57 夜の果てに
目の前に立ちはだかる闇は、塊となって不気味に蠢いていた。
紗名の身体からは切り離されたが、弱体化など微塵もしていない。
闇はますます膨張し、際限なく森を覆っていく。
触手がざわめき、未久に向かって鋭く伸びた。
発光。
間に合わない。
触手は未久の身体を絡め取った。
続いて、悟。
神の力を持つはずの二人が、為す術もなく宙に浮かぶ。
巻き付いた闇の鞭が、二人の身体を強く締めあげる。
反射的に凪が駆けだそうとした、その時。
「凪さん!」
森の奥から、一筋の光が走った。
木々の隙間を裂くように、まっすぐ伸びる光。
その先に立っていたのは、菊枝だった。
彼女は手に持った鏡をイザナミの方へ向け、突き出すように構えていた。
身体から溢れる光が腕を伝い、鏡を通して一直線に照射されている。
闇が焼け、光に照らされたイザナミの身体が禍々しく震えた。
「そう長くはもちません!」
菊枝の声は震えていた。
「早く、“道”を――!」
凪の作り出す“黄泉の道”。
イザナギをあるべき場所へと還す、唯一の道。
凪は地面を強く掴む。
足元ではなくイザナミの影そのものを、意識の中で掴み寄せる。
空間が裂け、イザナミの足元に黄泉の道が開いた。
その中から、無数の白い腕が伸びる。
「……っ!」
今度は消滅しない。
無数の手が、イザナミの首に、足にと絡みつく。
イザナミの表情が歪んだ。
次いで、凪の両手が光を帯びる。
朝日のような、黄金の輝き。
――天照。
光が奔流となり、闇を照らす。
イザナミの叫びが夜を裂いた。
彼女の表面を覆う闇が溶け、その下から凄絶な姿が現れる。
ぼろぼろの着物。まばらに生えた髪。腐り果てた顔。
瞬く間に、強烈な腐臭が森を満たした。
「うっ……!」
悟は顔をしかめ、未久は涙目で口を押さえた。
イザナミの口元が震える。
「……から……のに……」
かすれた声。
「だからッ!! 見られたくなかったのにッッ!!!!」
絶叫。
咆哮が夜を震わせる。
「こんな姿ッッッ……!! あああぁぁッッ!!!!」
こんな姿――その言葉に、凪の胸がわずかに軋んだ。
それは怒りでも、憎しみでもない。
傷ついた幼子のような、怯えた声。
この人は、ずっと――
ひとりだったのかもしれない。
手に宿った力が微かに揺れ、胸の奥に重苦しさがじわりと広がる。
凪は目を閉じ、深く息を吐いた。
その瞬間、身体を包んでいた光がふっと消えた。
凪はそのままゆっくりと、歩き出す。
「――凪っ!?」
「凪ちゃん!」
二人の声が重なる。
だが、凪は止まらない。
そして――
「――――!!!!」
凪の両手が、イザナミの身体を掻き抱いた。
腐った肉が潰れ、体液が服に染み込む。
だが凪は、その腕を緩めない。
「なっ……! 離して!」
イザナミが暴れる。
「こんな、身体――はなっ、離せッ!!」
凪は彼女を抱く腕に力を込め、ただ静かに言った。
「もう――いいだろ」
その一言で、イザナミの動きが止まった。
空を切ってもがいていた腕が、ゆっくりと下がる。
イザナミの身体は小さく震えていた。
まるでこの温もりが消えてしまうのを恐れるように。
何かを言おうとして、しかし声にならない。
長い沈黙のあと――
凪の胸の中で、かすかな声が震える。
「私は……」
壊れそうな声。
「私はただ、こうして……抱きしめて、ほしかった……」
長い時間を越えて、ようやく見つけた言葉のように――
イザナミは顔を伏せ、噛み締めるように言った。
凪は、何も言わない。
ただ、震えるイザナミの身体を、やさしく抱きしめる。
その手が彼女の頭をそっと撫でると、イザナミは声を上げて泣き出した。
森に濡れたような嗚咽が響く。
やがて涙を拭い、ゆっくりと息を整えた彼女の目には、静かな落ち着きが宿っていた。
「あの人の元に帰りたかったわけじゃない。
私はもう……黄泉に堕ちたんだから」
「……ああ」
「ただ、忘れないでいてほしかった……」
「……ああ」
凪の胸に顔をうずめ、イザナミはそれきり黙り込んだ。
夜の森は深く静まり返り、風が木々をそっと揺らす。
やがて――彼女はゆっくり顔を上げると、凪の目をまっすぐに見つめた。
「凪……ありがとう」
そう言って凪の手を取り、そっと解く。
そしてそのまま――イザナミは裂け目へと身を預けた。
ほんの一瞬、凪の胸に顔を押し付けるようにして。
最後に見えた、彼女の目。
そこに宿っていたのは、怒りでも憎しみでもなかった。
凪は、ふと思う。
もし自分が彼女の立場だったら、果たして狂わずにいられたのだろうか。
愛する人に拒絶され、理解する者もなく――ただひとりで長い年月を過ごす。
孤独は容赦なく心を蝕み、やがて歪んだ形へと変えていく。
ああでもしないと、自分を保つことができなかったのかもしれない。
凪はゆっくりと目を閉じる。
胸の奥に残っているのは、勝利の実感でも、安堵でもない。
ただ、静かな痛みだった。
もし、ほんの少しだけでも世界が違っていたなら。
もし、彼女の手を取る誰かが、あの時そばにいたなら。
結末は、違っていたのだろうか。
答えはもう、どこにもない。
ただ風だけが、何事もなかったかのように静かに吹き抜けていく。
奈落の闇に呑まれていくイザナミを追うように、ひとつの光が落ちる。
それは優しく彼女に寄り添いながら、一緒に闇へと沈んでいった。
やがて裂け目は閉じ、森は再び静寂を取り戻す。
凪たちはその場に呆然と立ち尽くしていた。
荒い息だけが、夜に溶ける。
「……終わっ、た?」
未久が小さく聞く。
凪はしばらく答えられなかった。
胸の奥に、言い表せない感情が残る。
ふと視線を向けた先の、菊枝の表情。
それを見てやっと、凪は自分の心が戻って来たと感じた。
「うん、終わったんだ……」
凪はキャンプサイトの方を振り返る。
そこにはまだ、何も知らずに眠る“自分”がいる。
守れたのだ。
この夜を。
この世界を。
八月十三日、深夜。
森はまだ深い闇に包まれている。
しかし世界は長い夜を抜け、これまで届くことのなかった九月七日――凪の十五歳の誕生日へと、着実に動き始めていた。




