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第15話「俺は、君の駒か」

 クロード殿下の調査は、予想どおり——いや、予想以上に速かった。


 図書室の日から一週間。エルザのネットワークを通じて、宮廷に小さな波紋が広がってるのが見えた。

 第二王子が農地開発事業の記録を取り寄せた。王都の地価公示との照合を命じた。関連する商取引の帳簿を精査してる。


 殿下は数字のゆがみに気づいた。

 そしてそこから、私が想定した以上の速さで深掘りを始めてる。農地取得価格の不自然さだけじゃない。補償金の流れ、侯爵家の関連商会への資金の迂回、ベーレンス男爵家の帳簿との矛盾。


 あの人は優秀だ。ほんとに。

 ひとつの数字のゆがみから、クモの巣みたいに糸をたどって全体像を描き出す。


 そしてベーレンス男爵は、王子の調査が自分に及びつつあることを察した。

 男爵は打算の人だ。侯爵家との共同事業が調査対象になるとわかれば、いちばん合理的な判断はひとつ。


 火の粉が降りかかる前に、侯爵家から距離を取る。


 三本目の柱が揺れはじめた。


 ◇


 ぜんぶ計画どおりだった。

 計画どおりだったのに、私の足どりは重かった。


 学園の廊下を歩きながら、何度も窓の外を見た。なにを探してるのか、自分でもわからなかった。銀灰色の髪を探してるのかもしれない。

 あるいは——探さずに済むことを祈ってるのかもしれない。


 放課後。図書室に向かおうとして、足が止まった。


 図書室の入り口に、クロード殿下が立ってた。

 壁に背を預けて、腕を組んで、私を待ってた。


 待ってた。

 その姿が、東屋のときとも菓子屋のときとも違ってた。


 目が笑ってなかった。


 ◇


「すこし話がある」


 短く言って、殿下は歩き出した。図書室のなかじゃなくて、奥の回廊へ。人気のない一角。窓から夕暮れの光が差し込んで、石壁を茜色に染めてた。


 ふたりきりになった瞬間、空気が変わった。


 クロード殿下は窓辺に立って、しばらく外を見てた。

 私は三歩ほど離れた場所で、殿下の横顔を見てた。夕日が銀灰色の髪を赤く染めてる。いつもの冷静な横顔。でも、あごの線がわずかに硬かった。


「調査を進めた」


 前置きなく、殿下が口を開いた。


「ベーレンス男爵とヴェルナー侯爵家の共同事業。農地開発。資金の流れに不自然な点がある。農地取得価格の操作、補償金の迂回。侯爵家の不正がほぼ確実に浮かび上がってる」


 淡々とした報告。でもその声には、いつもの余裕がなかった。


「数字は嘘をつかない。帳簿を追えば、侯爵家が長年にわたって公金を流用してた構造が見える。これは国の問題だ。放置はできない」


「……そうですか。殿下のお働きは、この国のためになるかと」


 従順な令嬢の返答。模範的で、空っぽで、なにも言ってないのと同じ。


 クロード殿下が私を見た。


 その目は怒りじゃなかった。もっと複雑な、もっと深いなにかがこもってた。


「ひとつだけ聞く」


 静かな声だった。嵐の前の静けさみたいだった。


「農地開発の事業登記簿。あの日、図書室の君の机にあった。君はあの本を『法律の授業のため』だと言った」


 心臓が冷たくなった。


「登記簿は法律の棚の最上段にある。ふつう、手に取る人間はいない。教授陣でさえめったに参照しない。そしてあの日、あの本は——農地開発事業の資金明細のページが開かれた状態で、君の机に置かれてた」


 一歩、殿下が近づいた。


「俺が図書室に来ることを、君は知ってた。俺が机の上の本を見ることも知ってた。俺が数字のゆがみに気づく人間だってことも——知ってた」


 反論すべきだった。「偶然です」って。「考えすぎです」って。いくらでも否定はできた。

 前の人生の営業トークを総動員すれば、この場をきりぬける言葉はいくらでも紡げる。笑顔で、軽やかに、相手の疑念をけむに巻く技術は持ってる。


 でも、声が出なかった。

 (なんでだろう。この人に対してだけ、嘘をつく筋肉が動かない)


 あの青灰の瞳が私を見てた。

 怒りでも悲しみでもない。確認するような目。最後の一線を自分で確かめようとする目。


「ひとつだけ聞く」


 同じ言葉が、もう一回。

 今度はもっと静かに。


「俺は——君の駒か?」


 ◇


 時間が止まった。


 夕暮れの光が石壁を染めてる。窓の外で鳥が一羽飛んだ。廊下の向こうで、誰かの足音が遠ざかっていく。

 それだけが、この沈黙のなかに存在してた。


 答えなきゃいけない。

 「違います」って言えばいい。嘘をつけばいい。いままで何百回もそうしてきたみたいに、完璧な仮面で笑って、なにも知らない顔をすればいい。


 口を開いた。

 言葉が出なかった。


 この人にだけは。

 この人にだけは、嘘をつけない自分がいた。


 沈黙がつづいた。五秒。十秒。それ以上。

 答えないってことが、答えだった。


 クロード殿下の目が変わった。

 なにかを確認し終えたっていう目。そこに怒りがあったのか、失望があったのか、読み取れなかった。読み取る余裕がなかった。


 声を出そうとした。なにか——なんでもいいから。

 のどが震えた。でも出てきたのは、声にならない息だけだった。


「……そうか」


 一言。低く、短く。

 その声に感情がこもってたのか、ぜんぶの感情をそぎ落とした声だったのか。わからなかった。


 殿下が背を向けた。

 一歩。二歩。夕暮れの回廊を遠ざかっていく。


 待って、って言いたかった。

 違うの、って叫びたかった。あなたを駒になんてしたくなかった。あなただけは盤の外にいてほしかった。でもほかに方法がなくて——


 声は出なかった。

 かわりに手が震えてた。両手が。おさえられないくらいに。


 殿下の背中が小さくなっていく。夕日のなかに溶けていくみたいに。


 ◇


 ひとりになった回廊で、壁にもたれた。


 ひざが笑ってた。立ってるのがやっとだった。


 復讐は予定どおり進んでる。

 三本の柱はぜんぶ揺らいだ。侯爵家は調査対象になりつつある。断罪の日に向けて、すべての駒は配置された。


 なのに。

 こんなに苦しいのは、はじめてだった。


 前の人生で、どんなにつらい仕事をしても。この人生で、どんなに孤独な夜を過ごしても。

 こんな痛みはなかった。


 東屋で「ここにいる」って言ってくれた人。

 菓子屋で耳を赤くしてくれた人。

 「こっちのほうが似合う」って、仮面の下の私を見てくれた人。


 その人の背中を——私は、自分の手で遠ざけた。


 涙は出なかった。泣けるほど単純な感情じゃなかった。

 ただ胸の奥に、穴が開いたみたいな冷たい空洞があった。


 ふと気づいた。

 いまの私は、断罪の日に泣いてみせたときの私よりずっとみじめだ。あの日の涙は半分演技だった。いまは——演技をする気力すらない。


 仮面がつけられない。

 あの人に壊されたんじゃない。あの人に対して使うことを、私のなかのなにかが拒んでる。

 そしてあの人は、もういない。


 夕暮れの光が消えていく。

 回廊が薄闇に沈んでいくなかで、私はしばらく動けなかった。


 いつか忘れるだろうか。この痛みを。

 菓子屋の午後を。バルコニーの月を。「こっちのほうが似合う」っていう声を。


 忘れられるなら、忘れたかった。

 でもあの夜会の夜と同じだ。


 忘れられれば、よかったのに。


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