15話 抗えないもの
薄ら笑い。こちらを馬鹿にしたような。とことん腹の立つあの男。
せめて私がアイツより背が高ければ、見下ろして笑ってやるのに。……いや、ゲゼルはたとえ見下ろされたところで『なんだよ、それがどうした?』と笑っていそうだ。容易に想像がつく。
ぎっと睨もうと見上げれば、ゲゼルは薄ら笑いのまま、肩をすくめた。きっとまた、こちらの癇に障る事を言ってくるのだろうと構える。
『どうした、セレ。ご機嫌な顔じゃねえか』こちらを煽るように唇が動いた。
――あれ?
今、喋ったよね?『どうしたセレ、ご機嫌な顔じゃねえか』って。
上手く聞き取れなかった。いや、別に腹の立つ言葉なんて、聞こえなくてもいいけど。でも、『セレ』と、私の『ただ一つの名』を呼ぶ声だけは聞き落としたくない。
あれ、どうしたんだろう、私。耳……おかしくなったのかな?
ゲゼルは私の様子など気にせずいつものように私を馬鹿にするような事でも言おうとさらに口を開きかけ――
そこでふいと、視線を私から逸らせた。
まるで、誰かに呼ばれたように。
私もゲゼルの視線の先を見る。
『誰か』がいた。
誰だろう。むしろ、『何』だろう。
それは、ぼんやりとした、雲のようだった。空に浮かぶ、雲。いや、ずっと薄い――煙や霧みたいでもある。ともかく、不確かなそれ。『何か』としか思えないそれは、でも、『誰か』ではあると思った。人だ。
でも……誰?わからない。
ゲゼルを見る。監視役の誰か?それとも娘奴隷だっただろうか。知ってる?
いくら私でも、この『旦那様の屋敷』の娘奴隷になって結構経つ。たいていの人間は、『呼び名』はともかく、見た事ぐらいはあるつもりだ。
――いや、そもそもそれは、顔どころか、姿も曖昧だった。
薄雲のようなものが、渡り廊下の風を受け、ふよふよふやふや揺れる。背が高いのか、低いのか。若いのか老いているのか。そもそも、男か女かもよくわからない。
ゲゼルも同様に、首を傾げているようだった。
その朝霧のような希薄な存在の、一部が裂けた。口だ。わずかにその位置が、人の唇の形を成す。それでも位置は落ち着きなくゆったりと動き、口元なんて年齢や性別が如実に出る場所のはずなのに、よくわからない。
「――」
――唇が、動いた。
何を言ったのかわからない。それでも私は、その瞬間に血が滾るように感じた。凍てつきすぎて、熱い。
瞬間的に、ゲゼルに注意を戻す。
ゲゼルは目を大きく見開き――そして、笑った。
泣き出しそうに、でも、輝かんばかりの笑顔だった。
なんだそれ。
どうしてそんな顔をするんだ、気持ちの悪い。
やめろ。やめて。
そんな表情を浮かべたくなる気持ちを、私は知っている。薄霧を見る。また、霧の裂けた場所が、唇が動いた。
呼んだ。ゲゼルを。それも、ただ呼んだのではない。
わかる。
あの霧は、ゲゼルを――ゲゼルの『ただ一つの名』で、呼んだ。
だから、ゲゼルはこんな表情を浮かべている。
何だよ、それ。気持ち悪い。やめてよ。
私も、ゲゼルに呼ばれた時にこんな顔になっていたのだろうか。いや、違う。私はもっと絶望していたはずだ。だって、私の『ただ一つの名』を呼んだのが、ゲゼルだったから。『ただ一人の人』に出会えるのは、とてつもない幸運で奇跡のはずなのに、それがゲゼルだったんだから。
でも、『ただ一人の人』がゲゼルのような人間でなければ――本来、人はそのような喜びの表情を浮かべるのか。
普段のゲゼルでは決して見せない表情だった。私が初めて見る顔だった。
……何それ、気持ち悪い。馬鹿みたい。
笑ってやろうと口を緩めたつもりなのに、カタカタと歯が打ち鳴らされる。苦役区画で、飢えと夜の寒さに凍えていた時のように。ただ、顎は小刻みに動くのに、響くはずの歯の鳴る音が聞こえない。
音がしない。聞こえない。
ゲゼルの『ただ一つの名』も、わからない。
ゲゼルはもうまるきり私から、注意を逸らしていた。私がいる事など、忘れている。
霧の口元が動く。ゲゼルを、『ただ一つの名』で呼んでいる。霧の口元だけでなく、輪郭が動く。手が伸ばされている。ゲゼルに向かって。
ゲゼルは小さく頷くと、足を一歩踏み出した。
どこへ行くの!?アンタの『ただ一人の人』の元に?アイツが呼ぶから!?
自分の『ただ一つの名』を呼ばれた時の、幸せで、何も抗えない感覚はわかる。
だって、私でもゲゼルを拒絶しきれないぐらいだ。
あの『ただ一人の人』が何者であれ、ゲゼルみたいな馬鹿な奴、抗えるわけもない。……抗う理由もない。
どこに行くの。冗談じゃない。アンタをあんな奴の元になんて、やるものか。
口を動かすが、自分の声も聞こえない。声が出ていないせいなのか、聞こえないだけなのかもわからない。どちらにせよ、ゲゼルはさっさと歩みを進める。
私は駆け寄って引きとめる。
ゲゼルが私の方を見た。――けれどいつもの腹の立つ舌打ちが返ってきた。音は聞こえないが、わかる。
そして、煩わしそうに私の手を振り払った。私は力いっぱい袖を引く。体重をかける。すると、ゲゼルは何の躊躇もなく、私を突き飛ばした。尻もちをつく。
いったい!何すんの!
文句の声は空気を震わせなかった。
やだ。なんでよ。
ゲゼル、アンタは私の『ただ一人の人』でもあるでしょうが。私を『セレ』と呼ぶ事ぐらいしかしてくれない。私を庇護も加護もしない――それどころか、傷つけるだけの男だけど。
なのにアンタは自分が『ただ一人の人』を得たからって、自分は守ってもらおうっていうの?庇護と加護を受けるって?何その身勝手!冗談じゃない!
何度止めようとしても、そのたびに振り払われる。
目の前の霧は、ゲゼルを呼び続ける。間違いなく、『ただ一つの名』で。
どうして、ゲゼルの『ただ一つの名』が聞こえないの!?私にそれがわかれば――ああ、でも駄目だ。『ただ一つの名』は、呼ぶ側も、呼ばれる側も、心を温かくする。心地よい。嬉しい。
それでも、『ただ一人の人』から呼ばれる喜びには勝てない。私が自分自身を『セレ』と呼んでも、ゲゼルから『セレ』とたった一言、からかうように呼ばれた時の嬉しさや心強さにはかなわない。
あの霧が、ゲゼルの『ただ一人の人』が、ゲゼルを『ただ一つの名』で呼んで求めれば、誰もそれにかなわない。何それ、そんなの狡い。
せめて、私にゲゼルの『ただ一つの名』がわかれば。
その歩みを止める事ができるかもしれない。だって――だって、私だもの。私なら、きっと。ほんの一瞬ぐらいは。
でも、あの霧はひっきりなしに唇を動かしているのに、吐息ひとつ聞こえない。
わからない。ゲゼルの『ただ一つの名』が。
私には、あの馬鹿の事をゲゼルとしか呼べない。だって私は、ゲゼルの『ただ一つの名』が聞こえないんだもの。ゲゼルはゲゼルなんだもの。
……あの霧は呼んでいるのに。酷い。狡い。
いやだ。行くな。なんでアンタ一人だけ、いい思いができるんだ。
私だって『ただ一つの名』を持っているのに。『ただ一人の人』がいるのに。アンタがいるのに。
無様に足元に縋りつく。ゲゼルの無駄に長い足が、私を蹴り飛ばした。……ほんっと、容赦も何もない、痛い。痛いよ。涙で視界が滲んだ。
――そこで、うずくまっていた私が引き起こされる。
ゲゼルめ、『軽すぎて、思った以上に飛んだな?』とか、悪びれもせずに言うつもりか。顔をひっかいてやろうか。遅いんだよ、馬鹿。
そう思って、痛みに顔を歪ませたまま、顔を上げる。
……ゲゼルじゃなかった。ディアラン婆さんだ。……え?
見れば、ゲゼルは霧の元にいた。見た事もないような甘やかな表情を浮かべ、その足元に跪き、それから霧の手を取っていた。
……ディアラン婆さん、ごめん、後にして。私はとりあえずあの調子に乗ったゲゼルを――
聞こえるのかわからないけど、私はそう口を動かしてゲゼルの方に向かおうとした。
しかし、ディアラン婆さんは、ディアラン婆さんとは思えないほどの力で、それを止めた。手がびくともしない。ゲゼルの元に、駆けつけられない。
ちょっと。やめてよ。離してよ。お説教なら後で聞くから。
年寄り相手に手なんてあげたくない。
そう思うのに、ディアラン婆さんはいつものへの字口ではあるものの、人形のように生気のない顔で、びくともしない。怖い。
私の腕を掴んでいる指を振りほどくのは無理と判断し、指を一本ずつ引き剥がそうとする。けど――どういう事?腕に食い込んでいるかと思うほど、動かない。ディアラン婆さんの指一本すら、だなんて!?
逆に、ディアラン婆さんはしようのない子だねと言わんばかりに腕を引いた。
何と、それだけで私の体が引っ張られる。嘘でしょ!?
確かにディアラン婆さんはいざという時とんでもない馬力を出してくるけど、これはそういう類ではない。なにこれ。
どういう事、どういうつもり?そう尋ねようと顔をあげると――ふわりと、嫌な甘い香りがした。
館ではむしろなじみ深い、化粧の匂いだ。それに意識がいくと、それは私自身からしているのに気づく。
作業の邪魔になるから、私は化粧なんてしない。
『館』に出るわけでもないし、ディアラン婆さんや『館』に出ている娘奴隷達が、もったいないと使わせないからだ。化粧に興味のある新人娘奴隷は、上手く取り入って化粧の練習をしているようだけど。
その化粧の匂いが、どうして私から?
そう思って自分を見れば、作業がしやすい簡素な服ではなく、きらびやかな衣装を身にまとっていた。……アドゥリー達、『旦那様の館』に出て仕事をする娘奴隷のような格好だ。
……え?なんで?
ディアラン婆さんを見る。曲がり始めた背のままに、私を引っ張り続ける。嫌な感じがして、行きたくないと足を踏ん張るけれど、どれほど床を磨き上げてもこうはならないだろうと思うほど、足が滑って、引きずられる。
ディアラン婆さんの向かう先には、娘奴隷達がいた。
今の私と同じように美しく化粧をして、薄衣のような衣装を身にまとって、豪奢に髪を結っている。
いやだ。嫌だ。嫌だ!
……ああそうか。これは夢か。そうだ、夢だ。
そうなんだ。だから、違うんだ。嫌だ。行きたくない。そっちは嫌。
ディアラン婆さん、やめて。
これは夢だから。早く覚めて。いや。私は行きたくない。したくない。まだ早い。あんな事、嫌だ。ゲゼルでさえ嫌なのに。ゲゼル以外に、ゲゼルのような事をされるの?
わかってる。娘奴隷になったなら、いずれはそうなるって。私はわかっている。子どものような事を言う気はない。
でも、それは今じゃないはずだ。
――私は、引きずられながら、必死に体を逸らせる。
ゲゼル!止めて!アンタは私の『ただ一人の人』なんでしょう!?私を害するものから、私を守る存在なんじゃないの!?
ゲゼルは霧と戯れていた。笑っている。私の事なんて見ずに。自分だけ、守られている。アイツだけ、大切にされている。
その霧は――私がもうそこに辿り着けないとわかると、ぶわっとその霧を散らした。そこにいたのは私だ。こんな化粧もせず、きらびやかな衣装も着ていない、いつもの私。今までの私。
……私のフリをして、『ただ一人の人』として、ゲゼルに『ただ一つの名』を囁いている。
――なんて悪趣味な!
ふざけるな!なんでよ!どうして!
娘奴隷達は、笑って私を迎え入れた。
嫌だ。私は一緒になりたくない。――なら、苦役奴隷に戻る?あの飢えや暴力、無気力や絶望を味わうの?ああ……ここは結局、どこも地獄でしかないんだ。
手が伸びてくる。やだ。嫌だ。
これは夢だ。わかってる。
そうでしょう?そうだよね?夢だ。夢のはず。だから覚めて。早く覚めて、いや、いやだ――
※※※
「ああああ!アドゥリー姐さん!?」
「苦役区画あがり!グズな子!いつまで寝てるの!アンタまさか、今日もサボろうっていうんじゃないでしょうね!?」
朝にはまったく優しくない、アドゥリーの甲高い声。
いつもならそれを止めるサタネテに心の中で感謝をするところだが、今日はアドゥリーの方に感謝をする。心の中だけで。起き抜けであるとか以前に、声が出ない。
「あ、アドゥリー姐さんも、そんなに怒らないであげてよ。サタネテ、アドゥリー姐さんを――上手い事やって」
ものすごくあいまいな指示をリャーラは出しているが、サタネテは器用なので上手くやってくれる事だろう。
「……うなされてたけど、大丈夫?別にもう一日ぐらい――」
「……別に。いい。大丈夫」
ああ、声が出る。ちゃんとまわりの声も聞こえている。
夢だ。夢だった。当たり前だ。なのに……どうして私は、あんなに。
努めて何でもない風にふるまう。……涙の痕が残っていては、やせ我慢にしか見えなかっただろうけど。――でも、気づかわれるのも、可哀想がられるのも、嫌だった。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
毎日一話ずつ更新中。
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