8話 『謙虚なる者』
「……」
いない。
ここにも、いない。
掃除や雑事で館のあちこちを移動するので、角を曲がる時に、あの薄ら笑いと鉢合わせるのではと毎回緊張する。特に配置移動があった時は。
しかし、ディアラン婆さんに必死に訴えたおかげか、あの男を見る事はなくなった。店の表側の監視に回ったのかもしれない。
――あるいは、苦役区画に戻されたか。
苦役区画に戻っても、苦役奴隷と苦役奴隷の監視役では全く違う。
他の監視役と一緒になって、あの頃の私みたいなのをいびって、無駄に命を捨てさせて楽しんでいるのだろう。
あるいは、監視役ではなく苦役奴隷に落とされた?苦役奴隷は生きているのがやっとで、奴隷間の意識も薄いが、自分達を虐げてきた存在が自分達と同じ立場になれば、流石にその相手に対して何かしら復讐を企むのかもしれない。
……いい気味だ。虐げられ、無為に搾取される事実を思い知ればいい。
「……『セレ』」
こっそり、自分の『ただ一つの名』を口にする。
これは、『呼び名』ではない。特別な、『ただ一つの名』だ。
自分で言葉にするだけで、ぽんわりと胸の奥にあたたかみが生まれるのを感じる。
けれど……もっと深く、包み込まれるような、あたたかいような熱いような、泣きたくなるような感じはない。それができたのは――あの、薄ら笑いの監視役だけだ。
私に、セレという『ただ一つの名』を授けた、『ただ一人の人』の、アイツ。
……癪だ。
アイツ以外の人が、私の『ただ一人の人』であればよかったのに。
ディアラン婆さんとか、リャーラとか――ともかくもっと別の誰かであれば、ここまで苦々しい気持ちにもならない。それでも、あの不思議に甘くて熱い感じは、やっぱりあの男でないと駄目だった。
抱きしめられるような。寿がれるような感覚。
……どうしてそれが、よりにもよってアイツからでないと駄目なんだ。
あんな、最低、最悪の奴に!
「……なんだよ、もう!」
閉ざされている扉を見る。あの扉の先をいくつか抜ければ、建物の間にぽつんと存在する、日当たりの悪い井戸がある。苦役区画から、この『旦那様の館』に渡るために連れてこられた場所だ。そして、その向かいの扉の先に――
あの薄暗く、淀んだ、こことは別種の――でも同じ地獄。苦役区画がある。
あの男は、苦役奴隷の監視役としてそこにいるのだろうか。また薄汚い服を着て、薄ら笑いを貼り付けながらも恨みがましい目をして?それとも苦役奴隷として?
あるいはもうすでに……
セレ、と。
犬や猫でもかまうような、侮ったような、腹立たしい――なのに、私には特別に響くあの声を。……私はもう聞く事がないのだろうか。
アイツは心底嫌いだけれど、その声だけは。それだけは――
「なんだよ……もう……馬鹿……」
などと思っていたのだが。
「セレ、久しぶりだなあ!?」
「死んでくれていてよかったのに」
「なんだと!?」
なんだよ。元気じゃないか。
手足も揃っている。調子は相変わらずで、反省の様子もない。何も変わってはいない。……いや、館の監視役に支給されている、服の襟ぐりや袖のラインは変わっている……か?コロコロ変わっているから、自信がない。……娘奴隷達が暇潰しに遊んでいる、間違い探しか?
「食料庫で何を監視しろっていうんだよ、なあ?こんな俺の才能を遊ばせておくなんて。これは誰か、俺の出世をひがんだ奴のせいだな」
どうやら閑職に飛ばされていたらしい。館の監視役が才能を発揮するところなんて、どこにもないと思うけど。
「『暇してるだろ』って、おかげでずーっと、芋だなんだの皮むきだ。お前がここしばらく食っていた芋は、ほとんど俺が剥いていた芋のはずだぞ?」
「人生で初めて、人の役に立ってたんじゃない?ずっと食料庫にいればよかったのに」
「つれない奴だな……いや、その割には結構喋るじゃねえか。館に十分慣れたからか?それとも――俺がいなくてさびしかったか?」
「――調子に乗るな!」
桶を振り回すが、それを掴んで止められる。しまった。こうして動きを止められたら、次は腕を掴まれる。それから――
……しかし、腕は掴まれたものの、それ以上は何も無かった。
監視役も、そのつもりはあったような感じなのに。
少し、変な間が空く。
「……まあ、いいや。セレ、お前が何を言おうと、俺にはわかる。お前は俺に『ただ一つの名』を呼ばれたがってる、ってな?だろう?……『セレ』」
「……!」
それは――それは、そうだ。
でも、『ただ一人の人』に『ただ一つの名』を呼ばれたいという、それだけだ。その『ただ一人の人』というのが、運悪くこの監視役であるというだけで。もし『ただ一人の人』がコイツでなかったら、もっと話は簡単であったはずなのに。
「俺もな?お前の名前を呼ぶと、こう……腹の底が熱くなってくるんだよ。ただ一言、『セレ』と呼ぶだけなのに」
その、目が嫌だ。私を見ているようで、見ていないような目が。
「それに、この一言で、お前が途端に大人しくなるのも愉快で仕方ない。……なあ、セレ。『ただ一つの名』を呼ばれるのは、どんな感じなんだ?お前ほど生意気な奴が、しおらしく黙り込むほど、いいのか?」
「……」
答えてなどやるもんか。
そう思っていると、抱き寄せられた。耳元で『セレ』と囁かれる。
「やめろ……」
「言葉の割には大人しいんだよな。本気で嫌がってねえだろ?なあ。そんなに違うのか?『呼び名』で呼ばれるのと、『ただ一つの名』で呼ばれるのでは」
「……私には『呼び名』なんてない」
この『セレ』という『ただ一つの名』の事は、誰にも言っていない。私は娘奴隷達の間では相変わらず『呼び名』すらない新人だ。
「おい……お前、そんな事で上手くやれてるのかよ」
「……うるさい。これでも、髪結いで私の取り合いが起きてるんだからね」
流行り病も収まって、娘奴隷の新入りも、何人か入っている。ただ、それは店用に『旦那様』が買い入れたもので、すぐに仕込んで店に出せるようにと適齢の娘奴隷が入ってくる。結果として、年齢を幼く申告している私は、店に出せないからずっと下働きのままだ。入れ替わりが激しいとはいえ、常に一人二人はいる新入りと、作業は分担できているけど。
まあ、『あの子』『貴女』『『呼び名』のない子』『苦役区画あがり』も、ある種『呼び名』といえば『呼び名』かもしれない。
「せっかく『セレ』っていい『呼び名』を考えてやったってのに。しかもそれが、『ただ一つの名』だっていうのに」
監視役は残念そうにしながら、抱き寄せた私の耳元で喋っている。知った事ではないから勝手にほざけと聞き流すが、それでも『セレ』と言葉が響くたびに、不快感が一瞬消え去り、多幸感に包まれる。……腹立たしい。
「――なあ、セレ。俺の『ただ一つの名』は、思いつかないか?」
「は?」
「『ただ一つの名』を呼ばれるのは最高にいいんだろ?俺がお前に『ただ一つの名』を与えてやったんだ。お前が俺に礼として『ただ一つの名』を返したっていいだろう?」
「……何を言っているの?」
そんな単純なものではない。
『ただ一つの名』を授ける『ただ一人の人』と出会えるなんて、奇跡だ、運命だ。……私の奇跡や運命がこの監視役だとは思いたくない。私が異例なだけとしよう。……私の場合は奇跡や運命ではなかったが!一般的には奇跡や運命。……うん。
だから、おいそれと『ただ一人の人』に出会えるわけではない。
そして、誰かにとって『ただ一人の人』であっても、その『ただ一人の人』にとっての『ただ一人の人』は、また別にいるものなのだ。
娘奴隷の中で『ただ一つの名』を持っているルォウレンとは今もそれとなく『ただ一つの名』について話を聞いたり、他の娘奴隷に話をしているのを耳をそばだてて聞いたりしているが、あくまでルォウレンにとっての『ただ一人の人』は、それだけの存在だったらしい。
畑で取れた収穫物ではないのだから、『お返しに』なんてものではないそうだ。
かいつまんで説明をすると、監視役は口を尖らせた。
「なんだよ。俺がありがたくも『ただ一つの名』を授けてやったのに、俺にはなにも無しなんて、あんまりだろ!?そっちは『ただ一つの名』を授けてもらった上に庇護だか加護まで求めるんだろ?割に合わないにもほどがある!」
「加護も庇護も、してもらった事はないけど?」
「なんでだよ!?俺は――」
そこまで言って、監視役は黙った。何やら口惜しそうにむにむにと唇を動かしている。
「……少なくとも、お前を害するような事は、してないだろ」
「どの口がそんな事を言ってるの?」
どういうものの考え方をすればそう思うのか、不思議でならない。
しかし、この監視役は納得しないようだった。
「それでも、お前が俺に対して感謝の気持ちがあるなら、閃くかもしれないだろ?」
「しつこいな……」
何事においてもしつこい。だから娘奴隷達から文句が出るんだ。そしてそのしわ寄せが私に来る。
「まあ、俺も『ゲゼル』って『呼び名』に不満はないが、『ただ一つの名』が得られるならその方がいいからな!」
……『ゲゼル』?『謙虚なる者』とはまた。笑いがこみ上げてきそうだ。
「それに……まあ、俺がお前にセレという『呼び名』を考えた時みたいに、セレが俺のためにと考えたものなら、それに『呼び名』を変えてやってもいい」
「どうしていつも上から目線なの、アンタは」
「監視役が娘奴隷を下に見るのは当然だろうが」
「だとしても、アンタは嫌」
他の監視役なら『まあ監視役だし』と納得できる。けど、何から何まで腹の立つこの男から舐められるのは、納得いかない。
「でも……『呼び名』か」
「そうだ。何かないか?」
『ただ一つの名』を得た私がよほど羨ましいのか、ずいぶん乗り気だ。変えてもいいとまで言っている。
『愚図』『ゴミ』『最低人間』とでもつけてやりたいところだ。しかし――
『呼び名』を与えるのは、それなりの関係性があるという事でもある。
たいていは『呼び名』を与える側が年長者だったり保護者であったりする。周囲には優位という事にはなるので、この監視役に娘奴隷である私が『呼び名』をつけるというのは痛快だ。
しかし――『『呼び名』を与え合うだけの関係性である』という表明にもなる。
他人とそんな関わり合いを持ちたくない。そんな恩を着せ合ったり慣れ合ったりしたくない。だから私は今でも娘奴隷の間で『呼び名』すらない子として生きている。
なのに、この男に『呼び名』をつけてもみろ。この男は自慢気に触れ回る事だろう。
ここでの地獄をより深いものにするだけだ。
絶対、イヤ。
「……何も、思いつかない」
「なんだよ。俺にふさわしい名前はいくらでもあるだろうが!『理知的』でも『雄々しい』でも『冴え渡る』でも――」
「図々しいにもほどがある」
こいつのために頭を悩ませて考えるなんて、人生で無駄過ぎる瞬間を作りたくない。まったく閃かない。
「図々しい?どうしてそんな憎まれ口を――ああそうだ、『愛するあなた』とかでもいいんだぜ?」
「……アンタが誰にどういう経緯で『呼び名』を与えてもらったか知らないけど、その理由がよくわかった」
謙虚さを持て、という事だ。その痛切なる願いを込めてつけられたに違いない。
そう考えると、この男は『ゲゼル』以上にふさわしい『呼び名』はないだろう。
しかし……この『呼び名』を考えた人も、可哀想に。その願いはまったく叶っていない。
そろそろ娘奴隷が『旦那様の館』に出る準備をし始める頃だ。私の髪結いをめぐって、争いになってもいけない。騒ぐゲゼルを放って、娘奴隷の待機部屋に戻る事にする。
「おい、セレ!……ったく!セレ!?」
ゲゼルは相変わらず不愉快極まりないが――まあ、私の『ただ一つの名』を呼ばせるための道具と考えれば、多少腹立ちも紛れる。という事にしておこう。
はい。監視役は『ゲゼル』となります。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
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