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 湿り気を帯びた空気が、頬を静かに撫でた。


 凪《なぎ》は息を整え、ゆっくりと目を開ける。


 土の匂いと、燃え尽きた灰の匂い。

 見慣れた山のキャンプ場だ。


 しかし――


「えっ……!? なんで夜!?」


 思わず声が裏返る。


 凪《なぎ》たちが“飛んだ”のは九月六日の夜七時すぎ。

 日は沈みきっていたが、空にはまだわずかに明るさが残っていたはずだ。

 だが今、目の前には濃紺を通り越した漆黒の闇が広がっている。


「今……何時だ!?」


 震える手でスマートフォンを取り出す。

 圏外を示していた表示がアンテナ表示に変わるとともに、ロック画面の表示がふっと書き換えられた。



 8月13日 日曜日

 22:27



「なんだ、これ……! 同じ時間に出るんじゃないのかよ!?」


 振り返ると、悟《さとる》も顔色を失っていた。


「俺も、そのつもりだった。なのに……」


「どうすんだよ!? 十時って……もう俺も紗名《さな》もテントに戻ってる!」


 自分で言って、背筋が凍った。

 テントの中で、無防備に眠る“もうひとりの自分”。

 そこへ、あの影が忍び寄っていたら――


「……ごめん! 本当に、ごめん!!」


 悟《さとる》の口から、責任に押し潰されそうなかすれた声が漏れる。


「どうしよう……間に合わなかったら……」


「俺のミスだ。同じ時刻に出ると――思い込んでた」


「もう……じっとしてる場合じゃ――」


「ふたりとも! 静かに」


 未久《みく》の声が、二人の言葉をぴしゃりと断った。


「凪《なぎ》ちゃん、生きてるじゃん! ここにいるじゃん!

 ってことは、こっちの凪《なぎ》ちゃんは無事ってことでしょ?」


 その一言が、不思議なほどすっと胸に落ちた。


 確かに、こうして自分は存在している。

 ならば、まだ取り返しはつく。


 凪《なぎ》は深く息を吐き、テントを見ながら呟いた。


「そうか、そうだな……ここからなら、何かあればすぐ動ける」


 その言葉に、悟《さとる》も力強く頷く。


「最悪、俺が飛び込んででも止める」


 その声には、起こしてしまった失敗を何としても取り戻そうとする悟《さとる》の、強い覚悟が滲んでいた。



 三人は茂みに身を沈め、周囲を窺った。


 川沿いの一角に据えられた焚き火台。

 火はすでに消え、灰だけがかすかに白く残っている。

 そのすぐ脇に建つ、凪《なぎ》たちのテント。


 あの中に、もうひとりの自分がいる。


「凪《なぎ》……居場所、察知できるか?」


 凪《なぎ》は目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ました。

 風の流れ、土の匂い、虫の羽音――その奥に潜む、異質な気配。


 ……いる。


 確かに、いる。


 だが――


「ダメだ。“いる”のは分かるんだけど薄すぎて……この山全体から絞り込めない」


「みっこがびゅんって、ひとまわりしてこようか!?」


「……だめだよ、お前光るだろ」


 力を解放すれば、未久《みく》の身体は神々しい光を放ってしまう。

 それでは索敵どころか、こちらの位置を知らせるようなものだ。


 凪《なぎ》の言葉に肩を落とす未久《みく》。だが彼女はすぐに、顔を上げた。


「じゃあ目だけ。ちょっとだけ!」


「目だけ!? そんなことできんのか?」


「うん、昭和にいたとき、夜の見張りでやってたの。体は光らせないで、視界だけちょっと拡げる感じ」


 未久《みく》は大きく息を吸い、目を見開いた。

 瞳の奥に、ほんのわずかな光が宿る。しかし彼女の言った通り、その身体までは光っていない。


「ほら、ね?」


「確かにこれなら……大丈夫そうだな」


 未久《みく》の視線がゆっくりとキャンプ場をなぞる。

 凪《なぎ》も悟《さとる》も息を殺し、その動きをじっと追った。


 そして――


「――いた!!」


 未久《みく》の口から、かすかな声が漏れた。


 キャンプサイトを挟んで、反対側の茂み。

 言われてようやく、そこだけが他よりも闇が濃いと分かる。


「……動かないな」


「完全に寝入るのを待ってるんだろ」


 悟《さとる》が低く呟く。


「やっぱり、“こっちの自分“が怖いのか」


「でも……慎重でいてくれて、助かったな。今なら先手を打てる」


 凪《なぎ》は頷いた。

 悟《さとる》は影を睨んだまま、静かに言った。


「凪《なぎ》。あの“黄泉の道”――離れた場所にも出せるか?」


「それはちょっと……わからない」


「もしできるなら、あいつの真下に道を繋げてくれ。番人が押さえつけてくれているうちに、俺たちで決める」


「……やってみる」


 凪《なぎ》は影に意識を集中させた。

 まるで見えない糸を手繰るように、遠くの地面を“掴む”。


 闇の奥。影の下。


 ――そこだ。


「いくぞ――」


 道を繋げるための言葉を、小さく紡ぐ。

 遠い地面が、わずかに歪んだ。


 その瞬間。


 ザッ――


「あっ!」


 影が弾けるように動いた。

 黄泉《よみ》への道が開くよりも早く、影は茂みを蹴って闇の奥へ消える。


「気づかれた!」


「追うぞ!」


 三人は同時に飛び出した。


 影との距離は開いている。

 茂みの中を追走する凪《なぎ》たちが追いつくのは容易ではないが――


「凪《なぎ》ちゃん! 右!!」


 未久《みく》の視界が影を捉え、先を読む。

 凪《なぎ》たちは進路を変えながら、林の間を駆け抜けた。


 森の奥へ、さらに奥へ。

 枝が顔を叩き、足元の石に躓きかけながらも、凪《なぎ》たちは追い続けた。


 やがて木々が途切れ、視界が開ける。


 影は、そこにいた。


 そこは断崖絶壁――その先は深い谷。

 逃げ場は、もう、どこにもない。


 影がゆっくりと振り返る。

 同時に、雲間から現れた白い月があたりを照らし出した。


 黒い女の輪郭が浮かび上がる。

 長い髪が、風もないのにゆらりと揺れた。


 顔はない。ただ、底なしの闇。

 だがその“視線”が、確かに凪《なぎ》を射抜いた。


「イザナミ……」


 名が、自然と唇からこぼれた。


 月光の下、影は微動だにしない。


 凪《なぎ》は一歩、前に出た。


 もう、失敗はしない。


 喉の奥で、黄泉《よみ》へと繋がる言葉を紡ぐ。


 恐れからか、それとも反撃の兆しなのか――

 影の輪郭が、わずかに揺らいだ。



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