第19話「門前の第二王子」
復讐が終わった。
侯爵家は国王の調査対象になり、資産の一部が凍結された。カールは宮廷への出入りを禁じられ、侯爵自身も公式の場から姿を消した。イルゼ夫人は屋敷にこもって、誰にも会わないらしい。
エルヴィン殿下は王太子の地位を事実上はく奪され、エミーリア嬢との婚約も宙に浮いた。後ろ盾のない王子に寄りそう理由は、彼女にもないんだろう。
ぜんぶが——私の描いたとおりに動いた。
アルトハイム伯爵家には、失われた商権の一部が戻りつつある。侯爵家が不当に奪った取引先が「あの家との関係を見直したい」と父のもとを訪れはじめた。
父はおどろいてた。母は泣いた。「どうして急に」と首をかしげる両親に、私はなにも言わなかった。
復讐は完了した。
なのに——心は空のまま。
(前の人生の最後の日、駅のホームで電車を待ってたときと同じだ。目的を果たしたあとの、底の抜けた桶みたいな虚しさ。達成感のかわりにあるのは、もう走らなくていいっていう脱力だけ)
◇
荷造りをしてる。
婚約破棄のあと、私は王都にとどまる理由を失った。学園は卒業。婚約者はいない。元・第一王子の婚約者っていう肩書きは、いまやなんの意味も持たない。
実家の領地に帰る。父と母のいるアルトハイムの屋敷で、これからの人生を考える。
自室の荷物は少なかった。
衣装の大半は侯爵家に「ふさわしいもの」としてそろえられたもの。淡い色の控えめなドレス。「目立たない」ことを求められた服。持っていく気にはならない。
鞄に入れたのは数冊の本とノート。母からもらった押し花のしおりを本のあいだに挟んだ。あの税制の本は置いていく。もう必要ない。図書室の棚に戻せばいい。あの本がもとあった場所——クロード殿下がいつも座る席の、すぐ近くの棚に。
……やめよう。もう考えない。
机の引き出しを開けた。
相関図がまだそこにあった。
貴族たちの名前。矢印。赤い丸。取り消し線。鉛筆の印。
何年もかけて書き込んできた私の盤面。
手に取って——しばらく見つめた。
それからランプの火にかざした。
紙が燃えた。端から炎が這い上がって、名前をひとつずつ飲み込んでいく。侯爵家。子爵家。マリアンヌ。ベーレンス男爵。エルヴィン殿下。
すべての名前が灰になるのを見届けた。
もう要らない。
灰を窓から散らした。朝の風に乗って、白い粉が庭に消えていく。
指先に灰のにおいが残った。何年もの執念がいまはただの炭素になってる。
(前の人生なら、これを「サンクコストの清算」って呼ぶのかな。費やした時間は戻らない。でもこれ以上費やす必要もない)
◇
出発の朝。
馬車が屋敷の門前に用意されてた。秋の朝の空気が冷たく澄んでる。使用人が荷物を積み込んで、御者が馬の手綱を整えてる。
振り返って王都の屋敷を見上げた。ここで過ごした年月。仮面をつけつづけた日々。学園の図書室、夜会の大広間、あの菓子屋の小さなテーブル。ぜんぶこの街にある。
もう戻ることはないだろう。
門を出ようとしたとき、足が止まった。
門柱のよこに、人が立ってた。
銀灰色の髪。青灰の瞳。簡素な外套。王子の装いじゃない。あの菓子屋のときと同じ、目立たない格好。
でも目立たないなんて無理な話だ。この人はどこにいてもすぐにわかる。
クロード殿下が門柱に寄りかかってた。
心臓が止まった。比喩じゃなく、ほんとに一拍止まった。
なぜ。どうして。ここに。思考が砕けて断片が散らばる。
「……殿下」
声が出たことが奇跡だった。
「朝早くて悪いな」
なんでもない声。でもその目は真っすぐに私を見てた。
あの回廊の日以来、はじめて。
「どうして、ここに」
「馬車が出ると聞いた」
「誰から——」
「護衛を手配するさいに調べた。護衛は俺の管轄だ」
嘘だ。護衛なんて手配してないだろう。この人は嘘が下手だ。私と違って。
でも——来てくれた。あの回廊で背を向けて去った人が、いま門の前に立ってる。簡素な外套の裾が朝風に揺れてる。眠れなかったんだろうか。目の下に薄い影がある。
沈黙が落ちた。
秋の朝の空気のなかで、私たちは門柱をはさんで向き合ってた。馬が鼻を鳴らした。御者が気を利かせて目をそらしてる。
「……殿下。駒として使ったこと、まだ怒ってますか」
聞かなきゃいけなかった。
逃げる前に。この人から逃げてしまう前に。
「怒ってる」
即答だった。いっさいの飾りのない、むき出しの感情。
胸が握りつぶされるように痛んだ。あたりまえだ。利用したのは私。あの人の正義感を、誠実さを、不正を見過ごせない性格を——ぜんぶ読んだうえで利用した。
「——だが」
間があった。
クロード殿下が門柱から背を離した。一歩、近づいた。
「俺が見つけたものは、ぜんぶ本物だった」
声が低く、静かだった。
「侯爵家の不正も。商権の搾取も。地方領主への脅迫も。ぜんぶ、本物だった」
もう一歩。
「そして——君がどれだけ耐えてきたかも」
声が震えそうになるのをこらえた。この人は——怒りながら、私の痛みを見てた。利用されたことに怒りながら、利用しなきゃいけなかった理由まで見てた。
「殿下は……殿下のご判断で動いただけです。私がなにをしたかに関係なく、不正を正すのは殿下のお仕事で——」
「ああ。だからこそ言う」
クロード殿下が立ち止まった。手を伸ばせば届く距離。あの図書室の日と同じ近さ。
青灰の瞳が私を見てた。怒りと、理解と、もうひとつ——名前をつけたくないなにかをたたえて。
「次になにか企むなら——」
一拍。
「——最初から共犯にしろ」
◇
世界が止まった。
朝の空気が凍りついた。いや、凍りついたのは私のほう。
門前の石畳。秋の朝日。馬のいななき。御者がなにか言ってる。使用人が荷物を運んでる。ぜんぶが遠くなって——この人の声だけが耳の奥で響いてた。
共犯。
駒じゃなく。利用される側でもなく。最初から——対等に。
「殿下……それは」
声が震えた。今度は演技じゃない。
仮面が砕けていくのがわかった。社交令嬢の笑顔も、従順な婚約者の顔も、冷静な策略家の目も——ぜんぶ剥がれ落ちていく。
「それは、殿下にとって損な取引ですよ」
精いっぱいの——最後の抵抗だった。
「俺が決める」
短く。強く。いっさいの迷いなく。
あの東屋で「ここにいる」と言ったときと同じ目をしてた。
あの菓子屋で「君がいるからだろう」と口をすべらせたときと同じ耳の赤さ——は、なかった。いまの殿下は真っすぐだった。照れもなく、言い訳もなく。
涙が出た。
計画にない涙だった。復讐のための演技でもなく、悔しさでもなく——名前のつけられない感情が目の奥からあふれてきた。
ああ、これか。前の人生でもこの人生でも、ずっと知らなかったもの。誰かが自分を選んでくれるということ。条件でもなく、利害でもなく、ただ——選ぶということ。
「……ずるい」
かすれた声でつぶやいた。
「そんなこと言われたら——断れないじゃないですか」
クロード殿下が笑った。
あの図書室で見た、小さな本物の笑み。口の端がわずかに上がるだけの不器用な笑顔。この人はいつもこうだ。大事なことをさりげなく言う。
「断らなくていい」
朝日が、門前のふたりを照らしてた。
石畳にふたつの影が伸びてる。短い秋の朝日に照らされて、影の端が触れ合ってる。
御者が咳払いをした。「お嬢様、お時間が——」
馬車はもうすこしだけ待ってもらうことにした。
次回がラストになります。お読みくださいましたみなさま、誠にありがとうございます。




