13話 どれも私のものじゃない
「俺に、返せ」
ゲゼルはいつもの薄ら笑いではなく、眉間に皺を寄せて口にした。
館の外れ、渡り廊下から流れてくる心地よいはずの風が、酷くぬるく感じた。
「か……返せ、って?」
苦役区画にいた頃を思えば、『旦那様の館』は、同じ地獄ではあっても、天国に近いかもしれない。『ここにいる以上は』という但し書き付きだが。ここを出る力は私には――このゲゼルにもない。生きるだけなら不自由はしないが、ここにあるものはすべて旦那様のもの。ここを離れれば、すべてを失う。だからこの地獄から出られない。
私もゲゼルも何も持ちえない。持っていない。
いや、私は持っている。何も無かったはずの私は。ここの誰より素晴らしいものを、ここで得た。コイツから。
押しつけられたものだけど、押しつけられた以上は私のもので――そして、その押しつけられたものは、かけがえのない光を放っていた。『セレ』――その名の示す、かつてあった、今はない星の光のように。
「名だ。『セレ』を返せ。俺がお前に授けた、『ただ一つの名』を」
「――!?」
な……
「なに……言ってるの?」
「どうせ、お前が後生大事に持ってるだけのものなんだろ?外の監視役も娘奴隷達も、お前は『ただ一つの名』どころか、『呼び名』すら持っていないと、今も思っている。無くなっても、問題ないだろうが」
だってセレは大切なものなんだもの。ゲゼルが『ただ一人の人』でなければ、ゲゼルになんて――ゲゼルにこそ、呼ばせたくないほどの。
「……馬鹿言わないでよ。返すって何。意味わかんない」
「かわりにいい呼び名を考えてやるよ。どこのお姫様かと思うような可愛らしい名前でも、何でも」
ゲゼルがその後も喋っている。『呼び名』だ。どういう意味があるとか何とか、御大層な説明までしている。何やら博学めいた言い回しまで使うのが、ゲゼルらしくもない。どんなに深い意味があっても可愛い響きでも、そんなのを喜ぶのは、『ただ一つの名』を持たない者ぐらいだ。
私は百も二百も並べられても、何一つ、心を動かされない。
「そんなの、いらない!ほしくない!」
「騒ぐな!」
ゲゼルが舌打ちをする。眉間の皴が深まっていた。
「――なんだよ。『セレ』だって、元々『呼び名』のつもりだったんだ。俺が幾晩もかかって考えたのに。なのにお前、嫌がってただろ。いらないものを返してもらう事の、何が悪いんだよ。俺の考えた『呼び名』だぞ?」
「セレは『呼び名』じゃない!それはもう、私の『ただ一つの名』だ!今さら返せなんて、勝手を言わないで!」
「俺とお前しか使わなくて、何が『ただ一つの名』だ。何の意味がある?」
「別に、誰に言ってもらいたいわけじゃない。誰も知らなくていい。それでも『セレ』は――これは、私のものなんだ!」
何も持っていなかった私が、唯一得たものだ。私だけのもの。
むしろ、誰にも触れさせたくない。呼ばせたくない。
『ただ一つの名』は、私だけ知っていればそれでいい。私だけが口にできればそれでいい。ただ一つ例外があるなら――
「いいから返せ、セレ!」
「……どうしてアンタが――私の、『ただ一人の人』が、そんな事を言うの……?」
大切な『ただ一つの名』を授けてくれる、『ただ一人の人』。何ものにも代えがたい、自分が自分であるという証明を授けてくれる唯一の人。かけがえのない人。
どうしてそれが、よりにもよってゲゼルなのか。
いつもいつも、そればかり。ゲゼルでさえなければと。
――でも、ゲゼルでなければ、駄目だった。
私に『セレ』は届かなかった。仮に何百、何千の人がゲゼルより先に私をセレと呼んでも、ゲゼルが私に対して『セレ』と呼ぶまで、そのセレはすべて通り過ぎる。『ただ一人の人』が呼んでくれるまで、意味のない言葉なんだ。
ゲゼルが私の『ただ一人の人』であるばかりに。
「いやだ。取らないで。それはもう、私……私のものなの。私の、『ただ一つの名』なの」
「――っ、拒絶をするな。嫌がるな。お前、立場、わかってるのか?」
ゲゼルは娘奴隷達の監視役で、私は娘奴隷。
本来、逆らえば棍棒で殴られ、鞭で打たれる。苦役奴隷の時は、そうだった。
娘奴隷は『館』で商品として価値がある。だから、傷つけるような事は、よほどでなければされないだけだ。それでも、度が過ぎれば罰は下る。
私だって、くだらない事で意地は張らない。棍棒や鞭の痛みを、飢えや渇きの苦しみを苦役区画で常に味わってきた私は、娘奴隷達よりも本来従順だ。だとしても、監視役に――ましてゲゼルに『ただ一つの名』を奪われるわけにはいかない。
「……『リシェイラ』。『かけがえのない大切なもの』って意味だ。な、お前にはちょうどいい」
ゲゼルが私の手を取り、唇を寄せる。
「お前は最初から俺の大切な……ん?なんだ?飴?」
ゲゼルにも渡すつもりだった飴は二つとも、握りしめた手の中で、半分解けかけていた。ゲゼルはくっと力を込めて私の手を完全に開かせると、解け始めた飴を当然のように両方口に含んだ。
「ディアラン婆さんか?悪いな、食っちまった。何を叱られてきたんだよ」
ディアラン婆さんが、詰め所に来た者に飴を渡すのは、誰でも知っている。たいていは叱責になるので、後味が悪いからと。あの婆さんも意外と小心者だ。人間臭い。
そう、誰だって、どうしようもなくただの人間で――その証だ。名は。
『呼び名』なんて誤魔化しはいらないと撥ねつけ続けた私が得られた、唯一のものも奪うのか、ゲゼルは。
「な。いいじゃねえか、『リシェイラ』。上品で、品のある響きだ。『セレ』はガキっぽすぎる。なあ、こっちにしろよ。な、リシェイラ」
「違う……違う……それは私じゃない……」
私は、リシェイラではない。ありえない。
他の人がそう名乗るのはいい。リシェイラ自体はいい響きだ。でも私には合わない。それこそ、館の看板を背負うような娘奴隷にふさわしい――
「……リシェイラ?」
ゲゼルが私を見ている。リシェイラと、ありがたくもない『呼び名』を呼んで。
そんなの、私のものではない。
けれど――
なら、『セレ』と、呼ばせるの?私以外の人に。
娘奴隷やディアラン婆さん、他の監視役――そして『客』達に。
私の、大切な『ただ一つの名』を?それを呼ばれながら、私は娘奴隷としてこれから傅き続けるの?様々な声で耳元に囁かれ、夜を過ごすの?『ただ一つ名』を呼ばれる高揚感を得ながら?
……嫌だ。
奪われたくない。けれど、穢されたくもない。
別に、『旦那様の館』で名乗る名前だけ別にしてもいいのかもしれない。客ごとに『呼び名』を変える、器用な娘奴隷もいる。けれど、どれほど小細工を要したところで、本質は変わらない。
では、『セレ』を守るために、ゲゼルに『セレ』という『ただ一つの名』を返す?そして、リシェイラという『呼び名』で生きていく?
「いや……いや、いや、いや……」
どれも嫌。
だって私はセレなんだ。
セレ以外に、あり得ない。
「なあ、そんなに嫌がるなよ。お前がそんなふうになると……くそ、俺まで……」
ゲゼルの眉間の皴はさらに深まり、脂汗が浮かび始めている。
「何が不満だ。セレとリシェイラ。『ただ一つの名』と『呼び名』。それの何が違う?お前はお前だろうが」
そんな事を言えるのは、ゲゼルが『ただ一つの名』を得ていないからだ。『ゲゼル』なんてありふれた、どこの誰から呼ばれても似合う程度の『呼び名』で満足できているから言えるんだ。
まして私は、『ただ一人の人』から『ただ一つの名』を呼ばれていたのに、それを奪われかけている。この気持ちは私にしかわからない。
「……『俺が』リシェイラという『呼び名』をつけるのが気に食わねえなら、自分で決めた事にしたっていい。ともかく、リシェイラ――な?リシェイラで、いいだろう?これだって十分いい『呼び名』だ。な?リシェイラ。セレよりずっと――」
断固として頷く事はできない。首を振り続ける。
ゲゼルが舌打ちをし、埒が明かないとばかりに歯を剥き、怒りをあらわにした。
「――!」
でも、なんと言われても嫌だ。リシェイラなんて言われても、全然心に響かない。
「いい加減にしろ、リシェ――う、うう……リシェイラ……リシェイラ……ああ、くそ!じゃあなんだ、『安らぎを得る』のクオレルは?響きが似ている方がいいなら、『今は静かに従う』のセーレーイン。『燦然と輝く』のセレスフィルでもいいだろう?」
顔を引きつらせながらゲゼルが次々と『呼び名』を挙げる。
どれほど似ていても、たとえそこに『セレ』と含まれてさえいても、それらは違う。
何より――
「それは全部、私のものにはなりえない」
……それがわかっているのは、ゲゼルも同じのようだった。
「――くそっ!くそっくそっ、くそ!――なんでだ、どうしてだ!お前に名を授けたのが俺なら、俺が『ただ一人の人』なら。俺が授けりゃなんだって、『ただ一つの名』になるんじゃないのかよ!」
そこまで細かい事はわからない。
私だって、苦役区画で、その奇跡に出会う事に縋って生きている苦役奴隷達の話をバラバラと聞き集めただけだ。娘奴隷達の知っている話も、そう変わりはない。私が他に知る唯一の『ただ一つの名』を持つルォウレンだって、その事実さえあればそれだけでいい、という感じだった。事の真実なんて知っている者がいるのかどうか。
「こんなにいい『呼び名』を考えてやったのに!どれも違う!お前のものじゃねえ!どれもお前に合いやしねえ!どれもこれも――『セレ』以上のものにならないとは、どういう事だ!?」
聞かれたって、困る。
「別に、以上でなくてもいいんだ。けど、どれも――『フィウユ』も『ゼアレ』も『ピエーシア』も!どれもお前には合わない。お前は――」
ゲゼルが私を指さす。その指先が、震えていた。
「お前は……『セレ』だ……!」
何も知らなくとも『ただ一つの名』がただ一つの、と呼ばれるからには、それはかけがえのないもので、代替も上書きも効かないものなのだろう。今のように。
――きっと、私達ではもう、どうにもできない。それを手にした私も、それを授けたはずのゲゼルさえも。
『ただ一人の人』に出会う事が奇跡で、さらにその人の口から『ただ一つの名』を授けられるのがさらに奇跡なのだから。
けれど、ゲゼルはまだ抗うようだった。
「どうして……『セレ』でない別の――ああ、でも、それが『ただ一つの名』になっちまったら意味がない!お前に、俺から得た『ただ一つの名』を使わせるわけには――」
何を今さらそんな事にこだわるのか。
ゲゼルは私に『ただ一つの名』を与えた『ただ一人の人』という立場を面白がっているとすら思っていたのに。
ああなんだ。そういう事か。
「……苦役区画あがりの娘奴隷が、『ただ一つの名』を持つなんて、生意気だって事?」
まして、それを庇護しなければならないなんて、って?
「それもそうだが――」
ゲゼルは言いかけて、淀んだ。
「ああ、そうだ!お前に『ただ一つの名』なんて過ぎたもの、不要だろ。捨てちまえ!そんなものなくたって、俺は――」
私は、飴の解け残りがついた手のひらでゲゼルの頬を強く叩いた。
……人にはっきり暴力を振るったのは、初めてだった。
振り返りもせずに走り出した。何が過ぎたものだ。アンタはいつもそう。いつも勝手で、押しつけて。――だけでなく、奪おうとするなんて!
『ただ一つの名』が、どれほどの意味を持つかも知らないで。
どうせアンタにはわからないんだ、『ただ一つの名』を持ってない、ゲゼルには!こんな奴に何を言ったって無駄じゃないか。理解できるわけがない。
ああ、馬鹿だ。
……馬鹿だ、私は!
※※※
「――あら、苦役区画あがり。約束よ。早く私の髪を結ってもらえない?……んふふ。なにせ今日は久々の上客が――」
「お腹が痛いので、無理です!」
隙あらばきゃんきゃん吠えて怒り狂うアドゥリーだが、煩わしいだけで、怖いと思った事はない。でも今日は、煩わしいと考える余裕すらなかった。私は待機部屋のさらに奥、仕込み前の娘奴隷が寝るための大部屋に一直線に突き進んだ。そのまま、薄い布団にくるまる。
……悔しくて泣いているところなんて、誰にも見られたくなかった。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
毎日一話ずつ更新中。
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