第20話「仮面の下」(最終話)
アルトハイムの秋は、薬草の香りがする。
領地に戻ってひと月が過ぎた。王都の喧騒とは別世界みたいに静かな土地。丘の上の屋敷から見おろせば、薬草畑が黄金色に染まって、その向こうに小さな村が見える。
父が守りつづけた畑。侯爵家に商権を奪われても、この土地だけは手放さなかった。
いまは——商権が戻りつつある。
侯爵家の関連商会が手を引いたあと、かつての取引先が「アルトハイム家の薬草をまた扱いたい」と訪ねてきた。価格は適正に。条件は対等に。父は忙しくなった。母は台所で鼻歌を歌うようになった。
それだけで——それだけでよかったのかもしれない。
最初からこれだけでよかったのかもしれない。
◇
侯爵家の没落は静かに進んでた。
国王の調査で不正が確認されて、侯爵位のはく奪こそまぬがれたものの、宮廷での発言力は完全に失われた。資産の大半は凍結され、カールは謹慎処分。ディートリヒは逮捕された。
エルヴィン殿下は王太子の座を弟に譲るかたちで退いた——っていうのは表向きの話で、実際には国王が「第二王子のほうが適任」と判断した結果だ。
クロード殿下が王太子になった。
その知らせを聞いたとき、複雑な気持ちになった。あの人は「華やかな場に立つのは兄上の役目」って言ってた。王太子っていう立場を望んでたわけじゃないだろう。
でもあの人なら務まる。書類と数字に正直な人。つじつまの合わないことを見過ごせない人。この国にはそういう王が必要だ。
◇
手紙が届いた。
差出人はなかった。でも筆跡でわかる。
「来週、アルトハイム領の視察を行う。領地の薬草産業について、王太子として現状を把握する必要がある」
公務としての訪問。形式的な文面。
でも——最後の一行にこう書いてあった。
「菓子を持っていく」
思わず手紙を胸に押し当てた。
それから自分の行動に気づいて、あわてて手紙を机に置いた。
誰も見てない。見てないのに顔が熱い。
◇
視察の日。
クロード殿下は従者をふたりだけ連れて屋敷を訪れた。王太子の視察としては簡素すぎる。あの人らしい。
父は緊張して何度もお辞儀をして、母は最高級の茶葉を棚の奥から引っぱり出してた。
「王太子殿下がわざわざアルトハイムにいらしてくださるなんて……何かの間違いではないかしら」
「間違いではありませんよ、お母様」
殿下を応接間に通して領地の産業について説明する。のは形だけだった。父が薬草の品種について熱弁を振るって、殿下が真剣な顔で聞いてる。質問も的確だ。あの人はほんとに、数字と実務の話になると生き生きする。
視察が終わって、従者を下がらせたあと。
殿下とふたりで屋敷の庭に出た。
薬草畑の向こうに夕日が沈みかけてる。空がオレンジから紫へと変わっていく。
「——ほんとに菓子を持ってきたんですね」
「言っただろう」
殿下が外套の内側から包みを取り出した。あの菓子屋の紙袋。わざわざ王都から持ってきたのか。
「王太子の公務に菓子を持参する方は、歴史上はじめてじゃないですか」
「経費だ」
「またそれですか」
ふたりで庭のベンチに座った。
焼き菓子を分け合う。あの日と同じ、バターと蜂蜜の味。
「——美味しい」
「ああ」
しばらくふたりとも黙って食べた。
前の人生でもこの人生でも——こんなふうに誰かとならんで菓子を食べる時間がいちばん贅沢だと思う。
「リーゼ」
殿下が名前を呼んだ。
「アルトハイム嬢」でもなく、「君」でもなく。はじめて、名前で。
「はい」
「仮面は」
私は——すこし考えて笑った。
作り笑いじゃない。苦笑いでもない。ただの笑顔。
「いまはつけてません」
「……そうか」
殿下がとなりで小さく息を吐いた。安堵の吐息だった。
「そっちの顔のほうがいい。——ずっとそう思ってた」
「知ってます。図書室で言われましたから」
「覚えているのか」
「忘れるわけないでしょう」
殿下がすこし目をそらした。耳の端がうっすら赤くなってた。
王太子になっても、これは変わらないらしい。
◇
夕日が沈んだ。空に星がまたたきはじめてる。
「殿下」
「なんだ」
「あの回廊の日——答えられなかったこと、ひとつだけ答えさせてください」
殿下が私を見た。
「殿下は、私の駒じゃありませんでした」
静かに、はっきりと。
「駒にしようとしたのはほんとです。でも——殿下が自分の判断で動いた瞬間、殿下は駒じゃなくなった。最初から殿下を駒になんてできなかった。あの人は私の盤の上にはいなかった」
クロード殿下は黙って聞いてた。
「相関図に——殿下の名前だけ書けなかったんです。書こうとすると手が止まった。なぜかわからなかった。でもいまはわかります」
夕暮れの残光が、殿下の銀灰色の髪を淡く照らしてる。
「殿下は、盤の外の人だったから。復讐とは関係のない場所で——私を見てくれた、たったひとりの人だったから」
沈黙。
虫の声が聞こえる。薬草畑の向こうで風が草を揺らしてる。
「……俺も、ひとつだけ」
殿下の声が低く、やわらかかった。
「バルコニーではじめて会った夜。『目が笑ってない』と言ったのは——嘘を見抜きたかったからじゃない」
「え?」
「あの仮面の下にいるほんとの君を——見たかっただけだ。最初から」
——ずるい。
ほんとにずるい人だ。
目の奥が熱くなった。ぼやける視界のなかで、殿下が小さく笑ってるのが見えた。
「泣くな」
「泣いてません」
「嘘だな」
「殿下にだけは嘘つけないって——知ってるくせに」
殿下が手を伸ばした。
私の目もとに触れた指が、涙をひとつだけぬぐった。
そのまま手が離れなかった。
ほおに触れたまま。あたたかい手。
「次になにか企むなら」
「……はい」
「最初から共犯だ。——もうひとりにはさせない」
私はうなずいた。声にならなかったけど、うなずいた。
あの人の手がほおにある。星がまたたいてる。薬草の香りが風に乗って流れてくる。
——ああ。
仮面を外していいんだ。
もうつけなくていいんだ。
◇
そのあとのことを、すこしだけ。
ヴェルナー侯爵家は宮廷での地位を完全に失って、領地の一部を王国に返還した。侯爵は引退し、カールは地方への転出を命じられた。イルゼ夫人だけが最後まで侯爵のとなりにいたという。
エルヴィン元殿下は王位継承権を返上して、小さな離宮で静かに暮らしてる。エミーリア嬢は実家に戻った。
グラーフ子爵は借金を完済して、領地経営を立て直した。
マリアンヌは——隣国の子爵家の跡取りと、あらためて縁談が進んでると聞いた。今度は誰にもじゃまされない。
ベーレンス男爵は侯爵家との関係を清算して、独自の事業に専念してる。
父の薬草畑は今年いちばんの出来だと父が笑ってる。
母は社交界に復帰する気はないみたいだけど、領地の夫人たちとの小さな茶会を楽しんでる。笑顔が——あのころの笑顔に戻った。
そして。
王太子殿下が「視察」と称してアルトハイムを訪れる頻度が、月を追うごとに増えてる。
従者たちは呆れ顔だ。「殿下、視察の報告書に書く内容が毎回薬草の話だけですが」「薬草は国の重要産業だ。文句あるか」
今日も庭のベンチで菓子を分け合ってる。
「また何か企んでる顔だな」
殿下が私の横顔を見てそう言った。
私は笑った。仮面じゃない、本物の笑顔で。
「企んでますよ」
「何を」
「——殿下を、ずっとここに引き留める方法を」
殿下が目をぱちくりさせた。
それから——耳を赤くして、菓子を口に詰め込んだ。
「……経費で落ちるか、それ」
「落ちませんよ」
「だろうな」
秋の風が薬草畑の上を吹きぬけていく。
となりの人の手がそっと私の手に触れた。
握り返した。
今度は——もう離さない。
(了)
本話で完結となります。これまで読んでいただき、誠にありがとうございました。
良かったら、評価して頂けますと幸いです。




