番外編「共犯者の独白」
番外編になります。
最初からわかっていた。
あの女は危険だと。
◇
夜会のバルコニーではじめて言葉を交わしたとき、俺が見たのは完璧な令嬢だった。控えめな微笑み。丁寧な言葉づかい。兄上の婚約者として、一分のすきもないたたずまい。
だが——目だけが笑ってなかった。
社交の場で愛想笑いをする人間はめずらしくない。貴族なんて笑顔の仮面をつけて生きる生き物だ。でもあの女の目は愛想笑いとも違った。笑ってないんじゃなくて——笑えなかった。なにかをこらえるみたいに、くちびるだけで弧を描いてた。
あのとき俺は「見抜きたかった」んだと思ってた。嘘を見抜くのが得意だから。帳簿の数字が合わないときと同じ感覚で、あの女の笑顔のつじつまが合わないことに気づいただけだと。
嘘だ。俺自身への嘘。
あの仮面の下にいるほんとの人間を——見たかった。最初から。
月明かりのなかで、あの女が小さく会釈して去っていく背中を見送った。華奢な肩。すこしだけこわばった背筋。あの背中が視界から消えたあとも、俺はしばらくバルコニーから動けなかった。
◇
図書室で、あの女の素顔を見た。
税制の本を手に取って、棚の裏に隠れるようにして読んでた。こっちに気づいてない横顔は夜会のときとは別人だった。眉間にちいさなしわを寄せて、指でページの端をはじくようにめくる。くちびるが無意識に動いてる。数字を追ってるんだろう。
あの顔が——好きだと思った。
認めたくなかった。兄上の婚約者だ。第二王子が横恋慕するなんて、王室の醜聞以外のなにものでもない。だから「職務上の関心」だと自分に言い聞かせた。侯爵家のあやしい動きを追うなかで、あの女の存在が目に入るのは仕方がないと。
嘘だ。ぜんぶ嘘。あの女を目で追ってたのは、職務となんの関係もない。
「逃げるな」と言った。あの女にじゃない——自分自身に言い聞かせてたのかもしれない。
あの女が息をのむ音が聞こえた。仮面にヒビが入る音だった。一瞬だけ見えた素顔は、怒りとおどろきと——もうひとつ、名前をつけるのがこわいものが混ざってた。
「そっちの君のほうがいい」——言葉が勝手に出た。本心だった。取りつくろった完璧な笑顔より、必死になにかを守ろうとするむき出しの目のほうが、ずっと——きれいだと思った。
◇
菓子屋に連れていった日。
あの女が焼き菓子を口に入れた瞬間、仮面が落ちた。目を丸くして、ほおをすこしふくらませて——子どもみたいな顔で「美味しい」とつぶやいた。
あの顔を見たとき、俺は終わったと思った。
何百人もの貴族をだます仮面の下に、こんな顔が隠れてた。無防備で、やわらかくて、壊れそうなほど人間らしい顔。
もう「職務」じゃごまかせない。帳簿の数字を追う目で、この女を見てるわけがない。
「君がいるからだろう」——口がすべった。取りつくろうひまもなかった。耳が熱くなるのがわかって、菓子を口に詰め込んでごまかした。
あの女はすこし目を見ひらいて、それから困ったみたいに笑った。仮面じゃない、本物の困惑。その笑顔が胸の奥に刺さって抜けなくなった。
◇
東屋で、あの女にはじめて弱みを見せた。
「兄は王の器ではない」——家族にも言ったことのない本音を、なぜあの女に話したのか。信頼とも違う。ただ、この人の前でなら鎧を脱いでもいいと——そう思えた。
あの女は黙って聞いてた。あいづちを打つでもなく、なぐさめるでもなく、ただ真っすぐにこっちを見て。あの沈黙がどんな言葉より心地よかった。
俺が「ここにいる」と言ったとき、あの女の目が揺れた。
ほんの一瞬。すぐに仮面を戻したけど——俺は見た。あの揺れを。
あの瞬間、確信した。この女は誰かに「そばにいる」と言われたことがなかったんだと。何年ものあいだたったひとりで戦いつづけて、誰にも助けを求めなかった。求められなかった。
それがたまらなく腹立たしかった。
◇
嵌められたと気づいた日。
図書室の机の上に、あまりに都合よく置かれた帳簿の写し。俺の目に入る位置に。俺が反応する中身を。
——ぜんぶ計算だった。
回廊であの女を問い詰めたとき、俺は怒ってた。本気で怒ってた。信じてたものを裏切られた怒り。
「俺は君の駒か」——声が震えてたかもしれない。
あの女は答えなかった。否定もしなかった。巧みな嘘も、完璧な言い訳も、なにひとつ返さなかった。あの女ほどの人間が——俺の前でだけ嘘をつけなかった。
背を向けて歩き出した。あの女がなにか言いかけたのが聞こえた。でも振り返らなかった。振り返ったら——許してしまう気がした。
◇
執務室でひとりで書類を読み返した夜。
怒りは消えなかった。でも帳簿の数字は嘘をつかない。侯爵家の不正は本物だった。あの女が俺に見つけさせたものは——ぜんぶ本物だった。
そして気づいてしまった。
あの女が俺を利用しなきゃいけなかったのは——俺以外に頼れる人間がいなかったからだ。何年もひとりで、仮面の下で拳を握りしめて、誰にもほんとの顔を見せずに戦ってきた。
その孤独に、怒りとはべつの感情が胸の底で燃えた。
書類を握る手に力が入った。侯爵家への怒り。あの女への怒り。そしてあの女をひとりで戦わせてた、この世界のぜんぶへの怒り。
俺は第二王子だ。この国の不正を正す力がある。その力を自分の意思で使う。あの女の駒としてじゃなく。だがあの女が見つけた真実を見なかったことにもしない。
◇
門の前で待った。
朝が早いのは慣れてる。でもあんなに夜明けが遅いと感じたのははじめてだった。
馬車が出ると聞いて、体が動いてた。考えるより先に。護衛の手配を口実にしたけど、我ながら下手な嘘だ。あの女になら一秒で見破られる。
門から出てきたあの女の顔を見た瞬間、ああと思った。
あの夜会の完璧な仮面はもうなかった。化粧も薄い。目の下にくまがある。鞄ひとつの身軽な——いや、身軽すぎるいでたち。この街になにも残さずに去る人間の荷物だ。
「最初から共犯にしろ」
言えた。言おうと決めてたことを真っすぐに。照れも言い訳も要らなかった。
あの女が泣いた。計画にない涙だと顔に書いてあった。
泣くなと言いたかった。泣かれるとこっちまでなにかが壊れそうになる。
だがあの涙を見てわかった。あの女がどれだけ長いあいだ、泣くことすら自分に許さなかったか。仮面の下でどれだけの涙を飲み込んできたか。
手を伸ばして涙をぬぐった。指がほおに触れた瞬間、あの女の目が——はじめて、なんの計算もなく俺を見た。
◇
いま、アルトハイムの庭のベンチに座ってる。
「視察」って名目で月に何度もこの領地を訪れてる。従者たちは呆れ顔だけど、知ったことじゃない。薬草は国の重要産業だ。視察は王太子の職務だ。
——誰もだませてないことはわかってる。
となりで焼き菓子を食べてる女が、「また何か企んでる顔だな」と言った俺を見て笑った。あの菓子屋の日と同じ——仮面じゃない、本物の笑顔。
最初からわかってた。あの女は危険だと。
だが——俺が落ちたのは完璧な仮面じゃなく、その下で震えてたほんとの彼女のほうだった。
となりの手にそっと触れた。
握り返された。細い指が、たしかな力で。
あの夜会のバルコニーからここまで、長い道のりだった。嘘と仮面と策略と、怒りと理解と、名前をつけるのに時間がかかった感情と。
だがいま、となりにいるこの女の手はあたたかい。秋の風が薬草畑の上を渡っていく。菓子の甘いにおいがする。
——ああ。もう共犯で構わない。
(了)
これまで読んでくださり、ありがとうございます。
番外編も書きました。もし良かったら、評価して頂けますと幸いです。




