16話 貴女はセレ
「まったく、アンタって子は……」
色々言われながらも、アドゥリーの髪に櫛を入れる。昨夜アドゥリーの予約を放棄したのだから、アドゥリーの機嫌取りをせねばならないのは当然だった。
……というか、機嫌を取っているふりでもしておかないと、喚いてうるさい。
丁寧に髪を梳り続ける事で機嫌が戻るのなら、楽なものだ。
それに、何も考えたくなかった。
くだんの上客からは昨夜、美しさについての甘美な詩を贈られたとアドゥリーは得意気に話している。
詩を贈られた事は自慢しているが、その内容までは覚えていないようだった。まあ、二人の間でそれでよしとされているなら、別に向こうもアドゥリーがろくに覚えていなくてもいいんだろう。その上客だって、他の『館』で『呼び名』だけ挿げ替えた詩を、別の娘奴隷に贈っているのかもしれないし。
だとしても、その上客にとって――懐具合と相談した結果かもしれないが、この館ではアドゥリーこそが一番なのだろう。
こんな、ちょっとした事でキャンキャン喚くような女のどこがいいのかと思うが、その上客はそこがいいのだろう。奇特な人間だ。
別に、アドゥリーに限らない。
娘奴隷が苦役区画に落とされたり、他に売り流されたりしないでこの館に今日もいるという事は、何かしら客がついているという事だ。
誰かに必要とされているという事だ。
……その『必要』が、どういう意味かは多岐にわたるとしても。
客にだけでなく、たとえば娘奴隷同士でも。
リャーラは相変わらず顔が広く、娘奴隷同士の緩衝材になっている。今も誰かに連れられて、館をうろついているか、話のネタでも探しているのだろう。
そのリャーラが可愛がっていた新人はしばらく前に仕込みが終わり、共に館に出ている。リャーラが『リャーラ』という『呼び名』を先輩の娘奴隷から貰ったように、サタネテという『呼び名』を与えられて。早くも館の看板に昇りつめそうだ。その手練手管について、他の娘奴隷達と共有する事で、やっかみから逃れようとしている。
別に、そんなのどうでもいいのに。慣れ合って、馬鹿みたい。
……ずっと私は、まわりがどうあれ自分一人で生きていこうとしていた。なのに、なんだかこの頃おかしい。
苦役奴隷の頃は、生きるのに――あるいは、死を迎える事に精一杯で、何かを考える余裕なんてほとんどなかった。けれど、娘奴隷になってからは環境が変わった。仕事はあれど、起きている間中延々と、なんて事はない。食べる事も、しっかり休む事もできるようになった。時間と余裕ができて、色々考える事が増えた。
「聞いたわよ。ディアラン婆さんから。まあ、慣れるまでは大変でしょうけど、アンタはその辺サバけてるから大丈夫でしょ」
「――」
一瞬、呼吸が上手くできなかった。
「いきなり『館』に出される事は無いから、安心なさい。そのあたり、他の館よりこの旦那様の館は親切よ。それに、仕込みが始まったら、覚えた事を試すためにも、もっと他の監視役で『慣れて』おきなさい。……エイセダは駄目よ。アンタじゃ店に出られなくされるから。そうねえ、ゼベギアか――顔で選ぶならフィオノーあたりが、いいかしらね?」
アドゥリーの髪を梳く手が止まりそうになったので、意識的に手を動かそうとする。
「何様のつもりか、ゲゼルが色々やってるみたいだけど」
ゲゼル、の言葉に櫛を持つ手が止まった。駄目だ。何故、動揺するの?
「館に寄生するしかない監視役が、何を勘違いしているんだか」
アドゥリーがふん、と鼻を鳴らす。
「囲うような事をしたら、館に出るようになった時にアンタが苦労するのにね。アンタだって嫌でしょう?『ゲゼル専属』みたいな今の状況は」
アドゥリーだってゲゼルを押しつけてきた中の一人じゃないのか。でも、言うとおりだ。良くはない。どうしてあんな奴のお守りを押しつけられなければならないのかといつも思っている。そうだとも。
「たいていの男は、ゲゼルよりましよ。だから――なに?怖いの?手が止まってるわよ?アンタも意外と可愛いところがあるのね?」
おずおずと、サタネテが声をかける。
「アドゥリー姐さん……あの。仕込み前の助言なのはわかります。私の時もお話をしていただきましたけど、その……えーと……い、一度に話しても……頭に入らないと……」
私の様子を窺っている。別に、私は、サタネテの助けがいるような状態じゃない。
「なによサタネテ。この子はいつも生意気なすまし顔だけど、苦役区画あがりだとしても物覚えはいいし、自分で考えられる子でしょ。……愛想は最悪だけどね。客だけでなく先輩に愛想を振ったっていいでしょ。あ、でも、愛想を振ったり、媚びを売ったりする相手を間違えちゃ駄目よ?」
「……そんな事までしたくない」
普段なら私が口答えをすれば喧々と言い返してくるアドゥリーは、整えられた眉を軽くあげるだけだった。
「じゃあ、ゲゼルは何なの?媚びでも愛想でもないなら?」
「アイツが、勝手に――」
「あらそう。向こうが?あぁら、そう!?じゃあ、アンタが上手く垂らしこんだのね?だとしたら、たいしたもんよ。苦役区画でも随分仲良くやっていたのかしら?わざわざアンタ恋しさに追っかけて来たって事?」
順番はそうだが、娘奴隷達が噂するような清らかさも誠実さも、あの男にはない。アイツは私を苦役奴隷から解放するのではなく、ただ娘奴隷へと挿げ替えただけだ。自分が苦役区画の監視役から脱する手土産とするために。
本当に、いったいゲゼルは何をどう触れ回ったのだろうか。
「あんな奴、関係ない!一緒にしないで!」
「な……何よ。アンタ、誰に向かって……」
「あんな奴……あんな奴……!」
なんなの、アイツ。
いつも勝手で、自分のために、都合のいい存在だと思っている私を振り回す。
私が求めてもいない『呼び名』を勝手につけようとして、私に『セレ』という『ただ一つの名』を授ける。『ただ一人の人』になってしまったのだけは、アイツの誤算かもしれない。そして結局、『ただ一人の人』として、私を庇護する事もなく、勝手に与えた『ただ一つの名』を取り上げようとした。私には過ぎたものだって。
ゲゼルが私に授けた『セレ』を。
――飴を、何も問わずに一人で食べるような、身勝手極まりない男なんだ。二人で食べるつもりで、ディアラン婆さんに怒られないかドキドキしながら持って帰ったのに。
奪えるわけなんてない。でも、それでももしアイツが奪ったら、どうすればいいの?呼ばれるたびにくすぐったさのあったあの気持ちは、もう味わえないの?『セレ』と呼んでくれるのは、ゲゼルだけなのに。
「なんなのよ、この子……まあいいわ。夕方には髪を結い直しなさいよ。――サタネテ。髪用の香油を準備して。リャーラはどこに行ったの?ホント、落ち着きがないわねえ」
別に私は『あの子』や『この子』でいい。『苦役区画あがり』?事実だもの。好きに呼べばいい。だって私には『ただ一つの名』があるもの。この世の中で、『ただ一つの名』を持てる人間が、どれだけいる?どれだけの人が『ただ一つの名』を呼んで――
「……」
ぽたりと――涙が。
なんで?
別にいいんだ。『セレ』と呼ばれなくても、私は『セレ』なんだから。私だけが知っていればいい。
ゲゼルが呼んでくれなくても。
ゲゼルが私をセレと呼ばなくなるのなら、なおさら他の人に呼ばせたくない。
誰かをあてにしたって仕方ない。そう思うのに――
ぐっと力を込めて涙を拭っても、袖がじんわりと冷たくなるだけ。拭っても拭っても、涙は止まらない。やだ。なんなの?なんで?ゲゼルの事なんかで、動揺したくない。
夢を思い出す。
あれは夢だったけど、きっとその時を迎えたら――ゲゼルはきっと、ああなる。
『ただ一人の人』に出会うなんて、奇跡のはずだ。けど、何故だろう、アイツはその奇跡を手にしてしまう気がする。自分で何を努力するでも、自分の何を犠牲にするでもなく。――そして、私を捨て去るんだ。
『ただ一人の人』から『ただ一つの名』を呼んでもらう幸せを理解したうえで。ゲゼルは自分の幸せだけしか考えないから。
アイツは、私に『ただ一つの名』だけを与えて。
それだけだ。
別にゲゼルに『セレ』と呼んでもらえなくなったって。いいんだ。いいはず。あんな奴に関わられ続ける方が地獄じゃないか。
苦役区画も旦那様の館も地獄で。ゲゼルとかかわり続けるのも全部、何もかも地獄。
それに、『ただ一人の人』から『ただ一つの名』を授けられない限り、人は『呼び名』で生きていく。奴隷なんて、『呼び名』すら与えられずに生きていく事が多い。死んで何もかもが終わってやっと、識別のために通し番号のような物だけ与えられる。
地獄も名無しも。どちらも慣れたものだった。
なのに――
ゲゼルに『セレ』と、呼ばれた。
『ただ一つの名』を。その瞬間だけ、地獄のはずの世界が華やいだ。嫌な奴のはずなのに、それでもゲゼルと過ごすその瞬間は幸せだった。
それを、知ってしまった。知らないままでいればよかった。知ってしまってから取り上げられる事がどれほど残酷か。誰も知らないんだ。私の事を、わかってくれないんだ。
「……う。サタネテ、何とかして。煩わしいったらないわ」
「な、何とかって……!?り、リャーラさん、早く帰って来てええ……!?」
そこに、タイミングよくリャーラが帰ってくる。
サタネテは豊満な体で細身なリャーラに縋りついている。リャーラは突然の事なのに、よしよし、どうした―?などと軽く答えている。ただ、いつもほどはちきれんばかりの笑顔でもない。少し服が乱れているので、監視役の誰かを相手してやっていたのだろう。
「リャーラさん、実は――」
「その苦役区画あがりの名無しを、何とかして頂戴」
「え?あー、そうだ。ねえ貴女、聞いて!?もうほんっとゲゼルの奴最悪で――」
……駄目だ。タイミング、よくなかった。
涙を拭うだけでどうにか耐えているつもりだったのに。
別に監視役達が娘奴隷を『使う』のは、いつもの事。ゲゼルもご多分に漏れない。娘奴隷のほとんどから悪評価をつけられる程度に、ゲゼルは娘奴隷達と関係を持っていた。それは私も知っている。
でも、今、そんな事を聞きたくはなかった。
「もう……やだああ……」
「ええっ!?ちょっ……!?」
「リャーラさん、今ちょうど、アドゥリー姐さんとこちらの先輩が、ゲゼルさん関係で揉めてて……」
「ちょっと、やめなさいよサタネテ!?私がこの子とゲゼルなんかを取り合ってるみたいに聞こえるじゃないの!まだ館に上がるどころか、仕込みも始まってない、『呼び名』すらない子となんて――」
うるさい、うるさい。
勝手な事を言うな。私は違うんだ。アンタ達が思っているような事なんて、何も無いんだ。
ゲゼルなんて関係ない。
『呼び名』は無いけど、何も無い訳じゃない。
「ううう……あるもん。私、『呼び名』なんかよりいいものが……皆より、ずっといい、『ただ一つの名』を、持ってるんだから……!」
その言葉に、三人が息を飲んだのが感じられた。最初に口を開いたのは、アドゥリーだった。
「アンタねえ、見栄を張りたいにしたって――」
「アドゥリー姐さんっ……!ここは、ここは話を合わせてあげた方が……!」
「あ、あのね、ゲゼルの件は置いといて、『呼び名』については意地悪して付けなかったわけじゃないのよ?ただ、ほら。貴女、あまり私達につけてほしくなさそうだったし、それならディアラン婆ちゃんにつけてもらう方が、角が立たないかなって」
「そうです……何ならいっそ、最初のお客さんにつけていただいてもと。で、ですから……!」
誰も信じてない。
私は、『呼び名』すらつけてもらえない子だと思われているから。
でも違う。私は誰でもない子じゃない。あの子じゃない。その子でもない。苦役区画あがりなんて、『呼び名』にもならない。私にはあるんだ。あの馬鹿な『ただ一人の人』から授けられてしまった――あの馬鹿が考えたとは思えない、素敵な『ただ一つの名』が!
「ほんとうだもん、私、私は――『セレ』なのっ……!」
……もう、ゲゼルは呼びたがらない、私の『ただ一つの名』が。
泣きじゃくりながら口にした途端、三人が顔を見合わせた。
「……『セレ』……!?」
これでもまだ信じないのか。証明するものは何も無いけれど。でも私は『セレ』なんだ。
三人は顔を見合わせ、大きく目を見開いていた。再度、『セレ』と、こわごわ口にする。そしてまた、確かめるように。私の顔を見ながら。
「……ルォウレンさんと、同じ感じがします。ぽかぽかというか、わくわくというか……」
ルォウレンという『前例』があるからか、動揺しつつも、それは意外なほどあっさりと受け入れているようだった。
「そうよ……この子は『セレ』だわ。……苦役区画あがりのセレ。セレ……そうよ、これほどしっくり腑に落ちる名前は無い。どうして今まで考えつかなかったのかしら。別に、それほど珍しい言葉でもないのに」
「だとしても、どなたが……?」
サタネテの言葉に、察しが悪いなとリャーラが振り返った。
「そんなの、決まってるじゃない。この子――セレに授けるなら、それはゲゼルだよ。アイツ以外に、誰がいるの?」
ルォウレンの話を思い返す限り、『ただ一つの名』授ける『ただ一人の人』は、それまでやそれからのかかわりの深さはまったく関係ない。ルォウレンは、街ですれ違っただけの旅人がそうだった。
それでも――リャーラの思い込みが強いからというのはあるかもしれない。けど、そう口にしてアドゥリーとサタネテが納得できるほど、周囲は私達の仲を完全に勘違いしているようだった。
……それとも、本当に、私達はそう見えていたの?
だったらなおさら……ゲゼルが私にした様々な仕打ちが許せない。皆が思うような事は、何一つない。アイツはただ私を、自分に都合のいいおもちゃのようにしか扱ってこなかったんだから。
そんな奴だとわかっているのに――
アイツは勝手に授けて、勝手に奪おうとした。奴隷風情が『ただ一つの名』を持つなんて過ぎた事だと、それだけの理由で。
涙を止める事は――無理だった。
ともかくこれで『セレ』の名は、周知される事になりそうです。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
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