29話 告白と酷薄
逃げるなんて、できるわけがない。
そんなの、私でなくてもわかる。ゲゼルみたいに小狡い奴なら、なおさらわからないわけがない。なのにゲゼルはまるでそれが決まりごとのように話している。
「いいか、セレ。周りを油断させるために、大人しく言う事を聞いておけよ?お前は生意気な奴だから、変に従順だと怪しまれるだろうけどな」
「ねえ、ゲゼル」
「もう別にお前が色々覚える必要はないけど――まあ、後々俺のためになるって事なら、覚えてくるだけなら覚えてこいよ。俺以外に披露する事はないけどな」
「ゲゼルってば!」
『実践』のためにゲゼルと空いた部屋を使うが、そこでもゲゼルはこの調子だった。寝ぼけたような事を言っている。本気で言っているならそれはそれで目も当てられない。
けど、ゲゼルのこのどこか浮かれた様子は、『現実から目をそらしたいだけ』だとわかる。
これも目も当てられない。
「ゲゼル、馬鹿な事言ってないで」
「なんだよ、セレだってこれからの事を考えろよ。まあ、落ち着くまでは流石に苦労はさせるかもしれないけど、いったん落ち着きゃあ、後はもう――」
「ゲゼル!」
「……なんだよ」
なんだよ、ではない。わかっているくせに。だから、私の言う事を聞かず、言わせようともしないくせに。
「ゲゼルは、少し我慢すればいいだけじゃない。館で他の男相手に仕事をする私が嫌だっていうなら――あ、新しく入ってくる何も知らない娘奴隷を、そのたびに可愛がればいいでしょ?」
いいわけはない。
けど、そうやって割り切るしかない。
『ただ一人の人』は特別な人である事に変わりはない。恋人や夫や妻と限りなく近いとみる人もいるけど、『限りなく近い』だけで、同一ではない。
そもそも、『ただ一人の人』に『ただ一つの名』を授かる事例がまず少ない。まして、互いが互いの『ただ一人の人』なんて、前例はあるんだろうか。――そんな希少事例だから『運命』を感じただけだ。
あくまで『ただ一人の人』は『ただ一人の人』でしかない。
自分だけのものにできないのが気に食わないなんて言っても仕方ない事だ。
時折『ただ一つの名』を呼び合える。それだけでも、いいじゃないか。
「……それ、本気で言ってるんじゃないだろうな、セレ」
「ほ……本気だよ?だから言ってるんでしょうが」
本気なわけない。
明らかに不機嫌そうに『セレ』と呼ばれるのでさえ、こんなにも胸が揺さぶられるのに。
「そんな顔で物わかりのいい事言ったって、ああそうだな、なんて返事できるわけねえだろ?」
そうはっきり言ってもらえるのは嬉しい。でも、嬉しいと言えるわけがないんだ、私達は。口にするぐらいの自由はあっても、それを認めても。先にあるものは動かしようがない。
余計に虚しくなるだけだ。
「……何とか手を考える。別にお前は上客を何人も抱える娘奴隷じゃないんだ。俺だって、数いる監視役の中の一人だ。――この館を出る事ができるかどうか、それだけだ。俺達は、人手に手間に、まして金。そこまでかけて取り戻したい存在じゃないんだから。……逃げ出せさえすれば、きっとそれ以上は追われない」
準備や段取りは俺がやる。お前は俺の手を放さずについてくりゃいいんだよ。――歌物語のような事をゲゼルが言う。
それに目を輝かせて頷けるほど、私が子どもだったらよかったのに。
今のゲゼルに『正しい事』を言っても、それを聞き入れやしないだろう。私はあいまいな笑みだけを返した。
ゲゼルは苦々しい顔をした。それでも、逃げ出す算段を進めるようだった。完璧な計画が立ったら、私の気が変わるとでも思っているのだろうか。
「ゲゼル――」
「練習はいい。セレ、お前は俺の事だけ覚えてりゃいいんだ。客にお前が傅く必要なんてない。俺が、誰よりお前を良くしてやる」
ゲゼルが私に唇を重ねてくる。息をつく間を与えないぐらいの、深い口づけ。そのまま押し倒される。
「……っ、ぷは!ゲゼル、私は真面目に話を――」
「俺だって真面目に話をしてる!……セレ。お前だって館に出るのは嫌なんだろう?だったら逃げればいい。それだけの事だ。どうしてそれがわかんねえんだよ」
「できるはずのない事をいくら言われたって……」
「それを、やり遂げるんだよ。セレ。俺と逃げるのは嫌か?俺なんかとは」
少し前なら一も二もなく頷いていた。
けど……できるはずもない脱走の事はともかく、ゲゼルの事は――
「セレ。大丈夫だ。俺が、何とかする」
「なんとかって――」
「セレ」
耳元で、『ただ一つの名』を囁かれる。体が熱くなる。
「セレ、セレ、セレ……」
「狡い……っ!」
『ただ一つの名』をこんなに近くで、こんなに何度も囁かれたら。
「そうだ、セレ。いい子だ。俺の言う事を聞けばいいんだ。俺だって、無謀な事はしない。きちんと逃げ出せる確信が持てる手を準備する。だから、セレ。一緒に逃げような?な、セレ……」
ゲゼルは私に『セレ』と囁き続けながら、深く私を求め続けた。あるいは私を縛り付けたのか。
※※※
購入された娘奴隷は、館に来るまでにある程度『躾けられて』いる事が多い。そこでの地獄を思えば、館の地獄は生易しいと考えるのか、娘奴隷達は体力と気力があるのに比較的従順だ。
それでもやはり、来てすぐだと反抗心の強い娘奴隷もいるけど。
私は購入された娘奴隷ではない。
苦役奴隷であったのをゲゼルが『献上』した事により、娘奴隷となった。
まあ、ゲゼルに『躾』ではないが『味見』をされていたので、経過はそう変わらない。ともかく、館に入った当初はディアラン婆さんや古参の娘奴隷から、色々身の程を知るために色々と言われたのだ。くだらない事で折檻を受ける事もあったし、だらだらと説教や脅しを受けた。
その中で、『逃げ出そうなどと考えたらどうなるか』の話ももちろんあった。
それは苦役区画で苦役奴隷だった頃も言われていた事だったが。
……苦役奴隷は脱走する気力もないので、実行しようとするのは、購入されてすぐで体力や気力のある新人苦役奴隷ぐらいだった。もちろん、それを試みれば、ボロ雑巾のようになるまで、監視役達の鞭や棍棒の餌食にされた。運が良ければ命は助かるが、たいていまともな体ではなくなっている。どうあれ結局長く生きられた者はほぼいない。
娘奴隷に対しての脅しも似た感じだった。『過去にいた馬鹿で愚かな娘奴隷』の話をいくつも聞かされた。
「……うえ」
嫌な事を思い出してしまった。
娘奴隷『特有の』折檻の残酷さと詳細についてだ。
それを語られた時には、流石に私も気分が悪くなり、吐いた。どれほど想像力が逞しくても、想像でそこまで考える事は無理だろう。そして想像を超えるような事がなされてきたのだ、この旦那様の館でも。
ただ、最近はそこまで愚かな娘奴隷もいないらしい。
逃げるぐらいならばと、さっさと命を絶つ。
自ら命を絶った娘奴隷の後始末をした事は、私も何件かあった。皆が皆、割り切って生きていけるものではない。それでも、逃げて折檻を受けた娘奴隷の後始末をした事はない。
数年ぶりの事例になりたいわけがない。
それに――説明を受けたのが、娘奴隷である私だったからかもしれないが、だとしても。娘奴隷の脱走において、何かしらの協力者として引き込んでおかなければならないであろう『監視役がどうなったか』――それについての話は一切なかった。
しょせん娘奴隷は奴隷であり、社会において最底辺。監視役も似たようなものと言われていても、奴隷ではない。だから、娘奴隷のような扱いを受ける事は一切ない。
――不公平さはあるが、身分や扱いの違いがあるというのはそういう事だ。それならそれで……いいかどうかは別にして、ある種の納得はある。
けど。そうではない手が取られているとしたら?
語られない何かが行われているとしたら……?
「……今日は、座学の予定はないはずだがねえ?」
他の娘奴隷と話が終わったのを見計らって、ディアラン婆さんの詰め所に滑り込む。
「別に、世間話に来たって、いいでしょ」
「アンタの仕事はひと段落ついているかもしれないけど、こっちはまだこれからなんだよ。旦那様への報告に、細かい字を書いたり読んだりしなきゃいけないんだからね」
――旦那様への報告。
何を?ディアラン婆さんのいつもの仕事とはいえ、それが気になる。
気になったところで、私に字は読めない。多少は館の雑事や、ディアラン婆さんの座学の読み聞かせで覚えた……つもりだけど。ディアラン婆さんの糸みたいな字なんて読めるわけがない。案外、書けていないんじゃないだろうか。
けれどそこに、今後書かれかねない内容の事を考える。
「あのさ、婆さん……」
「なんだい」
なんと言えばいいだろうか。一緒に止めてほしい?言って止まるような奴だろうか、ゲゼルは。それに、下手な言い方をすれば、ゲゼルも私も、とんでもない事になる。逃げ出そうなんて、思う事すら本来だいそれた事だ。
私が唆した、なんて思われるんじゃないだろうか。そんなのたまったものじゃない。
「……アンタは、アタシの話をよく聞く、いい子だといいねえ」
「――!」
痩せて落ちくぼんでいる目が、大きく動いて私を見上げた。書いているペンの手が止まっている。
見定めているのではない。言い聞かせている目だった。
わかっているんだ。
別に何かを大きなヘマしたわけでなくても、ちょっとしたいつもと違う事や様子だけで。それはいつから?あるいは、仕込み中ならだれもが惑う、よくある話としてカマをかけているのか。
「なにを……」
「アタシはね。ゲゼルも可愛い若造だと思っていたんだよ」
明確に、ゲゼルの名が出された。
私はどんな顔をしていればいい?今、どんな顔をしている?
私がここに、決まった用件もないのに来るのは、娘奴隷同士のいざこざではなくゲゼル絡みだろうと思っているから。だから先手を打っただけ。そうだといい。
でも、違うだろう。
別に私はどうでもいい。ディアラン婆さんは、私の事が可愛いはずだ。幼く見えて、ちょっと生意気な感じが放っておけないはずだ。きっと甘く見てくれる。だから……気をつけなければならないのは、ゲゼルだ。
ゲゼルを、守らなければ。私しか、アイツを守ってやれない。
「物を知らないせいか、館だってのにえらく張り切って。アンタと一緒にいると二人して喧しいと思っていた。けどね、そう嫌でもなかったさ」
「……」
反意なんてない。逃げ出そうなんて、ゲゼルも本気で思ってない。現実を思い知れば、ゲゼルだって諦める。私が説得する。
ゲゼルの顔が思い出される。
ああ、あの馬鹿。どうして私の言う事なんて聞く気がないみたいな顔しか思い出せないんだ。私に初めて『ただ一つの名』を呼ばれた頃みたいな、しおらしい顔が思い出せればいいのに。
なんなら、今までだって一度も見た事がない、追い出される直前の迷惑客みたいに、顔の形がわからないほど腫れあがったゲゼルの顔を想像してしまう。
「旦那様にはこの館での事は、逐一、細部に至るまで、すべて。……報告している。この上アタシに不愉快な事まで報告させないでおくれね」
私達はまだ何もしていない。
そこに書かれるような事は、何も。
でも、書かれてしまえばおしまいだ。
逃げ出そうとした娘奴隷が、どれほど悲惨な扱いを受けたか。その恐ろしさより、一切触れられない『協力者達』がどうなったのか。そちらの方が恐ろしい。
拷問を受けた。殺された。それならそれで、そう伝わっていてくれればいいのに、何も無い。その不気味さが、恐怖をより先鋭化させていく。
嫌だ。ゲゼルに何かあるのは。私が痛い目を見るのだって嫌だけど。それよりも、ゲゼルがいなくなるのは嫌だ。
死んでほしいと思っていたのに。今だってあの時の事や、日々で許せない事はたくさんあるのに。それでも――『セレ』と。
私の『ただ一つの名』を呼んでくれる、『ただ一人の人』であるゲゼルを、奪われたくない。何かあるなら、私の手で。他の誰かに奪われたくはない。
私だって、ゲゼルの『ただ一人の人』なのだから。アイツが私のすべてを欲しがるのと同じで、私だって――アイツの全部がほしい。誰にもやりたくない。
「婆さん……」
「なんだい。こっちは忙しいんだよ。用がないならさっさと――」
「ごめんなさい……本気じゃないんだ。無理だってわかってる。でも……私、逃げようと思った」
「……」
「逃げられたらって、思ってた。だからだ。私がそう思ってたから。だから」
だからゲゼルはこんな無茶な事を考えている。
「馬鹿な事をする前に言ったから、許して……許してください。止めて……」
「……そうかい」
「止めて……」
無理だ。私では止められない。アイツは私を馬鹿にしている。弱くて何もできない、苦役奴隷の頃のままだと思っている。そのとおりだ。私自身には何もできない。
だって、隠すべきディアラン婆さんに助けを求めるしか、できないんだから。
「いっそ、二人で逃げて捕まった方が、楽だったかもしれないね」
報告のためのペンを置き、ディアラン婆さんは長い扇子を代わりに手に持っていた。そして、長机の上に置いてある、飴の入っている器をひっくり返した。それを手に持つと、もう一方の手で、持ち直した扇子の柄で打つ。
コーンともカーンとも聞こえた。あまり響かない硬質な音。
それに続いてディアラン婆さんはリズムを刻むように飴の器を叩いた。これは飴の器ではなかったんだ。これが本来の使用用途なのだと、私は気づいた。
そして、普段は酒と娘奴隷で寝とぼけたような顔をしている監視役達が、詰め所へと駆けつけた。
全員ではない。単純に駆けつけていないだけ、ではなさそうだ。監視役達の表情から、ここに不在の監視役達は同じ形相で、おそらく屋敷の出入り口などを封鎖するように持ち場についているのだろう――と察した。
「――セレ、お前、何を……!」
駆けつけた中にいたゲゼルは、ディアラン婆さんの前に私がいる事に表情を強張らせていた。
監視役達も、困惑している。
「……その不届きな小娘を捕らえな」
ディアラン婆さんの声が冷たく響いた。声はないが、監視役達の空気がざわめいている。ディアラン婆さんはそれを咎めず、追加の命令を出した。
「合わせて、その愚かな監視役もだ。……理由を説明する必要はないだろう?ねえ、ゲゼルや」
馬鹿な子達。ディアラン婆さんの呟きははっきりと聞こえたが、命令を取り下げる事はなかった。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
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