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55 神威の継ぎ目

 イザナミの身体がふわりと揺れ、その唇がわずかに歪む。

 その瞬間、凪《なぎ》の背筋に明確な「死」の気配が走った。


「悟《さとる》!」


 直後――世界が軋むような感覚が襲った。

 衝撃で悟《さとる》の身体が半歩後ろへ滑る。


「間一髪、か……」


 低く、押し殺した声。

 悟《さとる》は両腕を突き出し、何もない虚空を全力で押し返していた。


 しかし――凪《なぎ》には、そこに存在するものが見えている。

 骨を軋ませる重圧、肌を焼き切る呪詛。

 イザナミの“透明な手”が、逃げ場を奪うように三人の頭上から押し迫っていた。


「めんどくさいなぁ、ツクヨミ……」


 黒髪を夜風に揺らし、イザナミは退屈そうに首を傾げた。

 その足元から、どろりと黒い霧が溢れ出す。

 霧は地を這い、うねりながら凪《なぎ》たちの周囲に集まり始めた。


「――みっこ!!」


 凪《なぎ》の声に応えるように、未久《みく》の身体が低く鳴動した。

 光の尾を引く流星が、実体化しつつある影の群れへと突っ込む。


「うん、それも……知ってる」


 イザナミの瞳が愉悦に細められた、次の瞬間。


「あうっ!!」


 鈍い衝撃音とともに、未久《みく》の身体は弾き飛ばされた。

 何が起きたのかもわからずに転がる未久《みく》の前で、黒い霧は瞬く間に“軍勢”へとその姿を変える。


「それ――黄泉《よもつ》軍《いくさ》っていうの」


 イザナミが無邪気に言い放つ。


 鎧を身につけた屈強な男のシルエット。

 かつて未久《みく》が打ち破った黄泉醜女《よもつしこめ》とは、まるで桁違いの威圧感だ。


 未久《みく》が体勢を立て直すよりも早く、軍勢は一気に間合いを詰めてその四方を封じた。

 即座に未久《みく》は光を弾けさせ、包囲をこじ開けようとする。

 だが――突破口は生まれない。

 押し寄せる影が幾重にも行く手を塞ぐ中、未久《みく》はただ一人孤立していた。


「みっこ!!」


 凪《なぎ》が声を張り上げる。

 しかし――闇の中でもがく未久《みく》に、その声が届いているかはわからない。


「どうするの? せっかくの力も、これじゃ意味ないよね?」


 イザナミは微笑を浮かべ、楽しげに肩を揺らした。


 未久《みく》と悟《さとる》を封じられ、自由に動けるのは凪《なぎ》一人。

 残る手は―― “黄泉《よみ》の道”だけだ。


 凪《なぎ》はイザナミに意識を向ける。

 そして、その足元の地面を精神の力で強く掴んだ。


 地面に亀裂が走り、冥界の風が巻き起こる。

 続いて穴の底から無数の白い腕が伸び、イザナミの首や腕に絡みついた。


 ――だが。


 触れた瞬間、腕は音もなく蒸発した。


「……っ!?」


 凪《なぎ》の瞳に、戦慄の色が浮かぶ。


「だから、言ったでしょ? “意味ない”って」


 イザナミが微笑む。その瞳は、冷たく深い闇に満ちていた。


「私はもう、凪《なぎ》の知ってる私じゃない」


 イザナミの影が不自然にぶれる。

 それは二重に揺らぎながら、内部から軋むような不協和音を撒き散らした。

 透明な重圧はさらに強さを増し、悟《さとる》の足を地面へとめり込ませる。


「く……っ!」


 終わらない。

 ただこちらの命が削られていくだけの消耗戦。


 ――どうする。


 力では勝てない。

 凪《なぎ》は、イザナミを射抜くように見据えた。


「……!?」


 黒い霧の奥に、ほんのわずかな違和感があった。

 イザナミの内部――表面から見えない部分で、空間の縫い目のような歪みが脈動している。


 彼女の神格は完全ではない。

 未来の自分を喰らい、無理やり一体化したその存在には、必ず歪みが生じる。

 神と神が重なる境界線。そこには、まだ馴染みきっていない“継ぎ目”があるはずだ。


 凪《なぎ》は深く息を整えた。


「悟《さとる》、あと十秒持たせてくれ!」


「じゅ、十秒!?」


「……頼む!」


 凪《なぎ》の内に宿るアマテラスの光。

 それを一点に凝縮するには、十秒という永劫に近い集中が必要だった。


 悟《さとる》は一瞬だけ凪《なぎ》に視線を向け、血の滲む口元をわずかに上げた。


「上……等だ」


 十秒。


 凪《なぎ》は目を閉じ、時間の奔流を掴む。

 イザナミの中で軋む二つの鼓動、交錯する“過去”と“未来”。

 そこに――爪を立てる。


 九。


 八。


 七。


 悟《さとる》の腕から、血が滴る。


 六。


 五。


 四。


 未久《みく》が押さえつけられながら叫びをあげる。


 三。


 二。


 一。


 凪《なぎ》の身体が、光を帯びる。


「……そこだ!!」


 イザナミの身体の深部、指先ほどの極小の裂け目。

 未来と過去が重なり合う“継ぎ目”へと、凪《なぎ》は太陽の光を撃ち込んだ。


 視界が白く飛ぶ。

 闇が大きく揺れ、空気が震える。


 悟《さとる》を押さえつけていた透明な手の圧が、わずかに緩んだ。


「悟《さとる》!」


「任せろ!!」


 溜め込まれていた力が反転し、爆発する。

 悟《さとる》は大きく声を上げ、全身の力で押し返した。


 負の質量が逆流し、咆哮とともにイザナミへ叩きつけられる。


 イザナミの瞳が、かすかに泳いだ。

 ほんの僅か。

 それでも確かな、動揺があった。


 この一瞬を、絶対に逃がさない。

 どれほど傷つこうと、魂が擦り切れようと、構わない。


 凪《なぎ》は大きく息を吸い込んだ。



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