豹変
1
「ごちそうさま」
紗希は朝食を終えると食器を台所に運び、散歩してくる、と言って家を出た。今日は日曜日だけど、撮影は13時開始なのでまだ時間があるからか・・・それにしても珍しい。私は紗希が何処に行くのか気になったので、後をついて行った。朝6時、日の出前の空はまだ暗い。その中を紗希は思い出を辿るように、時々辺りを見渡しながらゆっくり歩いている。暫くすると、木立に囲まれた小さな神社に着いた。紗希は社殿の縁側に座る。すると何処からか三毛猫が出てきて、紗希の横に座った。日の出の光が社殿に差し込む中、母娘が縁側で静かに語り合っているかのような光景だった。私はほのぼのとしたその光景を暫く眺めていたが、社殿の脇で黒い大きな影が動いた。その瞬間、紗希と三毛猫は影に反応し間髪入れず走り出す。って、紗希の位置から見えないはずだけど・・・紗希はその影を視認すると、いきなり襲い掛かった。獲物を狩る豹のように・・・
「ハチ、そこにいるんでしょ!警察呼んで!早く!」
えっ、何が起きたの?しかも、何故分かった?私は鳥居の影から窺っていたので、紗希とは20m以上離れているはずなのに・・・とにかく、私はスマホをポケットから取り出すと110番通報した。
「どうしましたか?」
どうって、私にも分からないよ・・・
「えっと、あの・・・」
「落ち着いてください。何がありました?」
「・・・女の子が変な人に・・・」
「場所はどこですか?」
「桜町駅の南側の・・・天神社の境内です!」
「分かりました。直ちにパトカーを急行させます」
通報してから急いで紗希の元に駆け付けると、男が股間を押さえながら蹲っている。その先には、6月程度の4匹の子猫と三毛猫がいた。どうやら親子らしい。紗希はクロスボウを肩に担いでいた。
「紗希、何があったの!」
「こいつ、これで子猫を撃とうとした」
「えっ!」
「おい、死の恐怖を教えてやろうか?」
紗希はクロスボウを男に向けた。そして頭に照準を合わせる。この距離で撃てば間違いなく即死だ・・・
「紗希、何してんの!」
「た、助けてくれ!」
「猫達が助けを求めた時、お前は何をした?こうしたんだろ?」
紗希はトリガーを引いた。矢は男の頭をかすめ木の幹に突き刺さる。
「ひえっ!」
男は這いながら逃げようとした。
「逃げんじゃねぇよ、このクソッタレ!」
紗希は男の股間を力任せに3回蹴った。男は気を失い、動かなくなった。紗希は普段から口が悪いし粗雑なところがある。だけど、この時の紗希はそのレベルではなく、憎悪の塊だった。
「紗希、止めてよ!」
私は紗希からクロスボウを奪おうとした。だけど、紗希は右手でグリップを握っているだけなのに、私が満身の力を込めて両手で奪おうとしてもびくともしない。スレンダーな紗希の何処にこれだけの力があるんだ?そうこうするうちに、パトカーが神社に着いた。
「クロスボウによる猫の殺傷が市内だけでこの1ヶ月で11件もあったんです。いずれも目撃者がおらず防犯カメラ未設置個所でしたので容疑者の割出が難航していました。この男、こんな早朝に神社に人がいるとは思わなかったんでしょうね。容疑者逮捕の御協力、ありがとうございました」
「11件もですか・・・」
「はい、クロスボウの所持は随分前に許可制になりましたから、クロスボウによる犯罪自体は減少傾向にあります。我々も治安維持に努めますから、御安心下さい。御協力ありがとうございました!」
年配の警官が敬礼して去っていった、若い警官は男をパトカーに連れて行く。
「紗希・・・」
「ホントは殺したかった」
「えっ?」
「わざと外したんだよ・・・」
「・・・何故あいつがクロスボウ持っているって分かったの?」
「妙な足音がしていたから、警戒していたんだ。その足音が急に乱れたからヤバいと思ってね。最近、市内で猫をクロスボウで撃つクソが出没しているって聞いていたし・・・」
そんなニュースあったか?私が見落としただけか?
「私がいることは?」
「ハチが後ろにいることは、家を出た時から分かっていたよ。ハチは尾行するのが下手だからね」
「下手って・・・」
気が付くと、足元にさっきの猫の親子がいた。
「また来るからね・・・」
紗希は三毛猫と子猫達の頭を撫でながら話しかけていた。
2
その日の夜、今朝の一件に関するニュースが流れた。容疑者は11件の犯行を全て認めたうえ、市外で同様の犯行を8件していたことも自白した。動機も家庭内のストレスを解消するために弱い物を狙ったという、極めて身勝手なものだった。
「紗希が言っていたとおりだね・・・動物達が幸せになるためには、人間が幸せにならなければならないって・・・」
「個人的な愛護精神だけじゃこうした犯罪から動物達を守ることができないんだよ。人の心を狂わせる要因を社会から取り除かないと・・・それをあの禿!」
「禿の話はもういいよ」
「禿って?」
「経済学の平野教授ですよ。紗希の天敵の」
「ああ、平野君は理論至上主義で人の心が分かってないからな・・・社会を方程式で解釈している」
「そう言えば、紗希は何故宇沢弘文に詳しんですか?」
「入学前に紗希に読ませたんだ。社会的共通資本って本。新書で250ページ程度だったかな・・・内容は濃いけど」
「私の本棚にまだあるよ。読む?」
「読ませて!それとマスクスは?」
「紗希はたぶん”フォイエルバッハに関するテーゼ”を引用したんだろ?」
「そうだけど・・・」
「しかも、その第11テーゼ、”哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである”をね」
「確かに議論中にこの言葉言ってました」
「平野君が最も嫌がる言葉だよ。彼こそ社会を方程式で解釈しているだけだから。如何に美しい方程式で記述するかに腐心して、矛盾を考えようとしないからね。だから、簡単な新自由主義に走る」
「簡単?」
「新自由主義は宇沢弘文的な多種多様なパラメータを全て無視できるから、記述が簡単になる。まぁ、言ってしまえばその程度ってことだけど」
「なるほど・・・でも、教授はなぜ社会思想的なことまで詳しいんですか?」
「技術は何のためにあると思う?」
「・・・経済を発展させるため、ですか?」
「違う。人を幸せにするためにある。だから、技術者も社会や人を理解していなければいけないんだ」
なるほど、紗希は菊地教授の哲学に影響されているのか・・・でも、今朝の紗希はかなり異常だった。その場で子猫達が殺されたのであればともかく、何処で聞いたのか確証があるとは言えない情報だけであれだけ憎悪に塗れるなんて・・・しかも、音だけで状況を判断し、男からクロスボウを瞬時に取り上げ半殺しにしてしまう身体能力、そして、あの腕力・・・体操選手の菊地紗希との関係といい、私の頭にはもやもやした何かが形成されつつあった。




