50 終局への歩
夏の終わりを告げる景色が、フロントガラスの向こうに流れていく。
遠ざかる町並み、増えていく山影。
信号はいつの間にか見当たらなくなり、空はゆっくりと夕暮れの色へと染まっていった。
凪は、膝の上で拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込み、じん、と小さな痛みが走る。
――遠い。
町立病院からキャンプ場までは、車を使ってもそれなりに時間がかかる。
理屈では分かっていても、心は焦りを止めてくれなかった。
もし、こうしている間にイザナミが動いたら――
そう考えると胸の奥がざわついて、じっとしていられなくなる。
「凪」
後部座席から、悟が話しかける。
その声はいつも通りの落ち着いた調子だった。
「そんなに焦らなくても、大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないだろ!」
凪は思わず振り返った。
「あいつはもう、その気になればすぐにでも俺たちを襲えるんだぞ。今だって、何をしてるかわかったもんじゃ――」
「いや」
悟は慌てる様子もなく、静かに言葉を続けた。
「あのキャンプには、紗名――つまり“イザナミ”も参加していただろ?」
「……だから?」
「その時点で簡単に手出しはできないよ」
凪は眉をひそめた。
「……どういう意味だ」
「彼女の性格からして、もうひとりの自分は単なる“邪魔者”だ」
悟は、断言するように言った。
「もし出会えば、必ず対立する。自分の居場所を守るために、排除しようとするはずだ」
もし八月十三日の凪が、他の時間から来たイザナミに殺されたら――
あちらのイザナミは、凪を『奪われる』ことになる。
本当にそうなるのか、悟自身にも確信はない。
だが胸の奥で、もうひとつの思考――ツクヨミの声が、そう告げていた。
「だから、イザナミが行動を起こすとしたら――」
悟は少しだけ間を置いた。
「みんなが寝静まったあとだ」
「寝静まった、あと……」
頭の中でその時間帯を思い返す。
「あの日は……俺、なかなか寝付けなくて。テントを出て、紗名と少し話してた」
「それ、何時ぐらいだ」
「確か……十時ぐらいにはテントに戻った」
悟が小さく頷いた。
「じゃあそれまでは、おそらく……安全だ」
断言はできない。それでも、確かな指標が一つできただけで、凪の胸のざわめきは少しだけ和らいだ。
意識を澄ますと、自分の内側からも似た感覚が伝わってくる。
焦るな。まだ、間に合う。
内なる声はそう告げているように感じられた。
キャンプ場に到着した頃には、空は既に濃い橙色に染まっていた。
人気のない駐車場に入り、車を降りる。
風が涼しく、草の匂いが濃い。
凪たちは整地された区画を離れ、脇の林へと足を踏み入れた。
「……よし」
悟は二枚の鏡を取り出すと、目を閉じた。
その手から優しい光があふれ出し、鏡を包み込む。
それは数秒で落ち着き、鏡の中に静かに収まった。
「これで――この鏡を使って八月十三日に飛べる」
悟は顔を上げ、穏やかにそう告げた。
「……ねえ」
未久が、おずおずと手を挙げる。
「イザナミを見つけたとして……それからどうすればいいの?」
「それは……」
悟が考え込む。
「正直、俺たちだけでどうにかできるかは分からない。
あの『黄泉への道』も、菊枝がいないと――」
「あ、それなら……多分大丈夫」
凪が一歩前へ踏み出した。
地面に向かって、そっと手をかざす。
あの時――社殿の奥に向かって、菊枝が囁いていた言葉。
意味の分からなかった音の連なりが、今ははっきりと理解できる。
凪が低く言葉を紡ぐと、地面に異変が起きた。
地面の一部に影が落ちたように黒く染まり、それがじわじわと広がっていく。
「……っ」
悟と未久が思わず後ずさる。
地面の影はその黒さと範囲を増し、やがて大きな穴のように広がった。
風が巻き起こり、舞い上げられた落ち葉がその中へ吸い込まれていく。
闇の奥が妖しく蠢き、穴の中から痩せこけた腕が――
「あっ、ごめ……! ストップ!」
凪が慌てて声を上げる。
「これ、練習だから!!」
その瞬間、腕はぴたりと止まり、名残惜しそうにしゅるしゅると闇の中へ引っ込んでいった。
凪が手を下ろすと穴は嘘のように消え、地面は元の姿に戻る。
「……やば。『番人さん』まで呼び出すつもりはなかったんだけど……」
「なにやってんの凪ちゃん!」
「いきなりだったから驚いたぞ」
「……すまねぇ」
二人から責められ、凪はがっくりと肩を落とした。
その様子を見て、悟が小さくため息をつく。
「でもなんか、俺たち……いつの間にかとんでもないことになってるな」
ツクヨミの力を宿した悟。
アマテラスの力を宿した凪。
そして――
「みっこだって、ほら!」
ぶうん、と低い音を立てて、未久の身体が眩く発光する。
「やめとけ。寿命減るぞ」
「なんでっ!? なんでみっこだけ力使ったら寿命減るのっ!?」
必死な声に、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
小さな笑いが、三人の間に落ちた。
「さて、と。じいちゃん」
「…………」
「……じいちゃん!!」
「――んおっ!? な、なんだ」
呆気に取られていた善三がようやく我に返る。
「紗名のこと――頼む」
「ああ」
善三は深く息を吐き、凪の顔を正面から見据えた。
「向こうには向こうの『お前たち』がいる。何が起こるかわからん。できるだけ、鉢合わせない方がいいだろう」
「わかった」
凪は短く答え、鏡を設置する。
冷たい鏡面に、群青に沈みかけた空が映り込んでいた。
「よし……」
凪は振り返り、二人の顔を見た。
怖さはある。
だが、迷いはなかった。
いや――迷いがないと思うことを、凪は無意識に選んでいた。
「行こう!!」
三人の足元で、鏡の光が、静かに世界を裏返し始めた。




