43 失われた希望
「着いた……のか?」
石蓋を両手で押し上げ、井戸の外へと出る。
そこに広がっていたのは、見覚えのある神社の境内だった。
整然と並んだ石畳、静かに佇む社殿――崩壊の痕跡はどこにもない。
そして何より、ここには善三の姿がない。
それこそが、移動に成功したことの証だった。
「清吉さん、どこにいるんだろう……」
呟きながら凪は、境内へと足を踏み出した。
誕生日は明日だ。
イザナミが現れる前に、何とかして清吉たちと合流しなければならない。
「おそらくこのあたりか、近くの集落に――」
言いかけた、その時。
凪の視界の端に、何か異質なものが引っ掛かった。
「……なんだ、あれ」
空に向かって真っ直ぐに伸びるご神木。その中ほどに、ぼろ布のようなものが絡みついている。
凪は吸い寄せられるように近づいた。
距離が縮まるにつれ、それがただのぼろ布ではないことがはっきりしていく。
人、だ。
着物姿の男が、枝に引っ掛かるように宙吊りになっている。
不自然に折れ曲がった腕、力なく垂れ下がる脚。
乾ききらない血が幹を伝って、ぽたり、ぽたりと地面に落ちる。
「……っ」
声が、出なかった。
助けなければ――
そう思った瞬間、背後で空気が揺れた。
「凪……」
凪の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。
ゆっくり振り返ると、そこには社殿を背に立つ一人の少女の姿があった。
「……紗――」
「鏡、壊したはずなのに……どうやってここまで来たの?」
答えられない凪を見て、彼女はすぐに納得したように目を細めた。
「……ああ。あっちの時代の鏡、持ってきてたんだ。
でも、だったらなんでいつまでも昭和にいたの?」
「お前が鏡を壊したのは、無駄だったんだよ。鏡はもう――」
「――凪」
悟が小声で凪を制する。
その様子を見てイザナミが小さく息を吐いた。
「でも……遅かったね。もう、“終わった”から」
イザナミはご神木をちらりと見上げ、笑顔で言った。
「あれは……清吉さん、なのか……?」
問いかけるような呟きを受け、イザナミは凪へと視線を戻す。
「そ。やっと会えたじゃない」
軽やかな口調とは裏腹に、その言葉は刃のように胸を抉った。
「コイツね、前に私をあの石室に閉じ込めたんだ。
目覚めた“あの人”と共謀して、あの鏡を置いて監視までして――
だからね、私は逆に……おとなしくしてやったの」
イザナミは笑顔のまま、歌うように言葉を連ねる。
凪はそれを、ただ聞くことしかできなかった。
「おとなしくして、力をためて――最後にバーンって、全部解き放ってやった」
両手を広げる仕草が、ひどく無邪気だった。
凪の喉が、ひくりと鳴る。
「でね、それで死んじゃったと思ってたんだけど生きててさ。
またなんかこそこそ妙なことしてたみたいだから――」
イザナミは再び清吉に視線を向けると、淡々と告げた。
「今度こそちゃんと、殺してやった」
世界から、色が消えた気がした。
清吉という存在は、凪にとって希望そのものだった。
会うことができれば、何かが変わると信じていた。
その希望が今、無惨な姿で無造作に吊るされている。
「……じゃあ……イザナギ……は……」
「消えたよ」
あまりにもあっさりと、残酷なほど簡単に。
彼女はさらりと言い捨てた。
「清吉の中のも、凪の中のも。もう、“神様”なんていない」
膝から崩れ落ちそうになる。
イザナギが消え、残された自分は――抗う力も、守る力もない、ただの人間だ。
「でもね?」
イザナミは凪の顔をまじまじと見つめ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「これで、ずっと一緒にいられる。
もう十五歳まで、なんて縛りもない。凪が寿命で死ぬ、その日まで」
そう言ってイザナミは静かに一歩、凪との距離を詰める。
「大人になった凪と、大人になった私で――新しい思い出を作っていけるんだよ」
思考ごと押さえ込まれるような圧迫感。
その声は、狂気じみた幸福に満ちていた。
「最初から、こうしておけばよかった。
色々大変だったけど、この人が生きてることを知れたのは……収穫だった」
凪は残されたわずかな気力を振り絞り、声を震わせた。
「菊枝は……どこだ……」
「――あの子も、殺したわ」
一瞬の間を置いて、イザナミが言い放った一言。
それは呪詛のように重く、凪の心の最後の支えを音もなく断ち切った。




