5話 『ただ一人の人』
――私は、監視役を見た。
「……なんだ?その顔は。……気に入ったか?ん?『セレ』」
――!
心臓が、また大きく跳ね上がる。体に染み渡る。私の名を――『ただ一つの名』を、この男が口にするだけで、体の中がかき回される。
「……思ってたより、しっくりくるな。お前には立派すぎるかと思ったが。こんないい『呼び名』を与えてやる奴は、俺ぐらいなもんだ。だろ?」
「や……やめて」
「なんだよ。セレが嫌か?それなら『春を呼び寄せる雨』って意味の『スレイシア』――」
「嫌だ!それは違う!」
「――!?な、なんだよ……」
衝動的に口にした私の方が驚いた。でも、スレイシアは違う。それは私のものにはなりえない。セレが。セレこそが、私のものなんだ。どれほど涼やかで甘やかで賢そうな『呼び名』を出されても、セレという『ただ一つの名』には遠く及ばない。
「希望があるなら、多少は聞いてやるぜ?そもそも『呼び名』とはいっても、自分で名乗っている奴だっているしな?……まあ、お前は希望を出しても最終的に『俺が』『呼び名』を与えてやるけどな?」
「ふざけないで」
「なんだよ。苦役区画にいたお前を引き立ててやったのは、俺だろ?」
監視役がいつもどおり私を見下ろす。そして、掃除道具を取ると、もう一方の手で私の手を掴む。またか。吐き気がする。けれど、拒絶しきれない。コイツの唇が、次に何を紡ぐのか、目が離せない。
「どうした。大人しいな?……ああ。やっぱり嬉しいんだろう?『呼び名』無しはあまりにも、だからな?感謝しろよ?セレ」
「……!」
ああ、やっぱりだ。コイツに私の名を呼ばれるだけで、心臓を鷲掴まれる感じがする。苦しいけど、心地よい。これはやはり、『ただ一つの名』に間違いがない。
私は得たんだ。『ただ一つの名』を。
娘奴隷の中にも『ただ一つの名』を持っていると言っている先輩がいた。本当だか怪しいところだが。だってそんな奇跡、あるとは思えない。皆、『ただ一つの名』に巡り合えればと恋焦がれても、そんな運命的な出会いが叶うなんて、思っていない。『運命であるのだから、正しく生きていればいずれ巡り合う』などと親は子に躾の中で言い聞かせるらしいけど、死ぬまで結局『呼び名』だけで過ごす人がほとんどだ。
でも、私は、『ただ一つの名』を得た。
他の人が、おいそれと手にできないものを。
――え。でも、待って?
『ただ一つの名』は、ただそれだけでは意味をなさない。『ただ一つの名』は、それを正しく伝えられる人が、その相手に対して口にして、初めて意味を持つ――と、言われている。
『ただ一つの名』を授けてくれるのは、世界でただ一人。『ただ一人の人』だけ。
「――!?」
「なんだよ。掃除があるんだろ?なら、いつもどおりさっさと終わらせてやるよ」
「アンタ……アンタが……」
「俺が?どうした?」
廊下の隅、多少奥まった陰に引き込まれる。
「何だろうな?……セレ、今日のお前は、格別に可愛い。――いつも以上に可愛がってやる」
見下ろしてくる監視役の顔は、相変わらず不快だ。苦役区画にいた頃と比べ身なりを整えてしまって、それなりに見れた顔になっているからといって、そこは変わりない。身勝手で下劣を絵にかいたような男。
この男……この男が――
私の、『ただ一人の人』だっていうの?
「おっと、突然元気が良くなったな。騒ぐなって、セレ。……やっぱ『呼び名』があるってのはいいな。なんかこう……いつになくクラクラ来る。……セレ。ああ、いいな、セレ。この名はお前に、とても合っている」
掃除道具を廊下の壁に立てかけ、監視役は私の自由を奪おうとする。毎回の事であろうと、私は抵抗をするのだが――名を呼ばれるたびに、体が熱くなる。その高揚は、監視役側もあるようだった。息が荒い。気持ちが悪い。なのに、名を呼ばれると、強張る力が弛緩する。
「どうした、そろそろ俺のありがたみがわかってきたか?……身の程をわきまえるのはいい事だ。そういう可愛気を見せれば、俺ももっと可愛がってやれる」
ありがたくなんてあるものか。
ありがたいと思うのは、この『セレ』という私の『ただ一つの名』だけだ。
だけど――『セレ』が本当に『ただ一つの名』なら。どうしてこんな男が、私の『ただ一人の人』だっていうんだ!?
「泣くほど嬉しいか?……セレ、お前はいつも――」
舐めまわしてくるみたいなキスをまたされるのかと思っていると、監視役の動きが緩慢になる。何やらもの言いたげに口を動かし――監視役は身を離した。舌打ちをする。
「……せっかく待っていたのに、セレ。お前、来るのが遅いんだよ。交代の時間だ」
「……?」
待っていたとかはそっちの勝手だが、交代が何だというのだろう。いつもなら、気にもしないのに。むしろ『監視時間が終わった。これで心置きなく――』などと調子に乗ってくるぐらいだ。おかげで以前、交代要員の監視役に見られた事もあった。
まあいい。解放されるのならば。……どうせなら、もう少し早く交代時間を迎えていれば、顔を合わせずにすんだのに。
脱走が成功するわけもなく、また、娘奴隷も館の外で一人生きていけるわけもないと理解している。配置されてはいる監視役は、娘奴隷達の使役が主の役務ではない。それでも流石に監視の配備や交代時間などがこちらに知らされる事はない。……見ていれば、ある程度法則性はある、らしいけど。
それが私にもわかれば、この監視役に捕まる事なんてないのに。
「……ディアラン婆さんがうるさいからな。別に客の前に出すわけでもないのに」
監視役が自分の袖を掴んで私の目元を擦る。泣かせたのがバレたくないようだ。
監視役が娘奴隷をどう使おうとお咎めはほぼないが、娘奴隷の『本業』に支障をきたす、あるいは娘奴隷ですら拒絶するような事をすれば、監視役達ですらディアラン婆さんはじめ、お叱りが来るのだ。
……コイツはもっとお叱りを受けるべきだし、お叱りどころではない罰を食らうべきではと思うのだが。雑用しかできない娘奴隷の私では、そこまで守る価値もないらしい。
「婆さんには、言うなよ。やっとあそこを出られたんだ。苦役区画じゃ、王になろうが何の意味もないんだからな」
……そういえば、襟ぐりや袖のラインのデザインが変わっている。担当部署や役務内容にあわせて変わるという話だ。でも、この監視役は、鉢合わせるたびに変わったり戻ったりだ。その話の信憑性は疑わしいと思っている。
「ほらよ。仕事にさっさと励めよ。お前だって、苦役区画には戻りたくないだろ?……なにせ、俺に会えなくなる」
「戻りたいわけないけど、もうアンタと顔を合わせずにすむって一点については、あそこが恋しくなる」
「憎まれ口のつもりか?相変わらずだな」
「……つもりも何も」
ああ、気持ち悪い。見るな。子どもじゃないんだから、涙を拭われる必要もないんだ。何もかも歯向かうと面倒だから、拭わせてやっただけだ。掃除道具を手に、さっさとここから――
「……なあ――『セレ』?」
「!」
だから、『ただ一つの名』を呼ばれると――
「……おいおい。こりゃあ……なんだ、この感じ。ただお前の『呼び名』を口にしただけなのに。きつい酒を呑んだよりずっと、腹の底が熱くなる。……もしかして、『これ』が?」
「あ……!」
「『セレ』……セレ」
言葉が繰り返される。そのたびに体が高揚する。けれど、その高揚は私だけに訪れているのではないようだった。監視役の様子もおかしい。
「これは……『呼び名』じゃねえな?これは――これが――」
監視役が、見開いた眼で私を見ている。
「セレ、これが……これが『ただ一つの名』ってやつなのか!?」
――知られた!
「セレ……ははは!なんだ!?すげえな、これ!」
よせ、やめろ。私の『ただ一つの名』を、その美しい響きを、よりにもよって、アンタの口が言葉にするな。そう思うのに、その言葉はこの男の口から発されなければ意味がないと、本能的に理解してしまう。
他の人に呼ばれても嬉しいはず。けど、私の心を大きく揺さぶるのはこの男なんだ。
なんで、この男なんだ。
なんで?なんで?なんで……!?
「……くそ、惜しいな。たっぷりセレ、お前を可愛がって『祝って』やりたいのに」
「絶対やだ!じゃあ!私、掃除があるから!」
これ以上コイツに名前を呼ばれては、狂いかねない。コイツに弱みを見せてはならない。調子に乗らせてはならない。……コイツは放っておいても勝手に調子に乗るけれど。
どうしてこの男なんだ。アイツでさえなければ、誰だってよかったのに。
ずかずかと、走り出しそうな勢いで廊下を歩く。『ただ一つの名』は、運命と共に授けられる。セレと呼ばれるたびに感じる幸せな温かさや熱さはまさに運命かもしれない。それは聞いていたとおりだ。
でも――その名をもたらす『ただ一人の人』は、神様みたいに慈悲深くて優しい人だと思っていたのに。
世界で一番私を害するあの監視役が『ただ一人の人』だなんて、認めたくない。『ただ一人の人』に関しては、『ただ一つの名』に夢を見ていたい人達がちが作り出した、ただの妄想だったんだ。
そうでなければ、『セレ』という私の『ただ一つの名』の意義でさえ、疑わなくてはならないんだから。
「……まあ、綺麗になる分には文句はないがねえ?それなら客の目に届くところを磨き上げてくれないかね」
ディアラン婆さんに掃除を褒められたのは、その日の夕方の事だった。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
毎日一話ずつ更新中。
感想・評価・ブックマーク、あとなんかもう色々、お待ちしています!




