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54 二柱分の厄災

 心臓が、ひときわ大きく脈打った。


 振り返るよりも早く、凪《なぎ》はその声の主を理解していた。

 夜の湿度に溶け込む、甘く柔らかな声。

 脳が、魂が、その響きを記憶している。


「紗《さ》――イザナミ……!」


 月明かりが少女の姿を青白く照らし出す。


 八月十三日。終わりが近付いていることを、まだ知らなかった夜。

 あの日と同じ薄手のパーカーが、月明かりに揺れている。

 見慣れた顔。見慣れた立ち姿。


 それは今、この場所で最も出会ってはいけない相手だった。


 紗名《さな》の視線が、凪《なぎ》の後ろでうずくまる“影”へと向けられる。

 崩れ、歪み、輪郭を失いかけたもう一人のイザナミ。

 紗名《さな》はそれを見下ろし、小さく首を傾げた。


「――そ(・)れ(・)、私、だね」


 影がびくりと反応し、後ずさる。

 崖の縁で小石がぱらぱらと闇へ落ち、音もなく消えた。


 凪《なぎ》は息を止めた。

 不用意な言葉を発すれば、この薄氷のような均衡は一瞬で崩れる。


「……そっか。この先、私は失敗するんだ」


 紗名《さな》は、状況を一瞥しただけで理解したようだった。

 自嘲とも諦めともつかない笑みが、その唇に浮かぶ。


「やっぱりかあ。凪《なぎ》が“鏡”に気付いた時点で、もう詰みだったんだね」


 夜風がにわかに勢いを増した。

 周囲の木々がざわめき、雲が月を蔭らせる。


「”次”からは――気をつけなきゃ」


 その軽さが、逆に恐ろしかった。

 凪《なぎ》たちが必死に抗い、血を吐く思いで辿り着いたこの“今”ですら、彼女にとってはやり直し可能な一局面に過ぎない。


「それにしても――」


 紗名《さな》は凪《なぎ》の背後に控える二人へ、品定めするような視線を送る。


 片や、静かに夜を纏う少年。

 片や、荒々しい風を従える少女。


「ツクヨミに、スサノオ……それに凪《なぎ》は、アマテラス? ずいぶん揃ってるね。

 ねぇ凪《なぎ》、『あの人』は? 凪《なぎ》の中の――イザナギはどうしちゃったの?」


 胸の奥をえぐるような問いだった。


 答えられない。

 答えてはいけない。


 代わりに、背後の影が、かすかに震えた。


「……だいぶ削られてるみたいだね、その“絞りカス”」


 声音が変わる。

 柔らかい少女の仮面が剥がれ落ち、底知れない神の冷徹さが滲み出す。


「だったら――」


 瞬間、紗名《さな》の輪郭が陽炎のように揺らいだ。


 白い肌の内側から、墨のような闇が滲み出す。

 結んでいた髪はほどけて闇を撒き散らし、足元からは意思を持つ泥のような触手が無数に湧き出した。


 その触手が素早くもう一体のイザナミへと伸びる。


「やめろ……っ!」


 凪《なぎ》の叫びは、わずかに遅れた。


 黒い触手は、抵抗する力すら残っていない“影”を無造作に絡め取ると、力任せに引き寄せた。

 救いを求める最後の叫びか、奈落への道連れか――影は凪《なぎ》へ手を伸ばす。


 だが、届かない。

 その手は凪《なぎ》に届く僅か手前で、空を切った。


 吸い込まれていく。呑み込まれていく。

 闇が溶け合い、境界が消える。


 悲鳴さえなかった。

 ただ不気味な音だけが耳鳴りのように響き、“失敗したイザナミ”が、紗名《さな》の輪郭の中へと還っていく。


 やがて――闇は収束し、ひとつの形を成した。

 そこに立っていたのは、紗名《さな》の面影を残した何か。

 その瞳は、深海の底よりも暗い。


「――なんだ、結構“力”、残ってるじゃない」


 自らの掌を握り締め、イザナミは確かめるように微笑む。


 空気が変わった。

 重圧が、桁違いだ。


 今のイザナミは、二体分――いや、それ以上。

 欠けていたはずの神格が無理やり縫合された、歪な存在。


「反則……だろ、こんなの」


 低く呟いたのは悟《さとる》だった。

 その額を汗が伝う。


「うん、反則。だって私、神様だから」


 イザナミは楽しげに応じながら、ゆらりと一歩踏み出した。

 その足元から、黒い波紋が広がる。


「ねえ凪《なぎ》。あなたは、どっちを選ぶの?」


 甘く、優しい声。


「私を殺す? それとも――」


 闇が膨らむ。


「私を、救ってくれる?」


 凪《なぎ》の胸が、締め付けられるように痛んだ。


 目の前にいるのは怪物だ。世界を覆う厄災だ。


 しかし、凪《なぎ》は知っている。

 笑うとき、ほんの少しだけ右の頬が先に上がることも。

 強がるときほど、左手の袖をぎゅっと握りしめることも。


「――凪《なぎ》」


 悟《さとる》の声が、背中を押す。もう、時間はない。


 イザナミの両手が開かれ、空が軋む。闇の渦が生まれ、星々が震える。


 凪《なぎ》は、一歩前に出た。


 恐怖は消えない。死の予感が背骨を這い上がる。

 それでも。


「――黄泉《よみ》に、還れ」


 はっきりと、言った。


 一瞬だけ。

 イザナミの瞳に、揺らぎが走った。

 だが次の瞬間、闇が再びそれを覆い尽くした。


「もう遅いよ、凪《なぎ》」


 世界が、大きく傾く。

 二柱分の厄災が、夜を塗り潰す。


 ――それでも凪《なぎ》は、まだ前を向いていた。



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