51 沈黙の視線
平成二十九年、八月十三日。
山の夜は、容赦なく音を削ぎ落とす。
賑やかだったキャンプ場は夜気に沈み、湿り気を含んだ闇と、虫たちの鳴き交わす単調なリズムだけがその場を満たしている。
焚き火の跡は白く冷え、染みついた煙の匂いだけがかすかに漂っていた。
風が木々を揺らし、低く鈍い音を立てる。
キャンプ場の端、川沿いの一角。
そこには二張りのテントが、肩を寄せ合うように並んでいた。
吊るされたランタンはすでに消され、周囲は完全な闇に包まれていた。
遠くから、砂利を踏む足音が静かに響く。
続いて聞こえる男女のささやき声。
声に合わせて揺れ動くスマートフォンの光が、二人の姿を浮かび上がらせた。
凪と紗名。
二人は言葉少なに視線を交わし、それぞれ別のテントへと向かう。
ファスナーが短い金属音をたて、それに続いて布が揺れる。
しばらくは物音が続いたが、それもやがて止み――
夜は、再び元の形を取り戻した。
人も、木々も、そして山も――今は等しく、眠りにつくはずの時間。
だが、その静寂には異質な気配が混ざっていた。
刺すような冷気と、意識の奥をなぞる違和感。
周囲に広がる自然とは、決定的に噛み合わない不調和。
それは――“視線”だった。
粘着質で、逃げ場のない視線が、テントの並ぶ一角へと注がれている。
視線の主は、黒い影。
光の届かぬ山中で、闇に溶け込むように佇む存在。
その輪郭は曖昧で、見る者の認識を頑なに拒む。
意識しなければ、そこにあることさえ感じられないほどだった。
影は動かない。
ただ、そこに“在る”。
風が枝を揺らし、虫の羽音がすぐ傍をかすめても――それらすべてを受け流し、夜と完全に同化していた。
影は、待っていた。
ただじっと、そこに座して。
ただじっと、そこに伏して。
時機が訪れるその瞬間を――影は、待ち続けていた。
テントの薄い布越しに、微かな寝息が漏れる。
それでも影は、何の反応も示さない。
山は何も語らず、夜はただ深さを増していく。
やがて訪れる出来事を、拒むことも、急かすこともせずに。
黒い影は、なおも待ち続けていた。
今はまだ、何も起きていない。
だがそれは、束の間の平穏にすぎなかった。
夜は静かに、しかし確実に形を変えつつある。
闇は確かに、すぐ傍で――息を殺して待ち構えていた。




