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第2話「伯爵令嬢の前世と、静かな怒り」

20話中の2話目です。

 私がこの世界に生まれ落ちたのは、前の人生が終わった直後だった。


 前世の名前はもう思い出せない。覚えてるのは、中堅商社の営業部で毎日走り回ってたこと。取引先との会食、上司への根回し、競合の動向チェック。朝から終電まで、人と人との間を縫うみたいに生きてた。

 身体を壊したのは三年目の冬。大口の取引先を失いかけた夜、駅のホームで意識が飛んで。次に目を開けたら、天蓋つきのベッドの上だった。


 アルトハイム伯爵家のひとり娘、リーゼ。

 それが、この世界での私の名前。


 ◇


 伯爵家は、悪い家じゃなかった。

 父は穏やかで実直な人だった。領地は小さいけど豊かで、特産の薬草は王都でも評判がいい。母は社交が得意じゃなかったけど、領民に慕われる温かい人だった。

 前の人生にはなかったものが、ここにはあった。静かな朝食の時間。庭の花を摘んで母に渡すと、不器用に笑ってくれる。そんな当たり前の日々が、私にはまぶしくて仕方なかった。


 壊れたのは、私が十二のときだ。


 ヴェルナー侯爵家から、婚約の話が持ち込まれた。

 第一王子エルヴィン殿下の婚約者に、リーゼ・フォン・アルトハイムを——と。


 父は困惑してた。うちみたいな伯爵家の娘が第一王子の婚約者なんて、どう考えたっておかしい。でも侯爵家の「推薦」は実質命令だ。断ったらどうなるか分からない。

 母は私の手を握って、「嫌なら断っていいのよ」と言ってくれた。


 私は受けた。

 十二歳でも分かってた。これは栄誉なんかじゃない、取引だ。侯爵家がうちの何かを欲しがっていて、その対価に差し出されるのが私という「駒」。(……前世で何回も見たパターンだもの)


 ◇


 婚約が成立してから、すべてが変わった。


 最初は小さなことだった。侯爵家の紹介で、父の領地に新しい商会が入ってきた。「取引の効率化」なんて名目だったけど、蓋を開けたら薬草の買い取り価格が三割も下がってた。

 父が文句を言うと、侯爵家の家令から丁寧なお手紙が届いた。


 ——王子殿下の婚約者のご実家が、つまらないことで揉め事を起こされては困りますな。


 それだけで、父は黙った。

 次に、母が社交界から締め出された。侯爵夫人の茶会に呼ばれなくなって、ほかの夫人たちも距離を置き始めた。「あの方は社交が苦手だから」って、もっともらしい理由をつけて。

 母はそれでも笑ってた。「私はもともと苦手だから」って。でも、その笑顔がだんだん薄くなっていくのを、私はちゃんと見てた。


 そして、侍女たちがひとり、またひとりと辞めさせられた。

 代わりに来たのは侯爵家の息がかかった人たち。私の行動を逐一報告するための監視役。どこへ行った、誰と会った、何を読んだ。ぜんぶ筒抜け。

 気がつけば、アルトハイム伯爵家は侯爵家の監視下にすっぽり収まっていた。


 これが「王子の婚約者の家」に与えられた「栄誉」の正体。(……やってること、大手メーカーの下請けいじめそのものじゃない)


 ◇


 前の人生で、まったく同じ光景を見たことがある。


 大手の下請けに入った中小企業が、最初は好条件で取引を始める。でも関係が深まるにつれて、じわじわと主導権を奪われていく。価格を叩かれ、人を送り込まれ、経営の自由を失う。気づいたときにはもう、その大手なしでは回らない身体にされている。

 前の会社の取引先で、そうやって潰れた会社をいくつも見た。


 侯爵家がやってるのは、それとまったく同じだ。

 手口が丁寧なだけで、本質は企業買収と変わらない。


 はっきり気づいたのは、十五のとき。

 父の書斎にあった帳簿を、こっそり読んだ日だった。数字は嘘をつかない。前世で叩き込まれた経理の基礎知識が、ここで役に立った。

 領地の収益が、年々侯爵家に吸い上げられてる。商権の大半はもう侯爵家の関連商会が握ってた。このままだと、あと数年でアルトハイム家は名前だけの空っぽの貴族になる。


 帳簿を閉じた手が、震えてた。

 指先が氷みたいに冷たい。血の気が引いてるのが自分でも分かった。


 あの日の夕食を、今でも覚えている。

 父がいつもより少し痩せた顔で「今年の薬草は出来がいい」と笑ってた。母が「お庭の花も綺麗に咲いたわ」と返してた。ふたりとも、何も知らないふりをしてた。帳簿の数字が何を意味するか、本当は分かってるくせに。

 この穏やかな食卓を守るために、父は黙って搾取を受け入れてる。母は笑顔が薄くなっても、誰にも弱音を吐かない。

 私のせいだ。私が婚約を受けたから、この家は侯爵家に絡め取られた。


 ……いや。違う。

 悪いのは、この仕組みを作った連中のほうだ。


 その怒りが、お腹の底にすとんと落ちて、根を張った。


 ◇


 その日から、私は「従順な婚約者」になった。

 正確には、従順な婚約者の仮面をかぶることにした。


 侯爵家に正面からぶつかっても意味がない。力で戦えば、伯爵家ごと潰される。前の人生だって、取引先に面と向かって喧嘩を売る営業なんていなかった。

 やるなら、相手に気づかれないうちに。

 笑顔の裏で、静かに、確実に。


 まず、学んだ。

 学園の図書室に通い詰めて、この国の法律、税制、貴族社会のルールを片っ端から頭に入れた。前世の知識がそのまま使えるわけじゃない。でも「構造」は同じだった。権力は人と人との関係で成り立ってる。その関係を理解すれば、動かし方が見えてくる。


 次に、観察した。

 侯爵家の力の源はどこか。誰が支えてるのか。なぜ従ってるのか。恩義か、利害か、恐怖か。

 従順な婚約者として社交の場に出るたびに、私は笑顔の裏で貴族たちの関係を読み解いていった。


 そうして、見えてきた。

 侯爵家を支える三つの家。子爵家、マリアンヌの実家、そしてもうひとつ。

 三家はそれぞれ、従う理由が違ってた。利害で繋がる者、恩義で繋がる者、恐怖で繋がる者。そしてどの繋がりにも、ほつれかけた糸がある。


 前の人生の上司の言葉を思い出す。


 ——取引先を落としたいなら、直接ぶつかるな。周りから攻めろ。サプライヤー、協力会社、キーマン。そいつらをひとりずつこっちに引っ張れ。気づいたときには、相手は丸裸だ。


 乱暴な人だったけど、仕事だけはホンモノだった。


 自室の机に向かって、一枚の紙を広げた。

 貴族たちの名前を書き出す。矢印で関係を繋ぐ。弱点を書き込む。

 侯爵家を中心にした相関図。私だけの盤面。


 三つの家の名前に、赤い丸をつけた。


 ここから、この丸をひとつずつ消していく。

 誰にも気づかれないように。従順な笑顔の裏で。


 時間はかかる。でも、急がなくていい。

 大事なのはタイミング。すべてのお膳立てが整った瞬間——エルヴィン殿下が私を「不要」と判断した、まさにそのときに侯爵家の足場が崩れるようにする。


 完璧な復讐っていうのは、相手が自分の意思で引き金を引いたと思い込んでくれることだ。


 ランプに照らされた相関図を見下ろして、私は小さく笑った。

 前の人生では、最後まで報われなかった。身体を壊して、誰にも感謝されず、ホームの冷たいタイルの上で意識を失った。


 でも今度は違う。

 この人生では、私の手で終わらせる。


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