47 奪還
「紗名っ……!」
凪は駆け寄り、その名を呼んだ。
紗名は長い睫毛を伏せ、まるで眠ったように横たわっている。
凪は膝をつき、震える手で彼女の肩に触れた。
手のひらに伝わる確かな温もりに、視界が滲む。
その姿には、これまでのような邪悪な気配は感じられない。
だが、それがかえって凪の胸をざわつかせた。
「イザナミは――どうなったんだ?」
その問いに、菊枝が答える。
「――逃げました。紗名さんの体を離れて」
「じゃあ、今ここにいるのは……」
「はい。本来の紗名さんです」
凪は、胸の奥に溜まっていた息をようやく吐き出した。
紗名は生きている。ここにいる。今はそれだけで十分だ。
「ただ――長きにわたり魂を押さえつけられていた影響で、ひどく衰弱しています。目を覚ますまでは少し時間が必要でしょう」
「平成に……連れて帰ろう。現代に戻って、病院に――」
凪は紗名の手を握りしめ、噛み締めるように言った。
未久が小さく頷き、悟も無言で同意を示す。
「危機はまだ去ったわけではありません。十分に気を付けてください。
しかし、あの力があれば――」
「あの……力……」
菊枝は凪の方へ顔を向け、一拍置いて言葉を続けた。
「凪さん。先ほど、あなたの身体から溢れていた光……覚えていますか」
「……ああ」
忘れようにも忘れられない、あの朝日のような温かい光。
絶対に敵わないはずのイザナミを圧倒した、あの力。
「あなたは……アマテラス様の力を宿しています」
「アマ、テラス……」
その名を聞いて、胸の奥に重く確かな現実感が押し寄せる。
「同様に、悟さんはツクヨミ様、未久さんはスサノオ様――
いずれもイザナギ様より生まれた、三柱の神々です」
イザナミは、確かに彼らの名を呼んでいた。
戸惑いはあるが、理解はできる。
「神格そのものが降りてきているわけではなく、『神力』と呼ばれる能力だけを宿した状態ですが――この力は今後も皆さんを助けるでしょう」
これまで幾度となく凪たちを救った、不思議な力。
イザナギの存在を失ったはずなのに、戦えた理由。
すべてが、一本の線で繋がっていく。
確かに、あの力がまだ自分の中にあるのなら――
もう一度、立ち向かえるかもしれない。
しかし、イザナミを退けた理由はそれだけではなかったはずだ。
「さっき、社殿がああなったのは……?」
菊枝は凪の目をまっすぐに見返し、はっきりと告げた。
「あれは、私の……力です」
菊枝の声の調子が、わずかに変わる。
「私は十二歳の誕生日を迎え、ククリヒメとしての神格が完全に覚醒しました。
今の私は城山菊枝であり――ククリヒメです」
参道を吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らす。
凪は息を呑んだ。
「突然の襲来に――井戸へ逃げる時間はありませんでした。
だから私は社殿に駆け込み、結界を張って……黄泉への道を開く準備をしたのです」
菊枝がイザナミに命を狙われた理由。
そして、清吉が菊枝を守ろうとした理由――
凪は、無意識のうちに拳を握りしめていた。
――そうか。
清吉さんは、しっかりと菊枝を守ってくれたんだ。
その結果があの姿だったのだと、今になって理解した。
胸の奥に鈍い痛みが走る。
凪は視線を上げ、枝に絡まった清吉の姿を見上げた。
「……せめて、降ろしてあげないと」
凪の声は低く、硬かった。
「まかせて」
未久が一歩前に出る。
その身体が淡い光に包まれ、次の瞬間、彼女は宙へ跳んだ。
枝に引っかかっていた清吉の身体が、地上へと降ろされる。
凪は駆け寄り、膝をついた。
清吉の顔色は悪く、呼吸も感じられない。
――やはり、遅かったか。
そう思い、胸元へ手を伸ばした、その時。
「……?」
わずかに、指先に伝わるものがあった。
凪は息を止め、もう一度、そっと胸に手を当てる。
――とくん
あまりにも弱く、今にも消えそうな鼓動。
「……生き……てる?」
誰も言葉を発せなかった。
完全に消え失せたはずの希望が、もう一度、かすかに息を吹き返す。
「生きてる!!」
凪の声が弾む。
「清吉さんも、一緒に連れて行こう! 向こうで治療すれば――」
その言葉に、菊枝はそっと顔を伏せ、首を振った。
「……残念ながら、それは叶いません。清吉さんは、この時代と土地に縛られた存在です」
イザナギの分裂により生まれた“分体”である清吉は、時を超えることができない。
菊枝の言葉は、かつて清吉の語った内容と一致した。
「じゃあ……じゃあどうしたら――!」
凪の声に苛立ちが滲む。
「……私が残ります」
菊枝は、迷いなく言った。
「もし命が失われていたなら、戻すことはできないのですが……傷を癒すことだったらできます。
私なら――この場所であっても清吉さんを支えられる」
「でも、ここにいたらイザナミが……」
「いえ、もうこの時代にはいません」
「どこへ――」
「平成、です。今のあなたなら……感じ取れているはずです」
凪の胸が、微かにざわつく。
確かに何かが、遠くで蠢いている――そんな感覚があった。
イザナミは、逃げた。
まだ何も終わってなどいない。
だからこそ、自分たちの中の力もまだ消えていないのだ。
「私も必ず、後を追います」
そう言って、菊枝は清吉の傍らに膝をついた。
凪は紗名をそっと抱き上げ、鏡へと向き直る。
平成の空の下で、再び――
イザナミとの因縁は動き出そうとしていた。




