44 逆転の芽
「あの子も、殺したわ」
イザナミが静かに言い放った一言は、凪の心に深く突き刺さった。
風も、虫の声も――すべてが遠のき、視界から色が失われていく。
呆然と立ち尽くす凪に、イザナミは追い打ちをかけるように言葉を浴びせる。
「――だからもうこの時代にも、昭和にも、用はないの。
一緒に、平成に帰りましょ? 誰にも邪魔されない世界で、これからも私と――」
凪の耳に届く言葉は、まるで霧の中に見える幻のようだった。
意味は輪郭を失い、音だけが意識の外でむなしく反響する。
清吉は死んだ。
菊枝も、もうこの世にはいない。
やはり無理だったのだ、と凪は思う。
人が神に抗うなど、最初から許されていなかった。
何もかもが、もうどうでもいいと思えてくる。
すべてを諦め、この箱庭の中で同じ時間を繰り返す。
それが唯一残された未来なのだと、心が勝手に結論を出しかけた――その時だった。
「……おかしいな」
悟の声が、凪の意識を現実へ引き戻した。
「――は? 何が!?」
イザナミが眉をひそめ、苛立ちを滲ませる。
悟は周囲を一瞥し、淡々と続けた。
「菊枝を殺したって言う割には――死体がない。
清吉さんはあそこの木の上だ。
菊枝を守ろうとしていた清吉さんが、その側を離れるはずはないと思うんだけど」
「それは――!」
反論に転じようとするイザナミを、悟が先回りで制する。
「もちろん、どこか見えないところにあるという可能性はある。藪の中とか、社殿の裏とかね。
ただ――」
悟が半歩、横へ踏み出す。
それと同時に、イザナミがわずかに立ち位置を変えた。
「その動き。さっきから変だと思ってたんだ」
「――っ!?」
「イザナミは俺たちと社殿の間を塞ぐように立ってる。
まるで、社殿に近付かれたくない理由でもあるかのように」
イザナミの表情から、笑顔が剥がれ落ちる。
悟は、鋭く彼女を見据えた。
「凪、これはブラフだ。
この時代に未練がないように見せかけて、元の時代へ帰らせるためのね――」
深く息を吸い、悟は続けた。
「菊枝は生きてる。社殿の中だ。 “視える”というかなんというか――とにかく、俺にはその確信が持てるんだ」
沈黙が落ちる。
やがてイザナミは、諦めたように小さく息を吐いた。
「……やっぱり悟くんはすごいね。冷静で、頭がよくって――」
感心するような口調。
だが次の瞬間、その顔から一切の感情が消え失せた。
「ほんっと、鬱陶しい」
瞬間、空気が歪んだ。
巻き起こる突風がイザナミを中心に黒い渦を作る。
その中で、彼女が腕をすっと上げるのが見えた。
――来る!
凪は瞬間的に体を硬直させた。
だが、何も起こらない。
「なに、これ……」
困惑の声を上げるイザナミの視線は、悟に注がれていた。
悟自身も、信じられないものを見るように宙を見つめている。
「手が、見える……イザナミから、人の腕みたいなのが何本も……それを別の手が、押さえつけてる。
これ――俺の体から出てるのか!?」
「たくさんの……手!?」
凪の脳裏に、かつて見た光景がよみがえる。
平成でイザナミに追われていた時、確かに見た『無数の手』。
それは今の凪には見えない。
だが、未久の視線が悟に釘付けになっているのを見て、確信する。
――彼女にも、見えているのだ。
イザナミは悟を睨みつけ、忌々しそうに呟いた。
「ツクヨミ、か……」
次の瞬間、彼女の身体から黒い霧が噴き出した。
霧は宙を漂いながら凪たちの周りを取り囲み、寄り集まって形を持ち始める。
「黄泉醜女……!」
凪たちの周囲はあっという間に黒い影で埋め尽くされた。
無数の影が蠢きながら、じりじりと包囲を狭める。
影が凪たちを飲み込もうとする、その瞬間。
ブゥ……ン
低い唸りが空気を震わせた。
音の中心にいたのは未久だった。
全身を眩い光が包んでいる。
かつて闇を退けた、あの力だ。
その瞳に、恐怖や迷いの色はない。
たん、と軽く地面を蹴り、未久は一筋の光となって駆け出した。
輝く拳が次々と闇を打ち砕き、参道に光の軌跡が刻まれていく。
「こっちは、スサノオ……」
イザナミが呻く。
未久は瞬く間に全ての影を消し去った。
参道に再び静寂が戻る。
「紗名ちゃんを……返せ……」
未久の声は低く、震えていた。
真っ直ぐに射抜くような視線を受けて、イザナミの表情に動揺の色が浮かぶ。
崩れ始めた均衡。
イザナギの力は失われても――凪たちの希望はまだ潰えてはいない。




