41 歪んだ箱庭
――井戸が、爆発した。
善三の口から告げられたのは、あまりに現実離れした言葉だった。
すぐにその意味を理解することができず、凪はしばらく瞬きを繰り返す。
「……冗談、だよな?」
やっとのことで発した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
だが善三は表情を変えず、ただ首を横に振る。
その仕草だけで、冗談ではないことがはっきりと伝わってきた。
「――俺が毎日、神社を掃除しに行ってるのは知ってるだろ」
善三はそう前置きしてから、ゆっくりと語り始めた。
「今日も、普段と変わりはなかった。井戸の蓋も閉まっていたし、妙な気配もなかった」
いつも通りに善三が社殿の周囲を掃いていた、その時。
背後で腹の底まで届くような重たい音が響いたのだという。
「さっきの音だ……!」
凪の脳裏に、あの異様な音がよみがえる。
「振り返ったら、石蓋が吹き飛んでて……井戸から、闇が噴き上がってきた」
善三の喉が、こくりと鳴る。
「女、だった。真っ黒で、形だけが女の……目だけが、はっきりこっちを見てた。
黄泉醜女とはまったく別の……底知れない恐ろしさを感じた」
名を聞かずとも分かる。
井戸の底に眠るもの――いや、眠ってなどいなかったもの。
凪は無意識のうちに拳を握り締めていた。
「身構えた次の瞬間には、もういなかった。林の中に、溶けるみたいに消えたんだ」
あとに残ったのは、壊れた井戸と、異様な静けさだけ。
「それで――ほっとしたのはいいんだが、なんだか自分の体がえらく軽くてな……」
自分の身体が、自分のものではないような違和感があった。
視線を落とした先にあったのは、若々しい手。
節くれだった指も、鍛えられた筋肉もない、少年の手だった。
善三はすぐさま走り出し、山を降りて凪たちのもとへ辿り着く。それが、つい先ほどの出来事だ。
未久が、ぎゅっと悟の袖を掴む。
凪は顎に手を当て、記憶の糸を辿るように呟いた。
「清吉さんが、言ってた。
前にイザナミが力を爆発させた時も、『時間の流れが歪んだ』って……」
千引の岩で組まれた石室ですら打ち破るほどの力。
周囲の“理”が、無事でいられるはずもない。
「じいちゃんの『時間』が、持っていかれた……?」
沈黙が落ちる。
しばしの無言の後、悟が何かに気づいたように顔を上げた。
「でも……そうか。分かった気がする」
「何がだよ」
「もしかしたら……この『若返り』は、起こるべくして起こった事なのかもしれない」
「はあ!? どういうことだよ」
悟はまっすぐに凪の目を見つめ、ゆっくりと話し始めた。
「善三さんには、子供がいなかった。
もし水害で命を落とす運命のままだったとしたら、凪のお父さんも凪本人も生まれないことになるんだ」
その一言に、凪の思考が止まった。
胸の奥が、不気味なほど静まり返る。
「……でも、俺はここにいる」
「そう」
悟は頷く。
「それが既におかしな話なんだよ。
善三さんが死んでいる未来と、凪が生まれている未来。
その二つは本来、同時に存在できない」
「そんな――なんで」
「善三さんの奥さん――お前の“おばあさん”について、覚えているか?」
「あ……」
記憶が、ない。
抜け落ちているのではなく、最初から、ない。
覚えているのは仏壇にある祖父の写真と、水害を回避して現代まで生き延びた姿。
そのどちらにも祖母の記憶が絡んでこない。
「え? え? どういう……あれ? いるよな? ばあちゃん」
凪の視線が空を泳ぐ。
「おかしいだろっ! ばあちゃんの記憶だけが、綺麗に抜け落ちるなんて」
「普通ならね。でも――」
悟は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「イザナミが関わっていたなら、話は別だ。“存在するはずのものを見えなくする”ことくらい、造作もない」
「イザ、ナミの……?」
「あの井戸と同じだ」
悟の声が、鋭く核心を突く。
菊枝と繋がる鏡のあった地下室。
子供の頃から遊び場にしていたはずの神社で、誰も地下に続く井戸の存在に気づけなかった。
それらはすべて、イザナミによる認識阻害。
辻褄の合わない事実を『そういうものだ』と無理やり脳にねじ込まれていたのだ。
「俺たちがいた世界は、イザナミの執念だけで維持されていた、継ぎ接ぎだらけの『歪んだ箱庭』だったんだよ」
悟は、少年の姿になった善三へと視線を投げる。
「でも――今は違う。凪が鏡を通じて水害を知らせ、善三さんは生き延びた。死ぬはずの運命を回避したんだ」
少年にまで若返ってしまった善三はやがて成長して、家庭を持ち、凪へと繋がる命を育む。
それこそが『本来あるべき歴史』だというのか。
「俺たちがこの時代に来たのも、善三さんが若返ったのも――全てが偶然じゃない。俺たちは今、初めてイザナミが描いた筋書きを外れて、あるべき『正史』を歩き始めたんだ」
全てが一本の線で繋がる。
イザナミがひた隠しにしてきた歪みが解消され、世界が正しい形を取り戻そうと軋みを上げている。
「ああー、もう!!」
凪は顔を上げ、乱暴に頭を振った。
「考えてもキリない! これが『正しいルート』だっていうなら、進むだけだ。
まずは井戸、確かめに行かないと!」
「ええっ、行くのぉ!?」
未久が思わず声を上げる。
「鏡、回収できるかもしれないだろ!」
鏡を二枚揃えることができれば、清吉のもとへ飛べる。
その可能性を信じて、善三が駆け下りてきた道を全員で駆け上がる。
いつもと同じはずの山道が、やたらと長く感じられた。
足を踏み出すたびに、胸の奥で何かが不規則に脈打つ。
それは恐怖のせいではない。
――決着を、つける。
凪の内側で眠っていた何かが、ゆっくりと身じろぎをするように胎動していた。
歪んだ箱庭は、もう保たれない。
井戸の底から解き放たれた“闇”自身が、そのことを誰よりもよく知っているはずだった。




