顔を、もっと見せてほしい」


 振り返れなかった。

 振り返ったら、きっと仮面が保てない。


「……殿下は」


 背を向けたまま、声をしぼり出した。


「私に何を求めておいでなのですか」


 しんとした沈黙が落ちた。

 図書室の古い時計の、秒針を刻む音だけが響いている。


「さあな」


 殿下の声が、どこか困ったように聞こえた。


「俺にも分からない。ただ——あの夜、バルコニーで君を見たときから、何かが引っかかっている」


 正直な言葉だった。計算もかけひきもない、むき出しの。

 この人は策を使わない人だ。少なくとも、私に対しては。

 それが余計にたちが悪い。策略なら対処できる。正直さには、対抗する手段がない。


「引っかかっている、と仰られても。私はただの、地味な婚約者ですわ」


「その『ただの』を、自分で信じているか?」


 答えられなかった。


 ◇


 図書室を出た。

 廊下を早足で歩きながら、自分の心臓の音を聞いてた。


 何やってるの、リーゼ。

 あの人に動揺してどうするの。私の計画にクロード殿下は関係ない。関わる理由がない。接触を減らすって決めたのに、向こうから来るんだからどうしようもないじゃない。


 図書室のノートを見られたのは失敗だった。鉱業権の計算式。ふつうの令嬢が書くものじゃない。殿下はあれを覚えてるだろう。あの人は見たものを忘れないタイプだ。


 でも、それよりも。


 「そっちの君のほうが、ずっといい」


 あの言葉が、胸の奥で小さな火みたいにちりちり燃えてる。

 消さなきゃ。消さなきゃいけない。計画に支障が出る。


 支障が出るから消すの?

 それとも……消せないことが、怖いの?


 廊下の窓から中庭が見えた。学園生たちが楽しそうに歩いている。あの子たちの誰も、私が何を抱えてるか知らない。

 当たり前だ。知られちゃいけない。


 でも、ひとりだけ。仮面の存在に気づいてる人がいる。

 気づいた上で、「そっちのほうがいい」と言った人がいる。


 足を止めた。窓の外をぼんやり見つめる。


 前の人生で、こんな気持ちになったことあっただろうか。

 誰かに見てもらいたいとか。本当の自分を知ってほしいとか。


 ない。一度もない。

 だから、この気持ちをどうすればいいのか分からない。


 分からないまま、自室に戻った。

 相関図を引き出しから出して、机に広げる。三つの赤い丸。ブレンナー男爵の名前の横の小さな印。ヘルミーネ夫人。


 目を閉じて、ふうっと深呼吸。

 集中しろ。今はこれだけ考えろ。


 目を開ける。相関図の上に、視線を固定する。


 大丈夫。私はまだ、仮面の内側にいる。


 ……まだ。


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