52 誤算
湿り気を帯びた空気が、頬を静かに撫でた。
凪は息を整え、ゆっくりと目を開ける。
土の匂いと、燃え尽きた灰の匂い。
見慣れた山のキャンプ場だ。
しかし――
「えっ……!? なんで夜!?」
思わず声が裏返る。
凪たちが“飛んだ”のは九月六日の夜七時すぎ。
日は沈みきっていたが、空にはまだわずかに明るさが残っていたはずだ。
だが今、目の前には濃紺を通り越した漆黒の闇が広がっている。
「今……何時だ!?」
震える手でスマートフォンを取り出す。
圏外を示していた表示がアンテナ表示に変わるとともに、ロック画面の表示がふっと書き換えられた。
8月13日 日曜日
22:27
「なんだ、これ……! 同じ時間に出るんじゃないのかよ!?」
振り返ると、悟も顔色を失っていた。
「俺も、そのつもりだった。なのに……」
「どうすんだよ!? 十時って……もう俺も紗名もテントに戻ってる!」
自分で言って、背筋が凍った。
テントの中で、無防備に眠る“もうひとりの自分”。
そこへ、あの影が忍び寄っていたら――
「……ごめん! 本当に、ごめん!!」
悟の口から、責任に押し潰されそうなかすれた声が漏れる。
「どうしよう……間に合わなかったら……」
「俺のミスだ。同じ時刻に出ると――思い込んでた」
「もう……じっとしてる場合じゃ――」
「ふたりとも! 静かに」
未久の声が、二人の言葉をぴしゃりと断った。
「凪ちゃん、生きてるじゃん! ここにいるじゃん!
ってことは、こっちの凪ちゃんは無事ってことでしょ?」
その一言が、不思議なほどすっと胸に落ちた。
確かに、こうして自分は存在している。
ならば、まだ取り返しはつく。
凪は深く息を吐き、テントを見ながら呟いた。
「そうか、そうだな……ここからなら、何かあればすぐ動ける」
その言葉に、悟も力強く頷く。
「最悪、俺が飛び込んででも止める」
その声には、起こしてしまった失敗を何としても取り戻そうとする悟の、強い覚悟が滲んでいた。
三人は茂みに身を沈め、周囲を窺った。
川沿いの一角に据えられた焚き火台。
火はすでに消え、灰だけがかすかに白く残っている。
そのすぐ脇に建つ、凪たちのテント。
あの中に、もうひとりの自分がいる。
「凪……居場所、察知できるか?」
凪は目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ました。
風の流れ、土の匂い、虫の羽音――その奥に潜む、異質な気配。
……いる。
確かに、いる。
だが――
「ダメだ。“いる”のは分かるんだけど薄すぎて……この山全体から絞り込めない」
「みっこがびゅんって、ひとまわりしてこようか!?」
「……だめだよ、お前光るだろ」
力を解放すれば、未久の身体は神々しい光を放ってしまう。
それでは索敵どころか、こちらの位置を知らせるようなものだ。
凪の言葉に肩を落とす未久。だが彼女はすぐに、顔を上げた。
「じゃあ目だけ。ちょっとだけ!」
「目だけ!? そんなことできんのか?」
「うん、昭和にいたとき、夜の見張りでやってたの。体は光らせないで、視界だけちょっと拡げる感じ」
未久は大きく息を吸い、目を見開いた。
瞳の奥に、ほんのわずかな光が宿る。しかし彼女の言った通り、その身体までは光っていない。
「ほら、ね?」
「確かにこれなら……大丈夫そうだな」
未久の視線がゆっくりとキャンプ場をなぞる。
凪も悟も息を殺し、その動きをじっと追った。
そして――
「――いた!!」
未久の口から、かすかな声が漏れた。
キャンプサイトを挟んで、反対側の茂み。
言われてようやく、そこだけが他よりも闇が濃いと分かる。
「……動かないな」
「完全に寝入るのを待ってるんだろ」
悟が低く呟く。
「やっぱり、“こっちの自分“が怖いのか」
「でも……慎重でいてくれて、助かったな。今なら先手を打てる」
凪は頷いた。
悟は影を睨んだまま、静かに言った。
「凪。あの“黄泉の道”――離れた場所にも出せるか?」
「それはちょっと……わからない」
「もしできるなら、あいつの真下に道を繋げてくれ。番人が押さえつけてくれているうちに、俺たちで決める」
「……やってみる」
凪は影に意識を集中させた。
まるで見えない糸を手繰るように、遠くの地面を“掴む”。
闇の奥。影の下。
――そこだ。
「いくぞ――」
道を繋げるための言葉を、小さく紡ぐ。
遠い地面が、わずかに歪んだ。
その瞬間。
ザッ――
「あっ!」
影が弾けるように動いた。
黄泉への道が開くよりも早く、影は茂みを蹴って闇の奥へ消える。
「気づかれた!」
「追うぞ!」
三人は同時に飛び出した。
影との距離は開いている。
茂みの中を追走する凪たちが追いつくのは容易ではないが――
「凪ちゃん! 右!!」
未久の視界が影を捉え、先を読む。
凪たちは進路を変えながら、林の間を駆け抜けた。
森の奥へ、さらに奥へ。
枝が顔を叩き、足元の石に躓きかけながらも、凪たちは追い続けた。
やがて木々が途切れ、視界が開ける。
影は、そこにいた。
そこは断崖絶壁――その先は深い谷。
逃げ場は、もう、どこにもない。
影がゆっくりと振り返る。
同時に、雲間から現れた白い月があたりを照らし出した。
黒い女の輪郭が浮かび上がる。
長い髪が、風もないのにゆらりと揺れた。
顔はない。ただ、底なしの闇。
だがその“視線”が、確かに凪を射抜いた。
「イザナミ……」
名が、自然と唇からこぼれた。
月光の下、影は微動だにしない。
凪は一歩、前に出た。
もう、失敗はしない。
喉の奥で、黄泉へと繋がる言葉を紡ぐ。
恐れからか、それとも反撃の兆しなのか――
影の輪郭が、わずかに揺らいだ。




