第1話「従順な婚約者と、断罪の朝」
全20話中の1話目です。
白い大理石の広間に、エルヴィン殿下の声が響いた。
「——リーゼ・フォン・アルトハイム。私はお前との婚約を破棄する」
ざわり、と空気が揺れる。
学園の卒業式典。ぴかぴかに磨かれた床に、ステンドグラスの光がカラフルな影を落としている。貴族の子弟がずらりと並ぶ大広間の真ん中で、第一王子殿下はそれはもう気持ちよさそうに宣言した。
金糸の礼服。自信に満ちた笑み。(……正義のヒーローごっこのつもりかしら)。そのドヤ顔まで、予想どおり。
殿下の隣には、男爵家の令嬢が寄り添っている。殿下の腕にすがるようにして、こちらを見ていた。うるうるした大きな瞳。か弱くて、可憐で、守ってあげたくなる感じ。でもね、その目の奥にだけ、勝ちを確信した色が光ってるの、私には見えてるわよ。
「お前は私の妃にふさわしくない。エミーリアこそが、私の隣に立つべき女性だ」
しん、と静まり返った広間に、ひそひそ話が広がっていく。
——まあ、可哀想に。
——でも仕方ないわよね。アルトハイム伯爵家じゃ、王妃の器ではないもの。
——あの子、いつも地味だったし。
聞こえてる。ぜんぶ、聞こえてる。
前の人生でもそうだった。会議室の外で囁かれる陰口なんて、聞こえないふりは得意中の得意。
私は深く、深く頭を下げた。
「……仰せのままに、殿下」
声が震えた。ように聞こえただろう。
目の端に涙が滲む。ように見えただろう。
顔を伏せた私の唇が、かすかに弧を描いてることに、誰も気づかない。
ああ、エルヴィン殿下。あなたは本当に、予定どおりに動いてくださる。
前の人生で学んだことがある。
勝負は、相手が勝ったと思った瞬間に決まるのだ。
◇
私の名前はリーゼ・フォン・アルトハイム。アルトハイム伯爵家のひとり娘で、第一王子エルヴィンの元婚約者。
今まさに、大勢の貴族の前で捨てられた「可哀想な令嬢」だ。
周囲の視線が肌にちくちく刺さる。同情、蔑み、好奇心。
そのすべてを、私は俯いたまま受け止めていた。
「リーゼ嬢、なんと気の毒な……」
近くにいた夫人がハンカチを差し出してくれる。私はそれを震える手で受け取って、目元をそっと押さえた。
「ありがとう、ございます……」
完璧な「捨てられた令嬢」のしぐさ。
泣きすぎてもダメ。取り乱しすぎてもダメ。哀れでいながら品位を保つ。このさじかげんは、前の人生でプレゼンに何回も失敗して身につけたものだ。
感情は、見せすぎると嘘くさくなる。
「下がりなさい、リーゼ。これ以上、式典の場を乱すつもりか」
エルヴィン殿下が冷たく言い放つ。隣でエミーリア嬢が小さく身を竦めてみせた。(その「私のせいでごめんなさい」って顔、いっつも同じパターンよね。もうちょっとバリエーション増やしたら?)
もちろん、口には出さない。
「失礼いたします……殿下」
最後にもう一度深く頭を下げて、私は広間を去った。
背中にざわめきが追いかけてくる。
「可哀想に」「あの子どうなるの」「実家に戻されるのかしら」
好きに言えばいい。
この場にいる誰ひとり、私の本当の顔なんて知らないんだから。
……いや。
広間を出る直前、視界の端にひとりだけ、気になる人物が映った。
壁際に寄りかかって立っている、第二王子殿下。クロード・ヴァン・レーヴェンハルト。兄とは似ても似つかない、冷めた目をした人。
その目が、ほんの一瞬、私を捉えていた。
同情でも蔑みでもない。何かを見定めるような、静かな視線。
背筋がぞくっとした。
気のせい。気のせいだと思うことにして、私は回廊へ歩き出した。
◇
広間を出て、長い回廊を歩く。
石造りの壁が音を吸い込んで、自分の足音だけが静かに響く。
ひとりになった瞬間、涙が止まった。
嘘泣きだったわけじゃない。悔しさも惨めさも、たしかに本物だ。何年も「従順な婚約者」を演じ続けた日々には、嘘だけじゃない感情がちゃんとあった。
でも。
「——予定どおり」
つぶやいた声は、さっき広間で震えてたのとはまるっきり別の温度だった。
エルヴィン殿下が私を断罪すること。分かってた。あの方にとって私は、侯爵家が差し出した従順な駒でしかない。もっと都合のいい女が現れれば乗り換えるのは分かりきったこと。
エミーリア嬢が殿下に取り入ってるのも知ってた。彼女の後ろに侯爵家の手引きがあることも。私はもう用済みだったのだ。伯爵家から絞れるものは絞り尽くした。あとは適当に切り捨てればいい。そういう算段だったんでしょう。
ぜんぶ、知ってた。
知った上で、待ってた。
この日を。
回廊の窓から、中庭の薔薇が見える。赤い花弁が風に揺れていた。
私はその景色を見ながら、ふうっと息を吐いた。
「あなたが私を切り捨てた瞬間、あの家は後ろ盾の半分を失ったのよ、エルヴィン殿下」
アルトハイム伯爵家は、たしかに名門とは言えない。でも。私が何年もかけて水面下でどれだけの糸を紡いできたか、あなたは知らない。侯爵家も知らない。
誰も知らない。
回廊の先に、式典を終えた貴族たちがちらほら姿を見せ始めた。
すぐに表情を切り替える。悲しみに暮れる、可哀想な元婚約者の顔。
通り過ぎる令嬢たちが同情の視線を投げ、夫人たちがひそひそ囁く。
大丈夫。もう少しだけ、この仮面をつけていればいい。
◇
その夜。
屋敷に戻った私は、自室の鍵を閉めた。
侍女には「疲れたから休む」と伝えてある。
ランプの灯りの下、机の引き出しから一枚の紙を取り出す。
貴族たちの名前、矢印、小さな書き込みがびっしり並んだ紙。
侯爵家を中心にした、宮廷の相関図だ。
そのなかで三つの名前に赤い丸がついている。侯爵家を支える三つの家。子爵家、マリアンヌの家、そしてもうひとつ。
三つの丸には、もう細い取り消し線が引いてあった。
すべて、終わってる。
今日の断罪は、終わりじゃなくて——始まりの合図。
指先で、侯爵家の名前をなぞった。ヴェルナー侯爵家。エルヴィン殿下の母の実家で、この国の宮廷を裏から動かしてきた一族。
父から領地の商権を奪い、社交界で母を孤立させ、私を「従順な婚約者」に仕立て上げた連中。
これから侯爵家は、少しずつ気づくだろう。味方だと思ってた人たちが、ひとり、またひとりと離れていくことに。助けを求めても、返ってくるのは沈黙だけだってことに。
気づいた頃にはもう遅い。
相関図を引き出しに戻して、ランプを消した。
暗いなかで、前の人生のことを思い出す。
毎日終電まで働いて、取引先の無理な要求に頭を下げて、最後は身体を壊して。気がついたら、この世界にいた。
あの頃の私が唯一学んだこと。
人を動かすのは、力じゃない。
力を持つ者の周りから、ひとりずつ味方を奪うこと。
気づいたときにはもう遅い。それが、本当の勝ち方だ。
「さようなら、エルヴィン様」
暗い天井に向かって、そっとつぶやく。
少し、時を戻す。
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本日は5話迄 投稿します。




