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ただ一つの名、ただ一人の人  作者: 神空うたう


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2話 何かを得たい監視役



 逃げ出したい。


 監視役が、私の方に歩いてくる。他の監視役達が、集めた奴隷達に水桶の水を次々浴びせているが、そのはね飛ぶ水も気にせずに。

 私の周囲にいた奴隷達も、不穏さを感じ取り、水を叩きつけられる方を選んだようだった。離れていく。


 逃げたい。

 けど、逃げたところですぐに捕まる。

 そうなったら『歯向かった』と酷い目に合うのは確実だ。この若い監視役が、奴隷の仕置きをどうするかは覚えていないが、普段の奴隷への扱いを見れば、他の監視役とそう変わらないだろう。


「おい、お前。――こういう時に『呼び名』すらないのは不便だが、まあいい。来い」

「やっ……!」


 こちらに触れたくはないようで、一瞬躊躇したようだが、多少はましと判断したのか、二の腕のあたりを掴まれる。


「おい、お前!何しているんだよ」


 奴隷の監視役の一人が、若い監視役の行動を咎めた。


「ああ?……休憩だよ、『休憩』」


 若い監視役が事もなげに答える。


「今でなくともいいだろう。それに――ああ、お前、『そういうの』がいいのか」


 その下卑たやり取りに、ぞわっと肌が粟立つ。顔を引きつらせて若い監視役を見る。薄笑いを浮かべていた。


 ああそうか。私もその時が来たのかと思った。


 奴隷達に行わせねばならない苦役のノルマがあるため、たいていは夜に行われるから、油断していた。監視役達は流行り病対策の名のもとに奴隷達を水責めするのが面白いらしく、若い監視役の別行動をあっさり許した。私なんかを連れて行く、この若い監視役の『悪趣味』を、後で酒の肴に笑うつもりなのだろうか。


 ※※※


 どこか隅ですまされるのかと思ったら、そのままどんどんと連れ出される。

 奴隷の苦役区画を抜ける。抜け出す気ももはや起きなくなっていたけど、死んでも苦役区画で焼かれるだけの私達奴隷にとって、区画を区切るこの扉は特別だった。永遠に遠い存在と思っていた扉は、滑りこそ悪かったが、あっけなく開かれた。


「えっ……?どこに」


 もしかしたら希望があるのかと、僅かに心が軽くなる。

 よくわからない若い監視役だが、もしかしたらこの男は、私を自由にしてくれるのだろうか。自由というものがいったい何なのか、よくわからないけれど。

 二の腕を乱暴に掴んだまま、ずんずんと前を歩く監視役を見上げた。私達とそう変わらない、荒れて薄汚れた顔立ちだけど、こうして見れば、賢そうかもしれない。他の監視役達より、優しいのかも――


「どこ、だって?……いいところだよ。天国だ」


 いや、違う。その表情に、優しさはなかった。下卑た欲が、透けて見えた。


 ※※※


 井戸……多分、これは井戸。苦役区画を抜けた先、建物の間のちょっとした広場に連れ出された。高い建物に囲まれているため、日はあまり差し込まない。それでも、見上げれば、空があった。建物に切り取られてはいたが、青い空が。穴倉のような苦役区画では、掘り開けられた隙間からしか見えない空が。……こうして空を目にすれば、あんなところで畑を作って、何が育つと考えているのか不思議でならない。


「おい、お前。これでしっかり体を洗え」


 若い監視役は何やら不思議な動きをしていたが、どうやら井戸から水を汲み上げていたらしい。干からびていない井戸からは、ちゃんと水が手に入るんだ……


「何してる。落ちるぞ。俺は体を洗えと言ったんだ。さっさとしろ」


 井戸の端に置かれていたたらいに、くみ上げた水を注いでいる。……水は手に入るようだけど、汲み上げるのは大変そうだった。


「体を……?」


 なんとなく、言っている事はわかる。汚れを落とせという事だ。先ほどのように水は叩きつけられずにすむのかと思っていると、汲み上げ桶を手にした若い監視役は、その桶の水をたらいにではなく、私の頭上で、ひっくり返した。


「ぎゃああ!?」

「もたもたしているからだ。さっさとその体に巻き付けているぼろきれで洗え」

「……!」

「なんだ?反抗するか?それとも、俺に丁寧に洗ってほしいのか?」


 反射的に睨みつけてしまったが、若い監視役はそれがかえって面白いとでもいうような感じだった。どう暴れたところで勝ち目がない事は、こっちだってわかっている。

 苦役区画で叩きつけられていた生ぬるい泥水に比べ、目も覚めるような涼やかな水を浴びた事で、いくらかどんよりした頭の霧が晴れた気がする。だから、この若い監視役の前で肌をさらすのが、何となく嫌だった。奴隷でも、羞恥はある。普段はそんな事にこだわっている場合ではないだけで。

 一対一で人と接する機会を得た事で、色々と思考が回り始めている。

 それは必ずしもいいものではないと、思い知ったが。


「……」


 若い監視役から背を向け、申し訳程度に身にまとっていたぼろきれをもはや『取り外す』感じで脱ぐと、それをたらいの水につけた。板のようになってしまっているぼろきれは、たらいの水に沈んだだけだった。布地に水をしみこませるように揉み込むと、それだけでたらいの水が濁った。


「うげ……!」


 若い監視役はそれだけで顔を顰めたが、私も驚きだった。普段は何もかもが汚らしかったから気にも留めていなかったが、私達は『こういうもの』なんだと、たらいの底が見えない濁った水で思い知る。

 ……そのまま、その布で、体を拭う。

 しばらく体全体を拭った後、恐る恐る若い監視役の方を見る。


「ふざけんな。それでどう体が洗えたっていうんだ」


 ……そう言われても仕方はない。きっと、たいして綺麗になってはいないのだろう。若い監視役はたらいをその場で傾けた。そして、水汲み桶に汲み置いていた水を入れ直す。


「おい、お前も自分で汲み上げてみろ」


 言われて、井戸に水汲み桶を下ろす。それを若い監視役がやったように引き上げればいいだけ――


「――っ!?」

「馬鹿!本当に落ちるぞ!?もっと……このあたりを持て。腕で引き上げようとするな。お前なら体重をかけて引き上げないと無理だ」


 言っている意味は半分もわからなかったが、井戸の中に落ちていった水汲み桶の事を思えば、落ちれば死ぬのは確実だと思った。即死は無くても、這い上がるなんて無理だ。


「俺が戻ってくるまで、体を洗っていろ。いいな?」


 若い監視役はそう言い置いて、苦役区画と反対の扉に出て行ってしまった。ガジャンと閉まった扉の向こうで鈍い音がしたので、鍵か何かがかけられたのだろう。……逃げ出せるのかもと思ったけれど、そうはいかないようだ。そもそも、あの扉の鍵がかかっていなかったところで、その先がどうなっているのか、私にはわからない。




 自由ともいえない、ひとときの自由。


 切り取られた空。

 右手側は白い壁の建物。左手側は、薄汚れた木の建物と禿げあがった山肌。……私がいた奴隷の苦役区画だ。右手側は――苦役区画にいた時に、他の奴隷達が言っていた、『旦那様の館』なのだろうか。

 私は多分生まれた時からあの苦役区画にいるから『外の世界』を知らない。だが、奴隷として購入されてきた大人の奴隷の中には、ある程度『外の世界』を知っている人もいた。

 旦那様が購入してきた男の奴隷は、全員苦役区画に放り込まれる。だが、時折苦役区画に届けられる女の奴隷は、本来その『旦那様の館』用なのだという。購入したが、その基準に満たなかった者、あるいは、館で使い物にならなくなったが死ななかった者が、苦役区画に落とされてくるらしい。

 あとは、そんな女達が産み落とした、私のような子。苦役区画にいる女は、そういう者達ぐらいだ。


 ……何やら、嫌な予感がする。どうあれ、奴隷に良い結末などないのだろう。


 それがわかっていても、とりあえず『命令』には従ってしまう。それが奴隷のサガだった。

 あるいは水が濁るのを目にした事で、今さらながらに我が身の不衛生を思い知ったからかもしれない。

 とりあえず、私はもたつきながら井戸で水を汲み、それで体を擦った。多めにたらいに水を汲んで、そのたらいに浸かって体をふやかしてもみる。体がひび割れてきたが、それらはすべて、汚れのようだった。爪の先を引っかけると、ぼろりと落ちた。


 そんな事を繰り返している間に、たらいの水の汚れる頻度もずいぶん減ってきた。

 綺麗に……なってきた気がする。肌の色が、変わったのではないかと思うほどだ。




 そう思っていたところで、ガジャンと音がした。白い建物側の扉が開かれる。

 あの若い監視役だった。

 一生体を洗い続けるだけでいいのにと思っていたが、やはりそれではすまないようだ。


「……へえ?」


 若い監視役は、私を見て、口の端をあげた。細められた目に、寒気を覚える。


「よしよし。多少はましになったみたいだな」


 そう言って、なにやら大きな深い鍋を慎重に運んできた。もうもうと湯気が立っている。熱湯だった。これの準備をしていたのか。

 ……拷問でも受けるのかと思ったが、若い監視役はその大鍋の半分ほどをたらいに注いだ。井戸から水をくみ上げてぬるま湯にする。

 そして、手元から何やら塊をよこしてきた。石鹸だ。それも、『人間用』の。……奴隷用のものではない。ふわりといい匂いがした。……ただ、あまりいい気分にはならなかった。


「それで洗え」


 そう言いながら、若い監視役は顔に巻き付けていた布を解いていく。酒盛りの時などに解いているのは見たが、ここまで間近で見た事はない。

 なるほど、確かに他の監視役からすれば多分若いとは感じられた。

 無精髭と根性の悪そうな目つきのせいで年かさにも見えるけど。何とも判断しづらい顔立ちだ。それでも、流石に私と同じぐらいなわけはないだろう。それなりに年上。髭も生えているし、確実に成人しているだろう。


「……なんだ。さっさとしろ」


 石鹸を泡立てる。泡立てた泡をぼろきれにつけると、まず、ぼろきれが綺麗になった。

 どうやらこのぼろきれは元々柔らかな黄色をしていて、花のような染め抜きが施されていたのだとわかった。私達奴隷にたまに与えられるわずかな石鹸で服を洗うなどないし、そもそも私達にまで回ってこないが、石鹸の威力を思い知る。

 しかし――奴隷用の石鹸はともかく、この『人間用』の石鹸は、すがすがしい匂いをさせている割に、嫌な感じしかしない。

 この石鹸を使う先になされる事を、私は知っているからだ。


「さっさと洗え。でもって、俺に寄越せ」


 十分泡立たせたので、石鹸を渡す。手が触れそうになって、慌てて引っ込める。向こうは気にしていないようだった。それよりも、小さくなった石鹸に不満があるようだった。……先に俺が使うんだったと若い監視役が顔を顰めている。

 奴隷の後に使うなんて、石鹸でも何でも嫌なのはわかるが、いい気はしない。


 向こうはそれで、手や顔、頭だけ洗っているようだった。『私と変わらず汚らしい』と思っていたが、石鹸を使って一度洗っても、向こうの水が濁るような事はなかった。




「……よしよし。やっぱりお前、ずいぶん上等だったな?」


 何から何まで洗い終わった私を眺めていた男は、伸ばされ放題で顔を覆っていた私の髪をすくい上げた。はっきりとあらわになった私の顔を見て、満足気に笑っている。


「お前、以前俺に年を答えたが、あれは嘘だな?」

「……!」


 そう、嘘だ。

 でも、それを答えれば『偽っていた』と、棍棒なり鞭なり――今それらは持ってはいないようだ。だとすれば拳あたりが飛んでくるだろう。だから、はいもいいえも答えない。『それこそが答えである』けど、それが奴隷なりの処世術だった。


「まあ、そのぐらいの年に見えるが、考えてみればあんなゴミみたいなもんを拾い食いするだけで、まともに育つわけがないんだ。……つまり本当は、『嘘をつかなきゃならない程度の年』って事だろ?違うか?」


 物心ついた時にはあの奴隷区画にいた。だから、はっきりしたところは、周囲にいた奴隷達からの話を組み合わせて程度でしかない。……その周囲の奴隷すら、苦役や監視役からの扱いでどんどん『入れ替わり』が起きていて、どれほど信用できるかわからない。そもそも、あそこでは日を数える事に意味なんてない。

 それでも、概算であっても、男の言うとおりだった。


「……どうせ、すぐに客前に出すものでもないだろうし。そう考えればどうでもいい。――なあ、お前」


 若い監視役が、私をじっと見つめた。人から、こんなに間近で見つめられた事なんて、初めてかもしれない。薄い灰がかった酷薄な瞳が、またわずかに細められた。


「このまま『献上』されて、いくらか綺麗に着飾って、『旦那様達から大事に』されたいか?それとも、少しばかり多めに飯が食える、『俺から大事に』されたいか?『選ばせてやる』よ」


 ――それを選択肢だと、自由を与えたと思っていそうな表情が、忌々しかった。


「『献上』されたってどうせろくなもんじゃねえぜ?お前はこれからますますいい女になる。そうしたら『ご贔屓にされて』すぐに使い潰されるだけだ。それなら、俺に大事にされた方がいいだろ?ん?」


 どっちも嫌だ。

 選択肢なんて出して選ばせたところで、どちらも地獄じゃないか。


「苦役区画も、上手くやりゃあそれほど悪いところじゃない。わかるだろ?」

「……」


 監視役に上手く取り入っている奴隷はいる。

 食事をほんの一かけら二かけら多めに与えてもらえる程度だが、その一かけら二かけらが命を決める事がある。単純に食べて命を長らえるだけでなく、それをさらに周囲の奴隷に与える事で、わずかな間、我が世の春を得ている者が。けれど、その代償は大きい。結局他の奴隷達から僻みを受け、身の破滅にもなり得る。

 監視役達の気まぐれな情けや優しさに見せかけた、ただの余興に振り回されるのはごめんだ。しかし、『旦那様の館』から落とされてきた女達が、言葉少なに語る話を思い返しても、それは種類の違う地獄でしかない。


「……」


 どういうわけか、この若い監視役は私を気に入っているようだ。どうせ長生きできないなら、飢えを感じなくてすむ日々を味わえるだけでも――


「ああ、それに。お前に可愛い、いい『呼び名』も与えてやる。そうだなあ――」

「――いやだ!」


 反射的に、口にしていた。

 反射的ではあったが、でも、たとえ深く考えていても、結論は同じだった。


「私に、『呼び名』なんて寄越すな!」

「なん……だよ。じゃあ何か?お前、『ただ一つの名』でも持っているってのか?」

「――そうじゃないけど!」


 持てていれば、それはどれだけ支えになりえただろう。きっとこの若い監視役達ですら持ちえないものを、奴隷の私が得ていたならば。


 『ただ一人の人』から『ただ一つの名』を授けられていたなら。


 ……そんな都合のいい話はなかった。

 だからといって、誰でもいいから、何でもいいからと適当な『呼び名』で満足したいわけではなかった。たとえ死体に『165の28』と『呼び名』とすら言えないものを、識別のためだけにつけられて終わるとしても。


「アンタに『呼び名』を与えられるような生き方をするぐらいなら――『献上』されるのでいい!」


 意地でしかなかった。けど、何もない私にも、それだけはあった。

 言ってやった。

 少しすがすがしく、晴れ晴れしい気持ちだった。けれど、そんな気持ちも、一瞬で消え去る。


「……ああ、そうかよ。……お前を特別可愛がってやるつもりだったんだがな?」


 若い監視役は、そう言って私の腕を掴んだ。


「『旦那様』に『献上』するからには、お前がちゃんと『使い物』になるのか、見ておかないとならないからな?こっちだって、おかしなものを差し出せば、命はないんだ」

「それって――」

「どうする?今ならまだ、誰に大事にされたいか、選び直させてやるぜ?」

「……」


 カタカタと、歯の根が合わなくなる。建物の陰で日があまり射さないというのもある。ぬるま湯が覚めてしまったのもある。けれどそれ以上の恐ろしさが、震えがある。


「なあ。俺に可愛がられてりゃいいだろ?お前のために、いい『呼び名』を考えているんだ。な?」


 それは――それだけは――


「――いやだ!」


 ――あとの事は、もう思い返したくもない。




 初回なので一話、二話、同時更新!

 ご覧いただいたとおり、ダークめ重めマシマシなお話です。


※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!

  以降は毎日一話ずつ更新します。


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