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53 揺らぐ覚悟

 崖の縁に立つ影は、追い詰められていた。


 背後には深い谷、正面には凪《なぎ》たち。

 逃げ道はどこにもない。


 あとは凪《なぎ》が“道”を開くだけだった。

 黄泉《よみ》へと続く、あの黒い裂け目。


 凪《なぎ》は息を整え、ゆっくりと口を開いた。

 唇から、人の世のものではない言葉がこぼれる。


 地面がじわりと黒く染まり、風が巻き上がった。

 その中心に立つのは、己の欲望のためにこの世の理《ことわり》さえ塗り替え、凪《なぎ》たちの未来を好き勝手に踏みにじってきた存在。


 だが。


 凪《なぎ》は、そこで言葉を止めた。

 開きかけた道がすっと閉じ、静寂が周囲を包む。


「……凪《なぎ》?」


 悟《さとる》の声が、かすかに震えていた。

 凪《なぎ》は拳を固く握りしめ、目の前の影を凝視する。


「……なんでだよ」


 かすれた声。


 月光に透けるイザナミの姿は、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。

 凪《なぎ》は、自分の心に湧きあがる異質な感情に戸惑っていた。


 ――怖く、ない。


 抗う気すら起こさせない圧迫感も、背筋が凍るような絶望も、そこにはなかった。


 今、凪《なぎ》の目の前に立っているのは、巨大な怪物などではなく――

 牙を失って蹲《うずくま》る、傷ついた獣だった。


「なんで、反撃してこないんだよ。今までのお前なら、迷わず俺たちを殺しにきただろ」


 イザナミは答えない。


「逃げるにしてもさ……こんな崖ぐらい、簡単に飛び越えられるはずだろ」


 イザナミは沈黙を貫く。

 凪《なぎ》は唇を噛んだ。


 張り詰めた静寂が、二人の間を支配する。


「江戸時代の“あれ”で、かなり力を使ったのか……?」


 悟《さとる》が小さく呟いた。


「だから、待ってたのか……? こっちの紗名《さな》に気付かれず、確実に一撃で終わらせられるタイミングを」


 前に対峙したときのような強大な力は、もう感じられない。

 こんな状態ではこの時点での凪《なぎ》を殺すのもやっとだろう。


「紗名《さな》の身体を乗っ取って、何千回もループを繰り返して……それで行き着いたのが、これかよ。こんな、惨めな幕引きかよ……!」


 削れ、すり減り、残った力はわずか。


 だからこそ、力が覚醒する前の凪《なぎ》を標的とせざるを得なかったのだろう。

 神としての矜持さえ投げ捨てた、泥を這うようなその姿に――胸の奥が軋んだ。


「結局、今のお前にはそれしかなかったってことか……」


 凪《なぎ》の奥歯が、ぎしりと音を立てる。


 こいつは敵だ。


 だが――


 指先に力が入らない。

 どうしても、気持ちが前に進まない。


「……凪《なぎ》」


「わかってる」


 凪《なぎ》は深く息を吐き、ゆっくりと両手を前へ伸ばす。

 目を閉じて再び言葉を紡ごうとしたその瞬間。



「なに、してんの?」



 背後の茂みががさりと揺れ、聞き覚えのある声が響いた。



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