先輩として
そんなある日、アンナがミザル・ブルクを訪ねてきた。正確には潜り込んできた。
ミザル・ブルクには週に2回、郊外にある牧場主のヤンじいさんがミルクとか卵を届けてくれる。いつも通り、ヤンじいさんが馬に荷台を引かせるカラカラという音で裏戸を開けると、そこにはヤンじいさんともう一人、変装したアンナがいたわけだ。
キャップを被って金髪をしまいこみ、ベストにズボンと大分いつもと雰囲気の違う格好をしたアンナは、私に声を出すなと目配せしてからミルク缶を抱えて厨房に滑り込んだ。
「どうしたの、その格好」
「こうでもしなきゃ、今のミザル・ブルクは近づくこともできないんだよ。町は衛兵だらけ、ミザル・ブルクの周りも見張りが常駐しているんだもの」
しれっと肩を竦めるアンナに、思わずこめかみを押さえてしまう。情報通を自負する彼女だけど、あまり変な方向に進化しないでいただきたい。そこで私は、アンナの実家であるザクの酒場が、ルルの盗みの被害者であることを思い出した。
「まさか、あんたルルに落とし前つけにきたとかじゃないわよね」
「いやいや、まさか。もちろん、ルルくんを操っていた連中は今でも殴りたいけどね。ていうか、ルルって名前なんだね、静寂の盗人くん」
じと目で疑う私にひらひらと手を振った金髪碧眼の美少女は、次の瞬間、およそ彼女らしくない真剣な表情で告げた。
「そのルルくんだけど、ちょっと厄介な連中に目をつけられたっぽいよ」
☆ ☆ ☆
そうこうあって、私は今、ザクの酒場のカウンターにいる。ハルさんと二人で。
「俺を選んでくれて、光栄だよ。俺でよかったの? 」
「もちろんです! ごめんなさい、無理言って」
首を振った私に、グラスを傾けながらハルさんがくすりと笑った。襟元のボタンを外し、カランと鳴る氷の音に目を細めるハルさんからは、大人の色気が駄々漏れだ。おかげで男女問わず皆がその様に目を奪われており、狙いを考えれば人選は間違っていなかったと言える。
「リゲルが拗ねて大変だったよ。よほど君の側にいたかったのだろうね」
「ぶっ」
いたずら混じりのハルさんの言葉に、私はむせかえった。宿を出るその時まで、自分がついていくと聞かなかったリゲルが瞼に浮かんだ。最後はしかめっ面をしていたっけ。
「どうして、彼を選んであげなかったの? 」
「それは……」
脳裏に浮かんだのは、先日リゲルを突き飛ばした時のことだ。ソファに背が押し付けられ動けない私を、まるで追い詰めるようにリゲルの体が近づいてきて。そこまで思い出して、ポンと弾けるように頭が沸騰した。
「な、なんとなくです! 別に何も理由はありません! 」
「あはは、ミアちゃん、顔真っ赤」
ハルさんはひとしきり愉快そうに笑うと、頬杖をついて私を覗き込んだ。
「傍観していようと思ったんだけどなぁ。ミアちゃんがその様子じゃあ、先輩として可愛い後輩に手助けしてあげようかなぁ」
「え? 」
それはどういうことかと私が問う前に、ハルさんは爆弾を放りこんできた。
「ミアちゃんは、リゲルのことが好きなんだね」
「……はい? 」
耳で聞いたことを認識し、咀嚼し、意味を理解するまで、たっぷり時間を要した。その上で、私の口から漏れたのは間抜けな声だった。
私が、リゲルを好き? ハルさんは、そう言ったの?
眉目秀麗、才色兼備と謳われるハルさんの顔には、冗談の色は見られない。だけど――。
「それは違う、と思います」
「どうしてそう思うの? 」
そう問うハルさんの左手は、無造作にテーブルの上にある。その指に光る細い金の指輪に、私の目は吸い寄せられた。ずっと前に捨てた想いの残像が、どくんと脈打った。
庭で一人練習するハルさんが浮かんだ。ハルさんに会えない冬に、早く季節が変わればと祈った日々を思った。ブレスレットをもらった時の、沸き立つような充足感を思い出した。ああ、そうだ。私の“好き”は。
「私が、ずっとハルさんを好きだったからです」
考えるより先に、私は口走っていた。はっと気が付いたときには、虚を突かれて大きく瞬きをするハルさんの顔がそこにあった。
「ごめんミアちゃん、ちょっと気持ちの整理をさせて。参ったな……、全然知らなかった」
「待ってください! 私、ハルさんのことはキレイさっぱり終わらせました! だからこれは昔好きでしたという報告というか、小話というか、それだけであって! 」
前髪を掻き上げて狼狽するハルさんに、私は焦ってまくしたてた。
ハルさんからしてみれば、結婚をしたのに今更想いを告げられても迷惑千万この上ないはずだ。それに私だって、いつまでも想い人を忘れられない“心痛の乙女”認定はごめんである。せっかく心を入れ替えて仕事に打ち込んでいたのに、これじゃ台無しだ。
「そっか……、それは、なんかごめんね」
「あ、いえ。おかまいなく」
なんとなく、私とハルさんは互いに頭を下げあった。なんだ、この流れ。
「でも、それがどうしてリゲルを好きじゃないことに繋がるの? 」
「ハルさんを好きだった時と今の気持ちが、全然違うからです」
動揺していてもちゃんと軌道修正するハルさんに感服しつつ、私は考えを巡らせた。
ハルさんに片想いしていた頃、私がハルさんを避けるなんてあり得なかった。顔を見られれば幸せだったし、言葉を交わせば胸が高鳴った。成長した自分を見てもらおうと気を張っていたせいで、普段より仕事も絶好調だった。
決して今みたいに、逃げ出したり、突き飛ばしたり、そんな奇行はとらなかった。
拙い言葉でそれを伝えると、ハルさんは目を真ん丸に見開いて、次いで弾かれたように笑い出した。
「もう! 真剣に話しているんですよ! 」
「ごめん、ごめん。だって、ほとんど答えは出ちゃっているじゃないか」
滲んだ涙を拭いながら、言葉の意味を測りかねている私の首元をハルさんは指差した。確認しなくても、ハルさんが何を指しているのかわかる。
「そのネックレス、本当によく似合っている。悔しいけど、俺が選んだブレスレットよりずっと、君の魅力を引き出しているよ」
「あ、ありがとうございます」
突然話題を変えられて戸惑う私に、ハルさんはいたずらっぽくウィンクをした。
「それだけ君を想っていないと、選べないってこと。きっとリゲル、ミアちゃんのことをいっぱい考えていたんだろうね」
目の色と同じだと嬉しそうに言った時の、リゲルの甘い顔が瞼の裏に蘇った。ああ、また背中がむずむずする。手足をばたつかせたいようなもどかしい心の疼きに、私はぎゅっと目を閉じた。




