56 器の崩壊
確かに、届いた。
届いたはずだ。
刃のように研ぎ澄まされた感触が、凪の手の奥に残っている。
あの瞬間、確かに何かを断ち切った。
光が弾け、暗闇が周囲を覆う。
森を照らすのは、雲間からこぼれる月明かりだけ。
枝葉がざわりと揺れ、遠くで夜鳥が鳴く。
凪は息を止め、目の前の存在を見据えた。
そこに立つ、イザナミ。
自分の攻撃がどれほど効いたのか。
どれほど届いたのか。
凪は唾を飲み込み、次の瞬間に備えた。
しばらくの沈黙のあと――
「……惜しいなぁ」
ふわり、と影が揺れた。
「でも、見つけたのは偉いよ。そっかそっか、“隙間”があったか」
その声に、凪の背筋が凍る。
未久を包囲していた黄泉軍は、いつの間にか消えていた。
悟を押さえつけていた“透明な手”も消えている。
だが――
目の前に立つイザナミ本体から放たれる圧は、先ほどよりも明らかに強い。
空気が沈む。
肺に入る息さえ、泥のように重い。
渾身の一撃だったはずだ。
二柱分の力を得て強化されたイザナミには、これでも届かないというのか。
視界がひび割れるような感覚が凪を襲う。
未久の光が揺らぐ。
悟は歯を食いしばる。
イザナミの頭上には再び“透明の手”が現れ、足元からは黒い触手が伸びる。
触手は地面を覆い、木々の幹に絡み、森そのものを腐らせるように広がっていった。
葉が黒く染まり、土が泡立つ。
可視化された絶望。
それでも――震える手を握りしめ、凪たちは戦う覚悟を固めた。
だが、次の瞬間――
突然、べしゃりと闇が崩れた。
まるで袋いっぱいの泥を地面に叩きつけたように、黒い塊が一気に崩落した。
「――!?」
触手も、透明な手も……力を失い、ずるりと地面へ落ちる。
何が起きたのか理解できない。
凪は息を呑み、目の前の光景をただ見つめた。
その視線は自然と、倒れた黒い塊の中に“残されたもの”へと向かう。
「紗名……?」
そこに立っていたのは、ひとりの少女。
その身体はふらりと揺れ、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「――!!」
未久が滑り込み、紗名の身体を抱きとめる。
「紗名ちゃん……!」
その腕の中で、紗名の頭が力なく揺れる。
「紗名ちゃん……紗名ちゃん……!」
未久の声が震える。
凪と悟も駆け寄った。
「みっこ! とにかくあっち……!」
凪は未久の肩越しに視線を送り、森の開けた平地を指さした。
周囲には泥状の闇や触手の残骸が溢れている。
凪たちはそれを避けながら、紗名を抱えて移動した。
改めて見ると紗名の顔は青白く、手足も冷たく硬直している。
だが彼女の胸は、かすかに上下していた。
その事実に、三人は同時に息を吐いた。
「どういう、ことだ……?」
悟が呆然と呟く。
その問いに、凪は息を整えながら答えた。
「俺の攻撃……ちゃんと、効いていたんだ」
あの一撃。
斬ったのは、イザナミそのものではない。
紗名を縛っていた――“器”。
だからこそ、イザナミは紗名の身体に留まることができなくなった。
凪は思わず息を吐いた。
未久も肩の力を抜き、紗名を抱きしめたまま安堵の表情を浮かべる。
「終わっ、たのか……」
悟の声はかすれていた。
「ああ。もう、これで――」
「凪ちゃんあれっ!」
突然、未久が叫び声を上げた。
その指さす先で、地面に広がる闇の泥が再び動き始めている。
ゆらり、ぬるり、と。
それはまるで生き物のように蠢きながら盛り上がり、形を成していく。
「嘘だろ……」
悟が顔を引きつらせる。
闇は集まり、形を作り――やがてひとりの女性の輪郭が浮かび上がった。
だが、その姿は紗名とは明らかに違う。
背が高く、しなやかな体つき。
長い髪のシルエット。
闇を纏ってなお、気配だけでわかる。
「イザナミ……」
禍々しい闇の中で、妖しいほどの美しさを持つ女の影。
その影が、かすかに震えた。
「びっくり……した」
ぽつりと呟く。
自分でも信じられない、というように。
「まさか、器を壊されるなんて」
ゆっくりと顔が上がる。
その瞳が――凪を捉えた。
ぞくり、とするほど濃密な視線だった。
「でも――これではっきりと、わかった。踏ん切りがついた」
イザナミは微笑む。
「もう『器』なんて……いらない」
森が、息を止めたように静まり返る。
「何千回も繰り返して……やっと気づいた。この世界には私と、凪。それだけでいい」
イザナミの声は、静かだった。
だがそこには狂気の熱が宿っていた。
「人も、神も――すべて消えてしまえばいい……!」
悟が叫ぶ。
「来るぞ!」
次の瞬間。
闇は爆発的に膨張し、森の空気が悲鳴を上げるように軋んだ。




