南船北馬、さて、荊州はどちらに属しているのでしょう。※
孔明はなだらかに下る、街への道をゆっくりと歩いていた。
老師や姉の義父、龐徳公が戯れに呼んだ、
「『臥竜』、もしくは『伏竜』」
という言葉が襄陽内外に噂され、この住まい周辺も『臥竜崗』とまで呼ばれるようになっている。
「『鳳雛』」
と呼ばれる士元とは何かと比較され、少々迷惑である。
自分としては竜のように空に駆け昇るよりも、地面で唯黙々と田畑を耕し、できれば結婚し妻子と穏やかに暮らしたい。
貧乏でもいい、唯戦乱の中逃げ回るような生き方だけはごめんだし、曹孟徳や劉景升に仕えるつもりは毛頭無いし、兄には悪いが江東の孫仲謀に仕える気もない。
平穏な生き方がいい。
「……本当に、普通がいいんだけれどなぁ」
呟いた孔明は、足を引きずるようにして坂道を登ってくる黒い大きな馬に気が付いた。
荊州は馬の産地ではなく、涼州という北西地方が名馬を産する地域である。
汗血馬と呼ばれる名馬が有名である。
涼州は中央からもかなり遠く、当然遠くからやって来る馬は高い。
最近滅んだ北東の公孫伯珪(瓚)は、白馬を好み白馬だけで結成する一隊を作ったらしいが、珍しい白馬だけに、かなり金銭を積んだのだろう。
それはそれとして、だから人々は高い馬ではなく牛を買い、農耕に勤しみ、荷車を動かすのだ。
それに、荊州は騎馬部隊は余りいないといっていい。
元々、長江の中流域である荊州には船という手段がある。
長江は入り組んでいるものの広大な河で、その流れを利用して交易をしている。
蔡家は元々水軍を率いてきた一族であり、余り軍馬を利用しない。
まぁ僅かだが軍馬はいる。
しかし、戦場に出す程調教できず、今現在は緊急の使いの移動手段として利用されているはずである。
そんな馬がどうしてこんなところを歩いているのだろう。
カクンカクンっといびつな動きで歩いていた馬と、目があったような気がした。
すると、馬は孔明に近づき頭を垂れる。
「えっ! ど、どうしたの、お前? どうして……」
馬は何故か必死に何かを言いたげに、首を振り足を引きずりながらも自らの背中を見せる。
そこには、ずたぼろの布にくるまれた何か小さなものがしがみついている。
「これ……がどうしたの? 」
この馬は賢い。
そうすぐに悟った孔明は、尋ねる。
ブルルッ……
馬は数日何も口に入れてないのか、かすれた嘶きを発する。
「解ったよ……これは抱き取るから、お前も家においで、怪我しているんだろう? 」
よしよしと頭を撫でた孔明は、手綱の無い馬の背から小さな軽いものを抱き上げる。
ボロボロで、生臭い……昔嗅いだことのある臭いに顔色を変える。
そして、そのぼろを剥がし現れたのは、ガタガタと震え、乾ききった喉でポツリポツリ何事かを呟いているまだ幼い子供……。
「……っ!? 」
孔明は躊躇わず、すぐにきびすを返す。
「ついておいで、お前の主人の手当てをしよう」
孔明は怪我をしている馬の足に合うように歩きながら自宅につくと母屋に直行し、書簡と子供で塞がった両手の代わりにどんどんっと足で乱暴に扉を蹴った。
「おいっ、開けてくれ、均」
「ど、どうしたの!? そんな荒っぽいの、兄様じゃないわよぉ? 」
「のんきなこと言うなっ! 均。私は急いでるんだ!! すぐ開けてくれ!! 」
穏やかな兄のいつに無い強い口調に、緊急事態だと認識したのか扉が開かれる。
「どうしたのよぉ……って何? この……」
目を丸くする均に、書簡を押し付け、
「これを、私の部屋に。で、この馬を洗って水を与えて傷の手当てを。急げ!! 」
「は、はーいっ! 」
書簡と馬とともに出ていく。
「月英、この子の手当てを手伝って下さい」
「……ハイハイ……丁度面白いところだったんだけどなぁ。仕方ねぇ」
月英は、首をすくめ立ち上がる。
「で、オレは何すりゃいいんだ? 」
「お湯を沸かして下さい」
「へーい。他には? 」
「貴方はお湯沸かすのでせいぜいでしょう。何なら、均と二人で馬の手当てをお願いします」
あっさりと告げ、
「離れの姉たちの部屋にいます。よろしくお願いしますね? 」
と立ち去っていった。




