悩みごと
夜風が頬を撫でる感触に、私はほぅと息を吐いた。少しだけ湿気をはらんでいるが、よく晴れて澄んだ空だ。おかげで、月の柔らかな明かりが優しく地上を照らしだし、一人剣を振るうリゲルのことがよく見える。
やっぱり、ここにいた。なんとなく当たりをつけていた私は、離れた場所からレイピアを繰り出すリゲルを見守った。その月夜に浮かぶリゲルの横顔は厳しく、仕草もいつもの流れるような滑らかな動きと異なり、激しく荒々しい。
やがてリゲルは短く呻き、芝生にぱたりと倒れた。
“リゲルのことが好きなんだね”
ハルさんの声が耳に蘇り、一瞬、足を踏み出すのを躊躇した。ああ、本当に私らしくない。うじうじ悩むのもこそこそ逃げるのも信条に反するし、自分の気持ちがわからないならぶつかってみるべきだ。それすら出来ずに、ミザル・ブルクの看板娘が務まるものか。
私は両手で頬を叩いて気合を入れると、大の字に寝転ぶリゲルを覗き込んだ。
「そんなところで寝たら、風邪をひくわよ」
「うぉ?! ミア?! 」
リゲルは驚きで目を丸くして、跳ね起きだ。
「お前、いつからそこにいた? 」
「ついさっき。あんたが倒れる、ちょっと前から」
ふーんと頷くリゲルの横にしゃがむと、彼の琥珀色の瞳が同じ高さになった。まじまじと観察されてたじろぐリゲルを前に、私は内心でガッツポーズを決めた。大丈夫、今のところ平常心を保てている。
気をよくした私は、先ほど遠目に感じた疑問を口にした。
「もしかして、何か悩み事? 」
「ん? 」
「さっきの練習、いつもと感じが違ったから」
庭で見かけるリゲルの剣術は、自然でのびやかだ。例えるなら、丁寧に整備されたバネ。一枚一枚、薄く積み上げた技術を磨き上げ、それをもとに伸び上がるように剣を振るう。だから彼の剣は自由で、無限の広がりを持つ。
だけどさっきの彼は、せっかく積み上げたバネを全て取っ払い、無理やりに踏み切ったようなぎこちなさがあった。
「感じか。ちょっと見ただけで、そこまでわかるのか」
「宿屋の人間だもの。毎日、冒険者を見ているのよ? 」
「すげぇな。そういうのプロって感じで、かっけぇよ」
茶化して胸を張ってみせたのに、普通に褒められた。どう考えても、こんなリゲル変だ。肩透かしを食らった私を置いてけぼりに、リゲルは再び仰向けに寝転ぶ。彼の口から、細く長い息が漏れた。
「ごめんな」
星空が音という音を飲み込んでしまったかのような静寂の中、リゲルの声だけが響く。突然謝られた意味が分からず目を瞠ると、リゲルも私を見上げていた。
「ザクの酒場で、危険な目にあわしちまった。あのアレクって奴が止めたからよかったけど、俺の足じゃ間に合わなかった」
「え? 悩みって、それ? 」
「何を悩もうが自由だろ? 」
頓狂な声を上げた私に、リゲルが不機嫌そうに唇を尖らす。
そういえば、ボルガンに槍を向けられた時、剣を抜いたアーサーさんの後ろでリゲルが私に向かって駆け出したのが見えた。今更だけど、アーサーさんがボルガンの一人を斬ろうとしたことを思い出し、全身に震え走る。
それをどう受け止めたのか、リゲルは悔しげに歯噛みした。
「あの時、本能的に間に合わないってわかった。それが、堪らなく怖かった。近くにいても、目の届く場所にいても届かないことがあるんだって、打ちのめされた」
言いながら、リゲルの細く鍛え上げられた腕が空に向かって伸ばされた。その手は、夜空に一等に輝く星を掴もうとするように彷徨い、やがてゆっくり下ろされた。
「そしたら、どう動けばいいのかわからなくなった。何度考えても、あの時、俺の剣が届く方法がわからない。どこにいればいい。どこを見ればいい。積み上げてきたものが、全部崩れちまったみたいだ」
「あんたらしくもないわね」
リゲルは怪訝そうに私を見たが、私が知る彼と今の彼はあまりに異なる。
リゲルが持つレイピアの属性は守護だが、彼自身は根っからの攻撃タイプだ。その根底にあるのは、未知の世界に飛び込み手柄を立てたいという冒険者らしい純粋な欲求であり、それがあるからこそリゲルは輝き、新鋭の実力者と呼ばれるまで駆け抜けた。
要は、スタンスの問題だ。真っ向から先陣を切って飛び込んでいき、結果的に人を助けることになるのがリゲルであって、始めから守るために自陣で構えているのとは違う。
「リゲルは、誰も経験したことのない冒険をしたくて、冒険者になったのでしょう? なら、悩んでいないで、好きに飛び込めばいいじゃない。大丈夫よ、エーアガイツ団の人たちはみんな、自分の身は自分で守れる人なんだから」
「だけど、お前は違う 」
突然に自分を引き合いに出せれ、私は瞬きをした。冒険者の話をしていたはずなのに、なぜ私が出てくるの? そんな私をリゲルの真剣な眼差しが貫き、全身を絡め取られたかのように身動きがとれない。
私を見つめて離さないまま、リゲルが起き上がった。彼の手がそっと私の頬に添えられ、リゲルの熱を伝える。あるいは、触れられた私の肌の方が熱いのかもしれない。どきりと心臓が高鳴るのがわかった。
「俺は、ミアが傷つくのは嫌だ。お前が、別の誰かに救われるのも嫌だ。だからもっと強くなって、お前を守れるだけの力が欲しい。そんな風に考えるのは、冒険者としておかしいと思うか? 」
リゲルに触れられた場所が、熱を増すのが分かる。彼の言葉が、耳から頭を伝ってゆっくり全身に染み渡っていく。それと同時に、私は混乱した。軽いパニックだ。暗闇に慣れた私の目は、私を見据えるリゲルの頬がほんのり朱に染まっていることを伝え、それもさらに混乱を深める要因になった。
「それって、どういう……?」
ようやくそれだけ返した私の掠れた声は、地を震わすような轟音によって掻き消されてしまった。




