40 解き放たれし厄
山あいの村には、今日も穏やかな朝日が差し込んでいた。
幾重にも連なる山々は白く霞み、上空では鳶が悠然と円を描く。
水路を流れる水の音はどこまでも清らかで、聞いているだけで心まで洗われるようだ。
凪たちは、八尋家の裏手にある畑に出ていた。
この家に身を寄せてから数日。
世話になりっぱなしというわけにもいかず、こうして毎日農作業を手伝っている。
鍬が土を割る、鈍く湿った音。
掘り返された黒土の匂い。
牛馬の低い鼻息。
初めは戸惑うばかりだった感覚も、今では驚くほど自然に身体に馴染んでいた。
「――よい、しょっと」
可愛らしい掛け声と同時に、ずしん、と重い音が響く。
凪が呆れ顔で視線を向ける先では、未久が等間隔に並んだ杭を素手で次々と引き抜いていた。
土中に深々と打ち込まれた木の杭が、まるで雑草でも抜くかのように軽々と宙を舞う。
「……おい、みっこ」
「ん? なーに?」
未久はきょとんとした顔で振り返る。
あの日――曳石神社で黄泉醜女の群れを退けて以来、未久は自分の中に宿る力を自然に引き出せるようになっていた。
あの時は拳だけが光っていたが、今では力を使えば全身が光り輝く。
あどけない少女の姿から溢れ出す、神々しいまでの光。
日常と非日常が衝突事故を起こしたかのようなその光景に、凪は小さく息を吐いた。
「その力さ……あんまり使いすぎない方がいいんじゃないか」
「なんでー? 便利だよ?」
「凪の言う通りかもしれないな。『力』については、慎重になった方がいい」
畝を整えていた悟が、鍬を止めて口を挟む。
「そうだぞみっこ。もし『使ったら減る』タイプの力だったらどうするんだよ!?」
「――え?」
凪の言葉に、未久の動きがぴたりと止まった。
「使ったら……減る?」
「バッテリーみたいに容量が決まってて、使い切ったら二度と使えないとか……力を使うたびに寿命が削れるとか」
「ええええええっ!!??」
未久は目を丸くして、自分の両手を凝視した。
ブン、と風を切る音とともに、身体を包んでいた光が瞬時に消える。
「減るのぉ!? 寿命も!? それ、もっと早く言ってよぉ!」
「……いや、あくまで『もしも』の話だよ」
悟が苦笑混じりに補足する。
「――どんな力かわからないんだから、いざという時のために温存しておいた方がいい」
「……もぉー! 脅かさないでよっ!」
頬を膨らませる未久の姿に、わずかな笑いが生まれる。
だがその笑顔の裏では――誰もが拭いきれない不安を抱えていた。
イザナミは、まだ井戸の中にいる。
それだけは確かな事実だ。
しかし――状況は、何ひとつ好転していない。
農作業の手伝いは、毎日午前の間だけ。
その後の時間は清吉と情報交換を行い、この時代でできる限りの情報収集を続けている。
だがその成果は、ほとんどなかった。
そのまま一日が過ぎ、二日が過ぎ……
とうとう凪の誕生日まで、あと一日となった。
「明日になったら、凪ちゃん神様になるんでしょ?」
畦に腰を下ろし、未久が無邪気に言う。
その問いに、凪はすぐに答えられなかった。
今のイザナミに、イザナギ一人で立ち向かうのは無理だ――清吉はそう断言していた。
たとえ凪の中の神格が覚醒したとしても、勝ち目は薄い。
そこに未久の力が加わったところで……結果は変わらないだろう。
唯一の勝ち筋は、江戸時代にいる清吉のイザナギと合流すること。
だが鏡は揃わず、移動手段はない。
届かない過去。
帰れない未来。
八方塞がりの閉塞感が、真綿で首を絞めるようにじわじわと胸を締めつける。
「……何か、方法があるはずだ」
凪が自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
空にドーン、と低く重い音が響き渡る。
「……!? なんだ!?」
「狩猟の鉄砲……とか?」
誰も確信を持てないまま、作業の手が止まる。
続けて二度、三度。
音は何度か間を置いて響き、やがて途切れた。
「……なんだったんだ?」
音は、山の中から聞こえたような気がする。
一応、あとで善三に確かめてみるべきだろう。
言葉少なに作業へと戻る凪たちであったが、その胸の奥には消えることのないざわめきが残った。
それから三十分ほど経った頃。
畦道の向こうから走ってくる人影に、凪たちは再び作業の手を止めた。
「凪! 凪!!」
切羽詰まった叫び声。
「……誰?」
目を凝らすと、その姿は少年のように見えた。
年の頃は凪たちよりも少し下だろうか。
絣模様の野良着はぶかぶかで、明らかに体に合っていない。
しかしその顔には――言いようのない既視感があった。
「――俺だ! 善三だ!」
「ぅえええええぇっ!!??」
少年は、はっきりとそう名乗った。
凪の祖父、善三。
確かにこの時代の善三は若かったが、これはさすがに若すぎる。
「曳石神社へ行ってたんだが、井戸が、井戸が――」
息を切らしながら、善三は叫んだ。
「爆発した!」
穏やかだった朝が、音を立てて崩れ落ちる。
封じたはずの厄が――解き放たれてしまった。




