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第16話「本物の怒り」

 ——嵌められた。


 執務室の机の上に書類が広がってる。農地開発事業の記録。地価公示との照合表。補償金の流れを追った図。関連商会の帳簿の写し。

 ぜんぶ、俺が自分の手で集めた資料だ。


 そして——ぜんぶ、あの女が俺に見つけさせたものだ。


 椅子の背にもたれて天井を仰いだ。

 怒りはある。たしかにある。利用された。「職務」っていう俺の立場を、「正義」っていう俺の信条を、読み切ったうえで——図書室の机に一冊の本を置いた。それだけで俺を動かした。


 見事だと思う。

 腹が立つほどに。


 ◇


 あの回廊で、リーゼの顔を見た。


 「俺は君の駒か」と聞いたとき、あの女は答えなかった。

 否定もしなかった。巧みな言い訳も、完璧な嘘も、なにも返さなかった。

 あの女ほどの人間が、言葉を失うことなんてあるのか。いつもならどんな場面でも仮面をかぶってきりぬける。社交の場で何百人もの貴族をだまし続けてきた女が——俺の前だけ、嘘をつけなかった。


 それがなにを意味するのか。


 考えたくない。考えたくないけど——考えてしまう。


 ◇


 書類に目を戻した。

 感情はあと。まず事実を確認する。


 リーゼが俺に見つけさせた情報。農地開発事業の不正。侯爵家とベーレンス男爵家の資金の流れ。

 問題は、これが本物かどうかだ。


 あの女が俺を「駒」にしたんだとしたら、俺に見せた情報は嘘かもしれない。にせの不正をつかませて、俺を侯爵家にぶつける。そういう策略の可能性もある。

 もしそうなら、俺はおどらされた道化だ。


 だが。


 帳簿を一枚ずつめくる。数字を追う。計算する。照合する。

 ——合わない。つじつまが合わない。農地取得価格が地価公示の六割。補償金の三割が使途不明。関連商会への支払いが市場価格の倍。

 これは作り上げたにせものじゃない。偽造するなら、もっと巧妙にやる。こんな粗い数字のゆがみを残すはずがない。


 つまり、これは本物の不正だ。

 侯爵家が長年にわたって公金を流用してた本物の証拠。


 リーゼが俺に見つけさせた情報は——ぜんぶ、本物だった。


 ◇


 資料を机に置いて、目を閉じた。


 事実を整理する。


 ひとつ。侯爵家は不正をおこなってた。これは俺が自分の目で確認した事実。

 ふたつ。リーゼは俺にその不正を見つけさせるよう誘導した。

 みっつ。リーゼが俺を利用したことは事実だけど、俺が見つけたものも事実。


 つまりあの女は、嘘の情報で俺を動かしたんじゃない。本物の不正を、俺の目に入る場所に置いただけだ。


 考えてみれば、あの回廊でもそうだった。

 俺が「駒か」と聞いたとき、リーゼは嘘をつかなかった。否定すればよかったのに。「偶然です」と笑えばよかったのに。あの女の技術ならたやすいことだったはずだ。

 なのに——黙った。


 嘘をつけなかった。

 俺に対して。


 あの沈黙のなかに、怒りとはべつのなにかがあったことを、認めたくない自分がいる。


 ◇


 窓の外を見た。日が暮れかけてる。


 子爵の態度が変わったこと。ロートリンゲン商会の動き。マリアンヌの目の変化。そしてこの農地開発の不正。

 ぜんぶが、ひとつの線でつながりはじめてる。


 その線の中心にいるのが、リーゼ・フォン・アルトハイム。


 あの地味で従順な令嬢が、侯爵家の足もとを静かに崩してる。ひとりで。仮面をつけたまま。誰にも気づかれないように。


 なぜか。

 答えはもうわかってる。あの女の実家——アルトハイム伯爵家が、侯爵家にどれだけ搾り取られてきたか。商権を奪われ、社交界で孤立させられ、侍女を入れ替えられ、娘を「従順な駒」にされてきたか。

 俺は調査の過程でそれを知った。帳簿が語る数字の向こうに、ひとつの家族の苦しみがあった。


 俺に不正を見つけさせた。それは利用だ。

 だけど、俺が見つけた不正は本物だ。侯爵家がやってきた搾取は本物だ。アルトハイム家が受けた被害は本物だ。

 そして——あの回廊で声を失ったリーゼの痛みも、たぶん本物だ。


 嵌められた。たしかにそうだ。

 だが——


「俺が見つけたものは、ぜんぶ本物だった」


 誰もいない執務室で、声に出して言った。


「あの家の罪も」


 書類の山を見おろす。数字の羅列。そのひとつひとつの裏に、踏みにじられた人たちがいる。


「——あいつの、痛みも」


 ◇


 怒りが形を変えていくのを感じた。


 利用された怒りは消えない。あの女が俺の行動を読み切って、駒みたいに動かしたことは事実だ。許せるかって聞かれたら——まだわからない。


 だが、思い出すのは菓子屋の午後だ。

 焼き菓子をほおばる無防備な顔。仮面を忘れたあの一瞬の笑顔。「殿下こそ、王宮よりずっと楽しそうですけれど」——あの声。

 あれも計算だったのか。あの笑顔も仮面の一種だったのか。

 違う。あれが演技じゃないことくらいわかる。あの女は何百人もの貴族をだませるけど、俺の前でだけ仮面が外れる。菓子屋での笑顔は——本物だった。


 本物の笑顔を見せておいて、駒にする。

 矛盾してるようだけど、矛盾してるからこそ、あの女の苦しみが透けて見える。


 怒りの矛先がもうひとつある。

 侯爵家だ。


 この不正を俺は黙認できるか。リーゼに利用されたことを理由に、侯爵家の罪を見なかったことにできるか。

 できない。できるわけがない。


 俺は王子だ。この国の不正を正す立場にいる。リーゼがどういうつもりで俺にこの情報を渡したかに関係なく、不正は不正だ。見つけた以上、動かなきゃいけない。


 それが、リーゼの思惑どおりだったとしても。


 椅子から立ち上がった。

 書類を整理して、封筒に入れる。王への報告に必要な形式にまとめる。


 この資料を提出すれば、侯爵家への正式な調査がはじまる。ベーレンス男爵家も巻き込まれる。兄上の立場にも影響が出るだろう。


 覚悟はできてる。東屋であの女に言った言葉に嘘はない。

 「この国に害があるなら、兄であっても見過ごさない」——あれは本心だ。


 窓の外に月が昇りはじめてた。

 あの夜会のバルコニーの月を思い出す。「目が笑ってない」と言った夜。あのときから、俺はあの女を見続けてきた。


 怒ってる。

 怒ってるけど——もうひとつの感情が、怒りの底で静かに燃えてる。


 あの女の仮面の下にあるもの。覚悟と怒りと孤独と——俺の前でだけ壊れるもろさ。

 ぜんぶ見た。ぜんぶ知った。


 知ったうえで——手を離す気にはなれなかった。


 あの女に利用されたことに怒ってる。

 でも同時に、あの女が俺を利用しなきゃいけないほど追い詰められてたことに、べつの怒りを感じてる。俺以外に頼れる人間がいなかったのか。いなかったんだろう。あの女はずっとひとりで、誰にもほんとうの顔を見せずに戦ってきた。

 その孤独に怒りを覚えるのは、おかしいだろうか。


 ◇


 封筒を机の上に置いて、ランプの灯りを見つめた。


 明日、この書類を提出する。

 侯爵家への調査がはじまる。ぜんぶが動き出す。


 リーゼ。


 俺は君に利用された。それは忘れない。

 だけど——君が俺に見つけさせたものは、ぜんぶ本物だった。


 だから俺は、自分の意思で動く。

 君の駒としてじゃなく。俺自身の判断で。


 ——次に会ったら、言いたいことが山ほどある。


 月明かりが窓から差し込んで、書類の束を白く照らしてた。


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