49 帰還
平成の曳石神社は、静まり返っていた。
かつて凪たちが秘密基地と呼んでいた場所。
社殿の中には、幼い頃の自分たちが持ち込んだ品々がそのまま残されている。
だが今は、感傷に浸っている暇はない。
「急ごう」
そう言って、凪が扉に手を伸ばしたその瞬間。
――ドン! ドン! ドンッ!!
何者かが、外側から社殿の扉を激しく叩いた。
「……っ!」
脳裏をよぎったのは、黄泉から逃れた女神の名。
先に平成へとたどり着いた彼女が、ここで待ち伏せしていたとしても何の不思議もない。
だが――次に聞こえてきた声は、あまりにも聞き慣れたものだった。
「凪!! いるんだろ、凪っ!」
「――じいちゃん!?」
扉を開けると、そこに立っていたのは善三だった。
深く刻まれた皺、少し丸くなった背中。それでも、目の奥に宿る鋭い光は昔のままだ。
安堵のあまり、全身の力が抜けそうになる。
だが再会の喜びに浸る間もなく、善三は凪の肩を掴んでまくし立てた。
「紗名は大丈夫か? 下に車を用意してある。すぐ病院に向かうぞ!」
「えっ? えっ? じいちゃん、なんで……?」
混乱する凪に、善三は間髪入れずに答えた。
「昭和のあの日、一緒におっただろうが。もっとも、こっちでは八十年経っちまったがな」
平成二十九年、九月六日。
昭和の善三が、別れ際に告げた“再会の日”。
それがまさに、“今”なのだ。
「お前たちが戻ってくる今日という日……この八十年、一日たりとも忘れたことはない」
「じいちゃん……」
善三は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに表情を引き締めた。
「積もる話は後だ。行くぞ!」
山道を下り、善三が用意していた車に全員で乗り込む。
後部座席に紗名を座らせ、隣に未久が寄り添う。
眠っているように静かな呼吸で、顔色も悪くはない――それが、せめてもの救いだった。
助手席に凪、その後ろに悟が乗り込むと、善三は迷いなくアクセルを踏み込んだ。
走り出して間もなく、善三は口を開いた。
「お前たちがこの時代を離れたのは九月二日。つまり丸四日、誰も家に帰っていないことになる」
「うわ……やっぱり、大騒ぎに……」
「なに、心配はいらん」
青ざめる凪に、善三は視線を前に向けたままで答える。
「九月二日の朝から今日まで、お前たちは俺の監督下で野外活動をしていたことになってる」
「……は?」
予想外の言葉に、凪は間の抜けた声を上げた。
「『中津自然の家』。キャンプ場の近くの施設だ。知っとるだろ」
「いや、知ってるけど……でも学校は――」
「もちろん、正式な学校行事として処理してある」
「そんなことできるわけ――」
「問題ない。施設の所長も、お前たちの学校の校長も――どっちも俺の舎弟みたいなもんだ。
俺が『教育の一環で預かる』と言えば、それで通る」
一瞬の沈黙。
完璧でありながら破天荒なその段取りに、皆思わず息を呑んだ。
「でも、紗名ちゃんが――」
後部座席から未久が不安げな声を上げる。
「過労で倒れた、と病院に連絡してある。
――あそこの院長も赤ん坊の頃から知っとるからな。融通は利く」
「……すげぇな、じいちゃん……」
戦後の混乱期を生き抜いた男ならではの、常識外れの人脈と度胸。
凪たちはもう、脱帽する他はなかった。
やがて町立病院に到着すると、紗名はすぐに集中治療室へ運ばれていった。
白い扉が閉まる音が、やけに重く響く。
「紗名ちゃん、だいじょうぶかな……」
未久が祈るように両手を組む。
「今は、信じて待つしかないな」
悟の言葉に、凪は黙って頷いた。
しばらくして、入院の手続きを終えた善三がロビーに戻ってきた。
三人は顔を上げ、その表情を窺う。
「ひとまずは、大丈夫そうだ。紗名の両親にも連絡しておいたから、じき来るだろう」
凪たちは互いに視線を交わし、笑みを向け合った。
「――で、だ。ここで少し、状況を整理させてくれ」
善三は周囲に人がいないことを確認し、声を潜めた。
「イザナミについてだが……やはり、この時代に来てるのか」
その名が出た瞬間、場の空気が張り詰める。
イザナミは黄泉に引き戻される寸前で、紗名の身体を抜け出して江戸時代から平成へと逃亡した。
今もこの時代のどこかで息を潜めているはずだ。
「俺、なんだかイザナミの居場所を感じ取れるようになってるらしいんだ」
そう言って凪は目を閉じ、意識を集中させた。
その名前を、その存在を――頭の中で強く思い浮かべる。
さっき、江戸時代にいた時はおぼろげだったが……今度は頭の中に鮮明にイメージが浮かび上がった。
暗い森と湿った土の匂い。そして、カレンダーの日付。
「八月、十三日……」
気づけば、その日付を口にしていた。
未久が静かに問いかける。
「八月……十三日に、いるの?」
「あぁ……間違いない」
「俺たちがキャンプに行ってた日――そうか」
悟は何かに気づいたような表情を浮かべ、言葉を続けた。
「イザナミは、アマテラスの力を得た今の凪じゃなくて、少し前の時間軸の……まだ無力だった頃の凪を狙ってるんだ」
「そんな……どうすんの!? 鏡じゃ行けないじゃん!」
未久が顔を強ばらせる。
「多分……俺の出番だ」
悟が静かに言った。
「昭和で壊れた鏡、直しただろ。あの時、鏡の構造というか仕組みというか、その力の本質みたいなものが流れ込んできて――
そのときはよくわからなかったけど、今はしっかり理解できてる」
悟は宙を見つめ、何かを考えるようにしながら言葉を重ねる。
「年代も……日付の微調整も――うん、可能だ」
「場所の指定は!?」
「それは多分、無理。飛んだ場所にそのまま出ちゃうかな」
凪は勢いよく立ち上がり、善三を真っ直ぐに見据えた。
「――じいちゃん!! キャンプ場に、連れてってくれ!」
善三は無言で頷くと、車のキーを取り出した。
「急がなきゃ」
走りながら、凪の声が震える。
「キャンプ場の俺が殺されたら、何も知らずに笑っていた“あの頃の俺”が消えたら――俺たちも、この世界も、全部終わりだ」
過去の自分が消滅すれば、現在の自分も存在しなくなる。
それどころか時代は巻き戻り、リセットされて――イザナミを封じる手段が完全に失われてしまう。
最悪のパラドックスを回避するため、凪たちは再び走り出した。




