45 黄泉還し
「本当に、邪魔ばかり……」
静まり返った境内に、イザナミの声が響く。
凪、悟、未久の三人は横一列に並び、数歩先に立つ存在をただじっと見据えていた。
白磁のように透き通る肌。
闇を溶かしたかのような漆黒の髪。
かつて纏っていたはずの神の威厳は、もうどこにもない。
あるのは、歪んだ執着と、焦燥に濁った瞳だけだ。
誰も動かない。いや、動けない。
石畳に落ちた自分の影が、やけに濃く見えた。
「最後に、聞くけど――」
イザナミの視線が三人をなぞり、凪で止まる。
「本当に……私を敵に回すつもりなの?」
凪は答えなかった。
その沈黙に、空気が一段重く沈む。
イザナミは瞬き一つせず、無言で凪を見つめた。
言葉にならない圧が、喉元を締め付ける。
それでも凪は、目を逸らさなかった。
長すぎる沈黙の末――イザナミが何かを言おうと口を開きかけた、その瞬間。
ばたん、と乾いた音が境内に響いた。
「……っ!?」
イザナミが弾かれたように振り返る。
瞬間、その表情に浮かんだのは、紛れもない動揺だった。
「菊……枝……」
イザナミの喉から、押し殺したような声が零れる。
社殿の扉が開かれ、その脇に菊枝が立っていた。
小柄な身体。華奢な肩。
その視線は、真っ直ぐにイザナミを捉えていた。
彼女は一度だけ凪へと視線を送り、何も言わず社殿へ向き直った。
唇が微かに動き、祈りとも呪いともつかない言葉が社殿の奥に飲み込まれていく。
次の瞬間――空気が、震えた。
風が渦を巻き、土埃が舞い上がる。
木々が軋むような音を立ててざわめいた。
社殿の中は見えない。
そこには、光を拒絶するような深い闇が広がっていた。
「……まさか……」
イザナミが呟くのと同時に、闇の奥から一本の手が伸びた。
土気色の肌と黒く長い爪。
異様に長く、不自然に細い。
続けて二本、三本――
腕は次々に現れ、やがて無数の腕が社殿を埋め尽くした。
「……な、なに、あれ……」
未久が声を震わせる。
「この社殿は今――黄泉へと繋がっています」
いつの間にか凪の隣に立っていた菊枝が、静かに告げる。
その声は驚くほど冷静で、澄んでいた。
「あれは泉守道者。黄泉に属する、道の番人です」
今度は凪の目にも、はっきりと映った。
闇の奥から伸びる、無数の“手”。
そのすべてが、一斉にイザナミへと伸びる。
あるものは脚に。
あるものは胴に。
そしてあるものは首元に――
腕は四方八方から掴みかかり、その身体を社殿の闇へと引きずり込もうとする。
「やめなさい……! やめろ……っ!」
イザナミは叫び、でたらめに腕を振った。
何本かの腕が斬り落とされ、虚空へと消える。
だが――意味は、なかった。
斬っても斬っても、腕は無尽蔵に生え出てくる。
「あああああぁっっっっ!!!!」
髪を振り乱し、涙と怒りで顔を歪ませながら――イザナミは凪へと手を伸ばした。
「凪……!」
その声は、命令でも懇願でもない。
ただ置き去りにされることを怖がる子供のような、無垢な叫びだった。
――来るな!
凪は心の中でそう叫んでいた。
だが、その言葉は声にならなかった。
助けたい。
けれど、助けてはいけない。
「な、ぎ……」
ここで手を伸ばせば、彼女は救われる。
しかしそれは――また同じ悲劇を繰り返すことを意味する。
凪は、ゆっくりと目を伏せた。
呼び返しもしない。
拒絶もしない。
ただ黙って、静かに見送る――それが、今できる唯一の選択だった。
「凪……なぎ……っ!」
一歩。
また一歩。
引き戻されながら、なお前へ。
無数の腕を引きずりながら、イザナミは距離を縮めてくる。
彼女は、黄泉そのものに抗っている。
抗うことなど許されないはずの理に、必死で抵抗している。
その事実を前に、凪はただ立ち尽くしていた。
胸の奥で、消えたはずの何かがほんのかすかに軋む音を立てている。
凪は無意識に一歩、前へ踏み出していた。
それは救いなのか、拒絶なのか。
自分自身にも、よく分からなかった。
イザナミとの距離が少しずつ縮まっていく。
黄泉から伸びる腕の一本が、凪の足首に触れた。




