58 正しき世界
「凪! こっちだ!」
深夜の駐車場に、低く抑えた声が静かに響く。
暗がりの中、手を振っていたのは善三だった。
この時代に現れた菊枝をここまで送り届け、そのまま待機していたのだ。
善三は素早く駆け寄ると、凪の肩から紗名を下ろした。
しゃがみ込んで呼吸と脈拍を確かめ、小さく安堵の息を漏らす。
「……大丈夫そうだな」
凪の肩から、緊張が一気に抜けた。
膝が震えて、その場に崩れ落ちそうになる。
「紗名は俺が町立病院まで運ぶ。お前たちは――自分たちの時間へ戻れ」
「え……でも――」
「お前たち同士が鉢合わせでもしたら厄介だ。あとは俺に任せて、早く行け」
有無を言わせぬ声だった。だがその奥には、凪がよく知る“祖父”の優しさがある。
凪は一瞬だけ迷い、そして頷いた。
「……わかった」
鏡を取り出し、地面に設置する。
眩い光が夜の駐車場に広がり、周囲の闇を押しのけた。
凪は最後にもう一度だけ、紗名に視線を向ける。
善三の腕の中で眠る紗名は、まるで何事もなかったかのように穏やかな顔をしていた。
「……また、あとでな」
小さく呟き、凪は光の中へ踏み出した。
平成二十九年、九月六日。
戻った凪たちを出迎えたのは――善三だった。
「おい、お前たち!」
聞き慣れた声。
さっきは八月十三日の善三に見送られ、今は九月六日の善三に迎えられている。
「……ややこしいな」
どちらが“今”なのか、感覚が揺らぐ。
「紗名は?」
「……まだ目を覚ましとらん。あのキャンプの夜から、そのままだ」
その言葉に、場の空気がわずかに沈む。
善三は皆の顔を順番に見回し、深く息を吐いた。
「今日はもう遅い。全員、うちに泊まっていくといいだろう」
「あの――」
背後から聞こえた控えめな声。
その声の主は、菊枝だった。
「すみません。私は戻ります」
「戻るって……今から?」
未久が驚き、聞き返す。
「はい。私も、鏡も……力を使い過ぎました」
さっき、凪たちを救った光。
あれがなかったら、今頃どうなっていたかわからない。
「じき、鏡の力は失われます」
「えっ!?」
「そのあとは長い間――鏡はただの鏡のままでしょう」
未久の表情が歪む。
「……やだよ、菊枝ちゃん! やっと会えたのに!!」
駆け寄って、抱きつく。
菊枝は少し驚いたあと、そっとその背中に手を回した。
「また、必ず会えます」
その声は、不思議と確信に満ちていた。
やがて菊枝は顔を上げ、凪を見る。
「ね、凪さん」
凪はただ黙って頷いた。
そこにはわざわざ言葉にしなくても、通じるものがあった。
「じゃ、これ……」
「はい」
鏡を渡すと、菊枝は慣れた手つきで設置を始めた。
今度の“行き先”は、昭和十二年。
光が広がり、彼女の姿を包み込む。
凪たちの見守る中、菊枝はほんの少しだけ笑った。
それは神であるククリヒメとしてのものではなく、十二歳の少女の無垢な笑顔だった。
やがて――菊枝の姿が光とともに消える。
あとに残ったのは、一対の鏡だけ。
それを拾い上げ、凪は独り言のように呟いた。
「全部……元通りか」
その言葉はやけに空虚に響いた。
凪たちは重い沈黙を引きずったまま、車に乗り込んだ。
エンジンがかかり、ヘッドライトが暗い道を照らす。
「いいな、出すぞ」
「うん……」
バックミラーの向こうで、キャンプ場の看板が遠ざかっていく。
その光景はまるで――長い夢の終わりのようだった。
ほどなくして、車は凪の家に到着した。
玄関の引き戸をそっと開け、物音を立てないように靴を脱ぐ。
「――あ!」
突然、未久が声を上げた。
「凪ちゃん、お誕生日! おめでとう!!」
「……え?」
壁の時計を見る。
時刻は午前零時を回り、日付は九月七日に変わっていた。
凪の十五歳の誕生日。
本来なら――イザナギの神格が覚醒するはずだった日だ。
けれど、何も変わらない。
凪は自分の手を見つめた。
イザナギの気配も、アマテラスの力も――もう、どこにも感じない。
「力、なくなっちゃったんだね……」
未久が寂しそうに、けれどどこか安心したように笑う。
隣で悟も、自分の手のひらを眺めて小さく肩をすくめた。
「人の力だけではどうにもならんことが、この世にはある」
善三が三人に声をかける。
「そういう時に力を貸すのが――“神”なんだとよ」
「そんな……もんなのか」
「おお。――ばあさんが、生前よく言っとったわ」
「――ばあさん!?」
その瞬間。
凪の中で何かがほどけた。
霧の向こうにあった記憶。
思い出そうとしても思い出せなかった、祖母の姿。
しかし今は――自分の中にその記憶が、確実に、ある。
「……!」
三人は同時に走り出した。
廊下を抜け、仏間の襖を開ける。
そこにあったのは――
穏やかな表情をした、一枚の写真だった。
柔らかな目元。
優しい口元。
写真立ての横には、小さな花が供えられている。
八尋菊枝。
それが、凪の祖母の名だった。
時を超えて出会った、昭和の少女。
彼女はその後善三と夫婦になり、凪の父親が生まれ――そして凪へと繋がる。
「それが……“正しい歴史”なんだな」
凪の声は静かだった。
「でも菊枝ちゃん、何も知らずに帰っちゃったよ?」
未久がぽつりとこぼした一言に、悟が軽く肩をすくめる。
「まだ鏡の力が残ってるなら、一応伝えとく?」
凪は少し考え、そして――首を振った。
「いや……やめとこう」
祖母の写真を見る。
そこにあるのは、穏やかな人生の証だった。
「歴史を変えるのは、もう“なし”だ」
失ったものもある。
戻らないものもある。
けれど、それでも――
今ここにあるものが、確かに“正しい”。
凪は、静かに顔を上げた。
写真の中の祖母の顔は、優しく微笑んでいるように見えた。




